序章:ノチェロの惨禍
序章
『ノチェロの惨禍』
かつてそこには二人の女神がいた。一人は生と光を司る、安寧と秩序の女神アルブス。そしてもう一人は死と闇、混沌と破壊を司る女神アーテル。二人の創世の女神は混沌を産み、大地が産まれ、そして世界が作られた。
『アルブスは光を産み、アーテルは混沌を紡ぐ。天秤が傾く時、神の鎖は天倫を紡ぎ、選択の時が訪れる』
かつて世界は女神によって生み出され、
もう一人の女神によって滅ぼされた
人は滅びに瀕し、女神に祈りを捧げ、
女神は再び世界に息吹を吹き込んだ
それは幾度と無く語り継がれたお伽話
それは幾度となく繰り返された世界の記憶
全ては少女の中に
*
一人の青年が闇を走り、その隣に小さな少女が続く。
「こっちだ!」
青年が叫ぶと、傍らにいた少女の手を引きながら雨の中を走る。雨音が二人の足音を消し、夜の闇が二人の姿を隠す。路地に駆け込んだ二人は周囲に人の気配が無いことを確認し、闇に隠れるように身をかがめた。
「よし……これで追っ手は撒いたようだな。お嬢ちゃんは大丈夫か?」
「……問題ない。それよりも貴様こそ逃げた方がいいんじゃないのか? このままだと確実に殺されるぞ?」
「おいおい、いい加減俺の名前はディサノーロって呼んでくれよ」
少女の言葉に青年は小さく安堵の溜息を付きながら、慎重に周囲を見渡し始める。そんな青年――ディサノーロを一瞥して少女が小さな声で呟く。
「……そもそもお前には関係のないことだ。何故私に構う? お前とて教会の聖堂騎士を相手にするということが何を意味するか理解できぬ訳でもあるまい? これからノチェロに近づくほど奴らも増える。死にたくなければさっさと消えろ」
その言葉にディサノーロは一瞬驚いた表情を見せ、次の瞬間少女に向かってほほえみかける。
「おいおい……こんなに小さな子が教会の連中に追われてるのを放っておけるかよ。訳ありなんだろうが、どうせ連中に捕まっちまったら異端審問にかけられて拷問されるか殺されるかだろ? それでも嬢ちゃんはノチェロに行かなきゃならねえんだろ? だとしたら見過ごせねえ。ただそれだけだ」
その言葉に少女は驚いた表情を浮かべてディサノーロを見つめ、呆れた様子で呟いた。
「お前……そんな理由で私を助けたのか? 長くは生きられんな」
「ははっ、そうかもな。じゃあ二人共生き残るために、そろそろこの街からとんずらしようかね。そしたら嬢ちゃんがなんでノチェロに行かなきゃならねえのか教えてくれよ?」
「ふん……お前には関係のないことだ」
ディサノーロはそう言うと立ち上がり、少女も小さく頷くとそれに続く。二人は夜の闇に紛れて街の入り口へと向かっていた。
「よし、今なら門番が少ない。さっさと倒してずらかろうぜ」
門の目の前までやってきた二人は物陰に潜みながらその様子を注意深く伺っていた。ディサノーロが腰の剣に手をあてて緊張気味に呟き、少女も小さく首を縦にふる。ディサノーロは手慣れた様子で闇に紛れて門番に忍び寄ると、一瞬で二人の門番を鞘で殴りつけて昏倒させる。
ディサノーロはそのまま周囲を一瞥すると、物陰からそれを見守っていた少女に向かって手で合図を送る。合図を受けて少女が門に向かって走りだしたその瞬間、ディサノーロの胸を一条の光が貫いた。
「あっ?」
「っ!」
ディサノーロは一瞬何が起きたのか理解できない様子で自分の胸を見つめる。ディサノーロの肩にはどこから飛来したのか、一本の眩い輝きを放つ槍が突き刺さっていた。その光景に思わず少女が息を呑み、一方のディサノーロは事態を理解したのか大声で叫ぶ。
「待ちぶせしてやがった! 嬢ちゃん! 逃げろ!」
ディサノーロが叫んだ瞬間、白銀に輝く槍がディサノーロに向かって降り注いだ。
「ちっ! 舐めんな!」
ディサノーロは咄嗟に突き刺さった槍を引き抜くと、飛来する槍を剣で叩き落とす。ディサノーロはそのまま夜の闇に向かって叫ぶ。
「こんな小さな嬢ちゃんを寄ってたかって殺そうたあ、教会も随分と良い趣味をお持ちのようで。だが嬢ちゃんは殺させねえよ」
ディサノーロはゆっくりと少女を庇うようにその前に立つと、緊張気味に剣を構える。その瞬間、二人の周囲の大気が大きく揺れた。何かに気がついた少女が叫ぼうとしたその瞬間、ディサノーロの右手がいきなり炎に包まれた。
「ぐああ!」
ディサノーロが苦悶の表情で叫んで思わずその場に膝を付く。炎に包まれた腕は一瞬の内に炭化しており、その光景にディサノーロが苦痛に顔をしかめながら呟いた。
「くそっ! 女神アルブスの加護か……」
苦しそうに呟くディサノーロの足元にどこから飛来したのか一本の矢が突き刺さる。それを見た瞬間、少女が思わず叫ぶ。
「いかん! 跳べ!」
少女が叫んだ瞬間、ディサノーロの足元に突き刺さった矢から氷が生み出された。氷は瞬く間に巨大な氷筍へと姿を変え、その先端は鋭く尖り、一瞬にして周囲の全てを無造作に貫いていく。
「嬢ちゃん……にげ……」
氷はディサノーロの全身を貫き、ディサノーロは口から大量の血を吐きながら小さく声を漏らす。その足元にはおびただしい量の血が流れ落ち、ゆっくりと地面に赤い川を作る。ディサノーロは咳き込むように口から大量の血を吐くと、そのままゆっくりと崩れ落ちた。
「よし、今だ! 囲め!」
少女がディサノーロを見つめながら呆然と立ち尽くしていると、突如闇の中から純白の鎧に身を包んだ騎士達が現れ、少女を取り囲む。
「もう逃さんぞ! 神聖なる女神アルブスに背き忌まわしき邪教徒。闇の女神アーテルの走狗、悪魔の右手よ! 貴様にノチェロに行かせるわけにはいかん」
騎士達は少女に剣を突きつけて叫ぶが、一方の少女はディサノーロを見つめたまま動かない。すると騎士の一人が何かを口早に唱え始めたかと思うと、次の瞬間、騎士の左手に眩いばかりの光が宿る。騎士は左手を夜空に掲げると大きく叫ぶ。
「女神アルブスの御名の下に、今ここで邪悪を打ち払わん!」
騎士が叫ぶと同時に、その左手に集まっていた光が四散し、それぞれの騎士達の持つ剣に吸い込まれていく。光を受けた剣は暗闇に淡い輝きを宿し、ゆっくりと明滅を繰り返す。
「殺せ!」
誰かの号令とともに、騎士達が一斉に少女に向かって襲いかかる。騎士達は鎧を着ていることを感じさせない動きで一瞬で少女に肉薄すると、その首元めがけて剣を振り下ろす。
「くっ!」
少女が咄嗟にそれをしゃがんで交わすと、騎士の剣は少女の後ろにあった石の柱に吸い込まれ――そのまま門柱を音もなく切断した。その光景に少女が小さく舌打ちをすると、今度は横に構えていた騎士が少女に向かって剣を振り下ろす。
少女は咄嗟に身をひねってそれをかわすと、騎士の剣は淡い輝きを虚空に刻みながら、地面に敷き詰められた石畳を事も無げに切り裂いていく。その光景に少女が思わず呟いた。
「……その輝き、剣に女神の加護を乗せているか。アルブスも自分の与えた力がまさかこのような蛮行に使われていると知ったらさぞ嘆くだろうな」
少女は淡く輝く騎士の剣を見つめながらいたずらっぽく笑う。そんな少女の言葉に騎士が静かに語る。
「この力は……貴様のような女神の怨敵を打ち払うための救世の力。女神アルブスは光を生み、秩序を生んだ。貴様ら邪悪に我々人の築き上げたこの世界を壊させる訳にはいかん!」
「……邪悪とは言ってくれるな。私が一体何をした? それに貴様らはどうだ? 村を焼き、こうして多くの関係の無い者を殺してきたではないか。それが救世だと? 笑わせる」
少女は既に事切れているディサノーロの骸を見つめながら嘲るように笑う。
「その男は貴様を助けた。それは女神アルブスに、ひいては世界に弓引くことに他ならん。闇の女神に惑わされた哀れな魂は女神の名の下に浄化せねばならん。貴様に再びノチェロの惨禍を引き起こさせる訳にはいかん!」
「……抱きしめたくなるほど哀れだな。女神の加護を持ちながらも貴様らは何も、何一つ分かっていない。私が世界を選ぶのではない。世界の意思が明日を選ぶのだ。私はただその声を聞くだけに過ぎん」
少女がそう言った瞬間、その右手が眩いばかりの輝きを放ち、その手に銀色に輝く鎖が出現した。鎖は右手に巻き付いており、その先端には先の尖った三角錐の分銅が揺れている。その光景に騎士達が動揺の声をあげる。
「あれが噂に聞く闇の女神の……加護の力?」
「そうだ……貴様らと同じだ。ただし私の場合は少し偏っているがな……」
少女がそう呟くと、その手に巻き付いた鎖が少女の足元に突き刺さる。その瞬間、騎士達の足元に巨大な魔法陣が浮かび上がり、そこから凄まじい勢いで黒い霧が吹き出した。霧は一瞬にして騎士達を包み込み、霧に包まれた騎士達が突然苦しみだす。
騎士達は自らの首をつかんで苦しそうに左右に首を振り、次の瞬間、騎士達の体がその動きを止める。騎士達は声にならない絶叫をあげてその場に崩れ落ち、その表情は一様に恐怖に染まっていた。少女はその光景を眉一つ動かさずに見つめ、抑揚のない声で呟いた。
「……貴様らの魂を『削った』。しばらくはそこで寝ているんだな……」
程なくして周囲を覆う霧は消え去り、少女を取り囲んでいた騎士達は遍く地面に倒れて動かない。少女はそんな騎士達を横目に、既に事切れているディサノーロの体を優しく撫でると、抑揚のない声で呟いた。
「……だから言っただろう? 私に関わると死が舞い込んでくると。お前はこうして死に、私の敵は私が倒した。なんとも滑稽な話だな……」
少女はディサノーロの頬をゆっくりと撫でると、その体を貫いている氷柱を一本一本引き抜き始める。そしてディサノーロの骸を地面に寝かせると、優しくその体を抱きしめる。
その瞬間、少女の右手に巻き付いた鎖が一瞬強く明滅する。その輝きはいつしか少女の体を覆い、少女に抱きかかえられたディサノーロの体も淡い輝きを宿す。次の瞬間、ディサノーロの体は小さな光の粒となって霧散した。
光は降りしきる雨の中をまるで蛍のように舞い、その様を見つめて少女は小さな声で呟いた。
「……許してくれ。私のせいで……お前は死んでしまった。そしてありがとう。お前の優しい魂は決して忘れない……」
光はゆっくりと少女の右手に集まり、その肌に触れると吸い込まれるように消えていった。降りしきる雨が少女の頬を伝う涙をかき消し、少女はその日、街から消えた。