本来の自分を思い出す
4月4日。
主婦のサオリは、今日も下の子の慣らし保育の合間に近所の河原にやってきていた。
今日でこの河原に来るのも三日目だ。
サオリは、この慣らし保育に預けている一時間半の時間がとても楽しみになっていた。
昨日はコンビニでアイスコーヒーを買って行ったが、今日のサオリは荷物の準備も万端だ。
大きなエコバッグの中には、家族4人で座るのに十分な大きさのピンクのレジャーシート、
長女のために買ってあったスケッチブック、
長女が何かの景品でもらった色鉛筆セットだ。
気づけば下の子の保育園の荷物よりも大荷物になってしまった。
子ども達の朝ごはんに自分を入れた三人分の身支度をし、ドタバタした朝はあっという間に過ぎていった。
サオリはコンビニでおにぎりとお茶を買い、河原の土手沿いにママチャリを停め、昨日と同じ川沿いの近くにレジャーシートを敷いた。
普段は家族四人が座るのにちょうどいい大きさのレジャーシートだったので、さすがに一人で座るのに少し恥ずかしさを感じたサオリは半分の大きさに折って座った。
サオリはコンビニで買った梅干しのおにぎりの袋を開けると、口いっぱいに頬張った。
今日もお日様の日差しはじわじわと暑く、初夏の陽気だ。
おにぎりと一緒に買った冷たい緑茶がいつもよりも美味しく感じた。
川の水辺を眺めながらゆっくりと食べるおにぎりは最高だった。
普段のサオリの朝はと言うと、
一歳半の下の子の食事を食べさせ、上の子の「ママ見て」のアピールにも目を配り、目の前の食事はあっという間にサオリのお腹に入っていることが多い。
サオリは、食をゆっくり味わうということにとても至福を感じた。
サオリは、この妻でも母でもない、ただのわたしでいられる時間をもっと楽しもうと思っていた。
今日持ってきたスケッチブックはそのためだ。
自分の見たものをそのまま描きたい、
誰の目も気にせずに思いきり描いてみたい、
そう思ったのだ。
小さい頃のサオリは、絵が特別得意なわけでもなかった。
上手な絵を描く友達はまわりにたくさんいたし、自分も絵を描くということ自体そこまで好きでもなかった。
そもそも、何を描いていいのかわからなかったからだ。
サオリは厳しい父親と心配性の母親の元、三人兄弟の長女として育った。
父の躾も厳しかったため、家庭内での禁止事項が多かった。
また、外の大人達からはしっかり者として評価されてきたからか、そのままの自分を表現することを常にためらってきたのだ。
サオリは、自分のしたいことをためらっていくうちに、自分が何をしたかったのか、何を表現したいのかを忘れてしまった。
そして、常に人からの目や評価を気にして生きるようになっていた。
親元にいる時は親からの目、
学校にいる時は先生と同級生からの目、
会社に就職した時は上司や同僚の目、
結婚し出産してからはママ友からの目。
サオリは、いつも誰かからの言動に一喜一憂してきた。
けれど、ここの河原に来てからのサオリは、少しずつ変化していた。
自分一人でいる時だけは何からも自由だった。
それは、「ただのわたし」でいられるからだった。
サオリが「ただのわたし」でいる時、
目に映るすべての景色が、いつもよりも明るく感じられる。
耳にする音もいつもよりたくさんの音が聴こえてくる。
人の目や言葉がどうでもよくなる。
サオリ以外のすべてが風景なのだ。
サオリの中から、この一瞬の風景を描きたいという熱いものが湧き上がってきた。
エコバッグから白いスケッチブックと色鉛筆を出すと、そこからは一気に描きあげた。
自分でもこんなに手が早く動くのかと驚くほど、それはもう自動書記のように描いて、描いて、描きまくる。
真っ白だったスケッチブックには、川の水辺に飛び跳ねる魚と、
魚の跳ねた水面の流れ、
土手に生える木々たち、
どれもよくある風景だったが、
この風景を描いている時のサオリは幸せだった。
自分が見たものを自由に表現するって、すごく気持ちがいい!
「もっともっと、表現したい。」
サオリのお腹らへんからそんな声が聞こえた。
気がつくと、保育園のお迎えまであと五分だった。
サオリは急いで荷物を片付けると、土手沿いに停めたママチャリまで急ぎ足で歩いた。
サオリはもう一度河原を振り返ると、高く上がったお日様の日差しが水辺をキラキラと照らしていた。
水辺にキラキラ輝くお日様の光は、サオリを応援して見送ってくれているようだった。
そしてまた河原に背を向けると、サオリを乗せたママチャリは、颯爽と土手の坂道を下っていった。
そこには、昨日よりも体が軽く感じる自分がいた。
本来の自分でいる時に出てくる純粋な気持ちを表現しました。