冬の日差しに甘く香る背
人間の手は、不用心なものだ。
本人は隠しているつもりでも、手から感情が漏れているのである。
人の指先や手のひらに触れるだけで、私はその人間が抱く感情を知ることができた。怒りであるのか悲しみであるのか照れであるのか、喜びであるのかわかるのだ。
例え表情を消したところで、隠せるはずもない。感情は、手から漏れている。
四足歩行を捨てた人間は、素面こそずいぶんお上手になったものだが、指先からの感情の露出に気づいていない。
何とも情けない話である。
四足歩行の伝統を守る由緒正しき猫の私は、そんな風に人間をあざ笑って冬の日向の中で長い欠伸をする。
生き物としてはすでに欠落した人間ではあるが、中には誉めてしかるべき個体もある。それは丁寧な人間と、優しい人間と、穏やかな人間だ。
「まあ猫ちゃん、ごきげんよう」
この婆さんは、その上流に位置する。
「今日もきれいな毛並みね。触ってもよろしくて?」
鶏ガラみたいな体を折り曲げて、彼女は必ず私の前で帽子をはずしてみせるのだ。冬ならば、必ず手袋もはずす。ぱちぱちと光る、無粋な音を私が嫌がる事を知っているのである。
そして彼女は、私のご機嫌を伺ってから、指をゆっくりとのばしてくる。それは春でも夏でも秋でも冬でも変わらない。
真っ白な頭に小さな体。顔は皺まみれ。いつも黒い陰気くさい服をまとって、それでも笑顔は絶やさない。
猫ちゃん。という言いぐさは気にくわないが、その撫で方は悪くないので私は黙って頭を差し出す。
彼女はまるで宝物にでも触れるように、私の頭をそっと撫でた。
指先で首筋をなで上げ、遠慮がちにころころと指を転がす。悪くはない撫で方なので、私の喉も自然に鳴る。
この喉の音を「甘え」と取る人間もいるようだが、とんでもない話である。これはただの「許し」である。触れる事を許可するための、「許し」だ。
その許しが出ると、彼女はようやく安堵したように腰を深々と下ろす。そして掌で私の頭を包み込み、薬指で耳元を軽く撫でる。さらに、その手はゆっくりと背に滑り落ち、優しく尾のあたりまでなで上げる。
彼女が逆の手に持つ小さな花束が、私の鼻をくすぐった。それさえも、心地がいい。彼女は撫で方が、天才的にうまいのだ。
この些細な触れ合いは、私がここに越してきた五年前より続いている。野良猫との壮絶な戦いののち勝利し、私がここいら一帯の主となった頃から変わらず続く挨拶である。
「あの婆さんは死ぬ」
ある日、私は言った。私の横に寄り添ってうたた寝をするタマが……タマというのはもちろん人間のつけた名である。つまりは私のイロである……驚いたように目を丸める。
「そんなことまで分かるの」
「死期が近いとにおいが変わる。まあ案ずるな、あの婆さんも気づいているさ」
私は平然とそういって、体をなめた。冬の貴重な光を吸い込んだ毛はふわふわと、暖かい香りの味がする。
先ほど私の頭を撫でた手は、そんな味はしなかった。いうなれば、死にいくものの味がした。
「悲しみと怒りと苦しみと、最後にあきらめだ。まあ諦めた頃に人は死ぬ」
「よく撫でてくれるお婆さんじゃない。そんな素っ気ない言い方しなくたって」
タマが責めるようにつぶやく。きれいな毛並みの、ふくふく太った可愛い娘である。つん、とすねる様も愛らしい。
「おまえは寂しいのかい」
「そりゃ寂しいわ。あたし、あの人のことが好きだもの」
「そうだな」
私はタマの背なの毛を舐めてやり、小さく息をもらす。婆さんの手からは絶望以外に、ほのかな香りが付きまとっていた。それはずっと……出会った頃から、婆さんの手より漂う匂いである。
私はその香りを、知っている。
「……そうだな」
私はしみじみとつぶやいて、空をみる。青い、雲一つない冬の空だ。
猫を見つけると、大喜びで駆け寄ってくる人間は多い。
自分が持たない柔らかな毛に引かれるのか、それとも暖かさに引かれるのか私には分からない。ただ、寄ってくる人間の半分以上は禄でもないが、残りのほんの一握りは、皆良い人間であるということだ。
「どこへいくの」
私は気がつけば身を起こして大きく延びていた。くわ。とあけた口から白い息がふわりと漏れる。そうだ、世間はすっかり冬なのだ。
「他の雌のところにいくつもりなの」
「さあな」
タマの責めるような目線を無視して、私は豊かな尾を左右に揺らして見せた。
「暇つぶしだ」
猫の一生など、結局は暇つぶしのようなものである。
人間は気がつくまい。我々は、猫は、この小さな体に似合わないほどに多くのことを知っている。
朝焼けが緩やかに迫る朝、白い雲を割って顔出す黄金の輝きも、青の空を駆けていく鳥たちの軌跡も、朝づゆが昼間近の日差しにとろけて蒸発する瞬間も、陽の落ちる瞬間、世界が一瞬すばらしい光に包まれることも、夜の静寂が闇を割って悲痛な音をあげていることも。
何もしらず、彼らは生き急いでいる。
そして生き急ぐ人間たちは、自分のすぐそばにかつての同胞どもが、わらわらと居ることにさえ、気づかない。
「貴様は、あの婆さんを知っているんだな」
私は古びた大きな石の前に腰を落ち着けて、尾を地面にたたきつけた。
それが墓という、死人を弔うモノであると、私は最近知った。
ご立派なものだが、結局はただの四角い石だ。上に寝転がればさぞかし心地のいいことだろう。猫からすればその程度のものだ。
この墓を人間が思い出すのは、夏や秋ばかりであるらしい。冬の今、荒々しく寒いこの場所は、なんとも寂しいものである。
……いや、それでもいくつかの墓は、賑わっている。人々の手向けた花と、食い物などがおいてある。私が向かい合っている墓にも、弔いの形跡があった。
「何とか言えばどうなのだ。猫が、このように折れているのだ。人如き……いや、かつての人間ごときが」
私の目の前の墓の上に、うすら白い人物がぽかりぽかりと浮いている。
見目は悪くない男である。ぴっちりと襟元まで詰まった服をきて、彼は真っ白い指をひたりと額に押し当てている。
その彼の墓の前に、まだ真新しい花と線香がくゆっている。
いやに煙を上げるこの線香は、婆さんの手と同じ香りがしている。
「やはりな。この香りを、いやに嗅いだことがあるとおもったのだ」
私は鼻をひくひくと震わせ吐き捨てた。
思えば、婆さんとの出会いがこの墓であったのだ。黒い服、黒い手袋。線香をつかんだ婆さんは、私に猫ちゃんと話しかけた。
私に話しかける人間は多い。結局は寂しいのだろう。そんな寂しさを私が拭ってやる必要などどこにもないので、大抵は無視をする。婆さんの相手をしたのは、まあ猫が気紛れであるからだ。猫の気質だ。
婆さんは抹香臭い指先で、私の喉を優しく撫でた。
(……もう五年……いや、ずっと昔から、俺が産まれる前から、通っていたんだろうよ)
墓はずいぶんと古い。婆さん以外、通うものもないようだ。
しかし墓の上に浮かぶ人間は、若い。婆さんの子というわけでもなさそうだ。ましてや夫というには、年の差がありすぎる。
(人間に興味が出るなど、私も随分年を取ったものである)
墓の前で水分をはじく花は、先日婆さんが手にしていた花束であろう。名前など知らぬ。ただ、猫の目からみても愛らしく悪くはない。
白く煙る男は私の言葉が分かったのかどうか。戸惑う様に、身を折って私のそばにそろそろと近づく。
そしてゆっくりと指をさしのべた。
「……ああ」
指は私の体をすり抜けて、体内に冷たい風だけが吹き抜けた。喉の奥がきん、と冷える。なるほど、これが死の冷たさである。と、私の背毛がぞうっと逆立った。
……それでも、わかるのだ。
私は人の指で感情が分かる。彼の冷たい指は焦りと恋情に燃えている。
そして、その空気のような手からは、濃厚なまでに、むせかえるほどの花の香り。
何という花なのか、猫である身では分かるはずもない。ただ、分かることがあれば、それは線香の香りをもっともっと濃厚にしたような香りである。
「人如きの恋情を、私に頼み込むなど、なめられたものだが」
この5年の間の撫で代だ。と、私は吐き捨てるように男に背を向ける。
まっすぐに駆け抜けたのは、婆さんの元である。数日あわぬ間に、婆さんはますます老け込んだようだ。
猫は死期が近づけば姿を消していずこかに自分の死地を定める。覚悟の上の死である。納得ずくの死である。しかし人はそうもいかないのだろう。そう思えば、何とも哀れなことであった。
「……婆さん」
婆さんからすれば、なあ。と聞こえただろう。
その気となれば人の言葉くらい口にすることもできるが、私は死に向かう彼女の覚悟に敬意を示し、最後まで「猫ちゃん」であることに徹した。
「おまえの恋情と、あの墓の男の恋情は同じ香りがするぞ」
なあ、なあ。甘えたようなその声に、婆さんはすっかり弱った手をさしのべる。むっと香る死の香りの奥に、線香の甘い残り香。
「猫ちゃん。よかったわ。私、明日から病院に……あら」
そして私から香る、線香に似た甘くむせかえるその香り。
「まさか……あの方に、会ったの」
婆さんはふるえる手で、私の背を撫でた。いつもは行儀良く順番をたどるその手は、今はこらえきれないように幾度もなでさすり、毛をすくい上げるようにこすり、そしてその小さな鼻を私の背に押しつける。
死の香りが、私を包んだ。
「この、お香の香りは……この、香りは……」
「……だから、安心して逝くといい」
はたと私の背をぬらした小さな雨が、その婆さんとの最後の別れとなった。
「お婆さんは昨日死んだのだって」
タマが私の体に頭をこすりつけ、そんなことをいったのは冬晴れの痛いくらいに寒い日だった。
「何でもねえ。あのお婆さんはずうっと遠い昔の戦争で、婚約者を亡くしてしまったのだって。それでずうっと結婚もせずに、一人きりで……あの真っ黒な服は喪服というそうよ」
相変わらずタマの情報収集の早さは驚くべきことである。いずこで聞いてくるものか、この近辺でおきただいたいのことは彼女に聞けば分かるのだ。
くわばらくわばら、と私は口の周りをべろりと舐める。敵に回せば恐ろしい雌である。
「なのにね、先日になって突然、喪服を脱いで……それはそれはきれいな白い着物で」
しみじみとタマは、尾を小刻みに震わせる。
「しゃんと胸を張って、あの大きな建物に入ったのだけど」
彼女の髭が指す方向に、白く大きな建物がある。そこに入った人間はたいてい助からない。
婆さんも、死んだのだ。
あの冷たく堅い手は、二度と私に降りてこない。それだけのことだ。
「そうかい」
「冷たいのねえ」
タマは雌らしい共感性の高さで、不服そうにうなる。その愛らしい口先に鼻を押し当てて、頭をこすりつけると途端に彼女は機嫌を直した。
「ところで婆さんの思い人はどんな男だい」
「さあ、まあ古い話だから知る人も少ないけれど、どうも昔にしちゃちょっと粋な若旦那で……ああ、お香のお店の若旦那。体からそれはそれは良い香りがしたそうで、薫の君とお婆さんは呼んでいたみたいだけれど」
冷たい風がひゅっと吹き込んで、タマは小さくくしゃみをした。
私はその小さな体によ寄り添ってやる。
「好いた男を忘れられずに最後まで貞淑を貫くなんて、すてきな話ね」
「おまえは俺が死んだら貞淑に殉じるかい」
「あら」
タマはひどく蠱惑的な瞳で私を見上げる。
「きっと数日間とても泣いて、そして次の雄を探すわね。だって、あたしは猫だもの」
「そうだな。それでいい」
だからこそ、猫の恋は泡沫だ。
そうでなければ、短い生き様を満足に楽しめない。
タマの首筋をなめてやれば彼女はひどくうれしそうに笑う。そして少しばかり切なそうに目を細めた。こんな冬の日に逝った女を憐れむ瞳だ。
「でも寂しいわ。あたし、あの人の手は好きだったのだけどね」
「奇遇だな」
あの婆さんも、いつか四角い墓に収まるのだろう。せめて、男のそばであればいい。
猫らしからぬ願いを込めて、私は地面に丸くなる。
「……俺もだよ」
私を見て、猫だ猫だとはしゃぐ人間の声。無遠慮になで回す、迷惑この上ない冷たい手。手から漏れる、様々な人間の感情と思慕と絶望と希望。
いつもならば大人しく撫でられてやる私だが、背に残る香りを奪われることは少々楽しくない。だから猫らしい気紛れさで、人々の手から逃れて塀の上に登る。
取り残されたタマだけが、悲鳴を上げるように人々の手にもみくちゃにされている。
背を伸ばし、私はもう一度空を見る。青い空に一本の飛行機雲。少しばかり高いこの場所からならば、香りも届くだろうか。声も届くだろうか。
私が細い声で鳴いてみせたのは、せめてもの婆さんへのはなむけである。