cathode 1
米沢大輔はチャイムを鳴らした。
道路は夏の陽射しに熱せられ、干からびてミイラとなったミミズが土に還ることも出来ずにへばりついていた。公園では子供連れの主婦達が日陰で立ち話をしている。米沢は子供達が熱中症になっても気づかれないのではないかと心配になった。
インターホンの向こう側では何も反応がなかった。一ヶ月前は、呼んでおいて出ないなんて、と憤ったがもう慣れてしまった。そういえば、と米沢は思った。この家の主人の声さえ聞いたことがない。配達を受け付ける電話も店長がでていたはずだ。いつものように玄関の脇に弁当を置く。幕の内弁当。代わりに玄関脇においてある小銭を受け取る。ぴったり三百五十円。昨日はハンバーグ弁当だったはずだ。
米沢が働いている「スマイリー弁当」は配達も受け付けていて、米沢は白いスクーターに乗って弁当を運ばなければならなかった。夏場はヘルメットの中が蒸れて、気持ちよくはない。しかし楽な仕事などないのだ、と割り切って炎天下を走る。
この家は電話での注文はあるのだが、弁当を受け取った事は一度もない。ふしぎではあったが、ふしぎなことを一つ一つ調べていたらきりがない、と米沢はまたしても割り切った。謎を追っていて気が付けば人生が終わっていた、なんてことにもなりかねない、と。
米沢は、ふと過去のことを思い出した。今は別れた恋人のことだ。優子とゆう、大学教授の一人娘だった。色白の肌が、黒々とした髪と黒い大きなひとみを際立たせていた。「あなたは割り切った振りをして、物事から逃げているのよ」と彼女は言った。彼女は教授である父親の影響なのか、いつも冷静に的確な言葉を話した。米沢は「逃げているのよ」と断言されたとき、反論の言葉が見つからず苦笑した記憶がある。たしかにそうかもしれない。面倒臭がって、逃げているのだ。
しまった、と思った。無駄なことを考えていて、そこに立ち尽くしていた。配達は時間が命なんだぞ、と店長の金子にネチネチ言われるのも面白くない。金子は何故か学生にやさしくなかった。すぐに「スマイリー弁当」と書かれたスクーターに戻る。乗る前に次の配達場所を確認しているときにその男と、目が合った。
米沢が人を純粋に「怖い」と思ったのはひさしぶりだった。男、とゆうより少年と言う方が合っていると思ったのは少したってからだった。少年はの前髪は目の下までかかっていたが、暗い、そして鋭いひとみは隠せていなかった。そのひとみは真っ黒で、深く、広い宇宙を思わせた。米沢は少年から目をそらせずにいた。逃げれば追って来る獣のようでもあったからかもしれない。
「なんだよ、あんた」
その声はふつうの高校生のようで、米沢は少し安堵を感じた。「いえ、すみません、何でも・・・」ジロジロ見ていたのはこっちなのであやまる。さっさとこの場を離れたかった。スクーターに乗ろうとすると、少年が声をかけてきた。
「ちょっと待てよ」配達に行かなければならないのに、と米沢は思った。しかしそれ以上に少年のひとみから逃れたかった。
「てめえだな」と少年は言った。
「え?」と言うしかない。
「俺のまわりをうろちょろしてやがったのは」
米沢は誤解だ、とか人違いだ、と思う前に逃げよう、と思った。この人間は危険だ。
その直感は正しかった。少年がジーンズのポケットから出した手にはバタフライナイフが握られていた。少年の目は正常な人間のものではなかった。
米沢は声も出なかった。スクーターには乗らずに、走って逃げた。防衛本能に従い、走った。
恐怖で何も聞こえない。とにかく逃げるのだ。あの怪物から。
これも本能だろうか。公園に逃げた。人がいる方へ。公園の柵を飛び越えようとしたときにつま先を引っかけ、転んでしまった。慌てて後ろを見た。あの少年は踵をかえして走っていった。
米沢は夏の陽炎に少年がのみこまれていくまでその背中を見ていた。
少年が見えなくなり、安心した米沢に恐怖のため失っていた五感が戻ってきた。せみの声が聞こえる。公園をみる。何事かと目をむいた主婦達が無遠慮に米沢を見ていた。立とうとしたが腰が抜けてしまっていた。人生で初めての経験だった。
それにしても、と米沢は思った。幻覚でも見ていたのだろうか。今の出来事が現実ではないような気がした。しかし少年の目を思い出して、汗を垂らしながらも、背筋がふるえた。