笑顔
一昨日、昨日と降り続いた大雨が嘘のような、本当にいい天気だった。
「布団でも干しますか」
独り言を言いながら、ベランダの窓を開ける。
「先に手すりを拭かなくちゃ」
私は雑巾を手にして、つっかけを履いた。大きく息を吸い込み、伸びをする。マンションの8階。6階建ての隣のビルの屋上が、ちょうど真下に見える。
手すりに雑巾を乗せた時、男と女の言い争う声が聞こえた。どうやら隣のビルらしい。手すり越しに覗き込むと、屋上で揉み合う男女が見える。しばらく見守っていた私は、あっと息を飲んだ。
ドサッという音、人々の悲鳴。
屋上にひとり残された男が、ふと顔を上げた。動くことの出来ない私と目が合う。次の瞬間、男はにっこりと微笑んだ。
――朝日に照らし出された、その笑顔。
震えが止まらない私に背中を向け、男は何ごともなかったかのように屋上を去った。
+++++++++++++++
「お願いします。目撃されたことを話して下さい」
夜になり、2人の刑事が訪ねてきた。
「私は何も見ていませんけど」
さっきから、同じ答えを繰り返す。かかわり合う気は全くなかった。
「しかし、ベランダに立っているあなたのお姿を、見たという方がいらっしゃるんですよ」
若い方の刑事が、いらいらと私の顔を見る。私は困った様子で微笑んだ。
「人違いじゃありませんか? 私は午前中ずっと、奥の部屋で音楽を聴いていましたから」
「しかし……」
なおも責めようとするその男を、年配の刑事が制した。
「女性がビルから落ちた時、路上にいた人が上を見上げましてね。向側のマンションのベランダで、あなたを見たと言うんですよ」
刑事は優しい声で諭すように言う。
「なぜ、私だと?」
尋ねると、その刑事は答えた。
「あのビルに面したベランダを持つお部屋の住人で、今日の午前中に在宅していたのは、あなた1人なのです」
「どうして、そう言い切れるんですか?」
私の言葉を無視して、若い刑事が言う。
「かかわるのが嫌だ、というお気持ちはわかります。でも、彼女が突き落とされたのは確実なんです。つまり、これは殺人事件です。ご協力をお願いしたいのですが」
黙り込んだ私に対し、今度は年配の刑事が話しかけてきた。
「突き落とされた女性は、不倫で悩んでいたそうです。今日も、その相手と話し合って来ると言って、家を出ました。彼女の命を奪ったのは、その男と考えて間違いないでしょう」
「それなら、その男性を捕まえればいいじゃありませんか」
私が答えると、彼は眉間に皺を寄せて首を横に振った。
「我々も手を尽くして捜査しているのですが、その男は余程注意深かったらしくて。人物を特定するようなものが、何ひとつ見つからないのです。あなたがもし、その男の顔を見ているのであれば、モンタージュだけでも作らせていただけたらと」
「あなたのご協力ひとつで、事件が解決するのです。お願い致します」
若い刑事が頭を下げる。私は目を閉じた。
――脳裏によみがえる、あの笑顔。
「ただいま」
ちょうどその時、夫が勤め先から帰って来た。玄関先にいる2人の男を見て、驚いた顔をする。
「刑事さんよ。お隣のビルで、何か事件があったらしくて」
私が説明すると、2人は軽く頭を下げた。夫も軽く下げ返す。
「奥様にご協力をお願いしていたのです。犯人の顔を、見ておられるのではと思われますので」
年配の刑事の言葉に、夫は私の顔を見た。
「そうなのか?」
私は首を横に振った。
「何も見ていないわ。さっきからそう言っているんだけど」
夫は刑事達の方を向く。
「妻はこう申していますが。まだ何か?」
2人の刑事は顔を見合わせると、諦めたように頷き、挨拶をして出て行った。
ドアに鍵をかけ、居間に戻る。一足先に戻っていた夫が、脱いだ上着をソファの背に掛けているところだった。
「下にもいっぱい、マスコミが来ていたよ。取材に来るやつがいるかもしれないな」
夫が話しかけて来る。私は彼の目を見つめた。
「たとえ見ていたとしても、何も話す気はないわ」
「そうか」
夫は私の方を見て、にっこり微笑む。
――私が大好きな、この笑顔。
「すぐにご飯にするからね」
ソファに座って新聞を広げる夫に声をかけ、キッチンへと入る。クリームシチューを温め直しながら、私はそっと微笑んだ。
「だって、あなたは私を選んでくれたんだもの」
<了>