花拾う人 閑話休題 【地獄の逢瀬】
友人とのお題小説で書いたものです。
①お題:妖怪もの ②タイトル:地獄の逢瀬
③使用必須台詞:「何と愚かなことだ」
目の前で牡丹の花がぼとりと落ちた。
視線を落とせば、湿った大地が血の池のように赤く染まっている。吹き付ける雨のせいで花の吹きだまりができたのだ。
地獄太夫は、まだ色の残る花を一つ指先につまむ。白い指に赤い色がじわりとにじんだ。血のような赤である。あるいは血であるのかもしれない。
そうだ、ここは地獄の門前町。
「太夫様は何をしていても、お綺麗で羨ましい」
長いため息が漏れ聞こえ、地獄太夫ははたと顔を上げる。
彼女のすぐ目前に、白く小さな顔がぽかりと浮かんでいた。
その顔には細長い首が続く。首は不自然なまでに長く、長く続いていた。
地獄太夫が腰を下ろしている茶屋の入り口のまだ奥、店の隅にあざやかな黄八丈の着物が見える。その体から首が長く延びているのだ。
入口に赤い傘が置かれた茶屋は、茶。団子。と下手な文字で書かれた暖簾が揺れるばかり。奥には立派な竈のある厨があるらしいが、地獄太夫はそれを見たことがない。
実際、ここの団子が何で出来ているのかなど聞くのも野暮だ。時折、厨からうめくような声が聞こえると噂もある。
それでも団子が旨いのと、娘が愛らしいので地獄の門前町の中でもそこそこ繁盛していると聞いた。
特にこの町はよく雨が降る。雨でなければ雪が降る。
そうでなくともうら寂しく薄暗い町のこと。牡丹の花が咲く暖かそうなこの茶屋は目を引いた。
「まあ、轆轤の方。おひさしゅう」
地獄太夫はほほえんで、牡丹の花を娘の愛らしい前髪に差してやる。と、轆轤首の娘もうれしそうに笑うのだ。
「太夫様にお花をいただけるなど、ほかのお姉さまに嫉妬されてしまうわ」
「嫉妬など、させておやりなさい。太夫は仕事が終わればここへ来ねば落ち着かないのです。きっと貴女が愛らしいから」
袖で口を押さえてほほえむと、娘はぽうと頬を染める。照れると首が縮こまり、ふつうの娘のようになってしまうのが、また愛らしかった。
娘は紅葉のような小さな手で茶碗を暖めながら地獄太夫を見上げる。
「今日も閻魔様はお出かけで、残念なことでしたね」
「……閻魔様はお忙しい身。それに太夫の仕事は、庭園に種を植えることでございます」
娘の素直な言葉に地獄太夫の胸がちくりと痛んだ。
地獄太夫には職務がある。それは、地獄の庭に植物の種を植えることだ。
それは気が遠くなるほどに広大な庭である。庭園の空には小さな割れ目があり、そこから極楽の光がかすかに漏れ光る。西方浄土の阿弥陀如来が放つ慈悲の光であるという。
その光を頼りに、花は木は育つ。地獄の血に覆われた大地から、花が開く。
庭園を花で満たすのが、地獄太夫の目下の職務だ。
しかし、種はただの種ではいけない。人が恨みを残して死ぬと、額に鬼の角を抱くことがある。それを刈り取れば、花の種となるのだ。
庭園に植えるのはその種でなくてはならない。
何とも不思議なことではあるが、鬼の角から化した種はいずれも美しい花や木となるのである。
角を刈り取るにはコツがある。鬼となるまえに心を人に戻さなければならない。人に戻れば、角は落ちる。
難儀な仕事であった。
「お考えごと?」
娘が地獄太夫の顔をのぞき込み、首を傾げる。それは文字通り、がくりと傾き、さらに一回転した。
茶屋の前を通る一つ目の小僧が卑猥な言葉を投げかけていく。それを聞いて娘は生娘らしく眉をつり上げ口吻をとがらせた。
「まあいやらしい。最近はこの門前町にも禄でもないものがおりますの。太夫様もお気をつけて」
茶屋があるのは、ちょうど現世と地獄の合間である。上にも下にも行けない妖怪たちはここで暢気に売れない商売などをしている。
たまに現世より迷い込む人間を脅かしたり、地獄の獄卒を相手に金をせびるのが彼らの生き甲斐である。
「あなたこそ、このような場所で茶屋など開けば危ないことも……ああ、いい人が、助けてくれるのだから心配はないのですね」
獄卒の中に思い人のあるこの轆轤の娘は、地獄太夫の言葉に真っ赤に照れて黄八丈の襟に埋もれるまで首を縮めた。
「太夫様の意地悪……ああ。そういえば、まだお茶も出さず失礼なことを。いつもの通り、お白湯でよろしい?」
先ほどまで暖めていた茶碗に、娘は湯を注ぐ。薄暗い空気の中、暖かそうな湯気が揺らめく。
「ああ、本当に薄暗くて嫌になりますね太夫様」
轆轤は嫌そうにそう呟くが、そもそも地獄の門前町は常に薄暗いのである。雨雲が目前にまで降りてきたかのような薄暗さだ。この茶屋から少しでも離れると赤い傘さえ見えなくなる。
今も見えるのは、茶屋の横にめいっぱい咲き誇る牡丹の花と赤い傘のみ。
白湯の入った茶碗を受け取り、地獄太夫はほほえんだ。
「どれほどおいしいお茶を頂いても、ほれこのとおり」
口に含み、喉を鳴らす……と、それはぼたりぼたりと地面をぬらす。大地に散った牡丹の花に、白湯の雨が降り懸かる。
「太夫には、良い茶などもったいない」
一口飲めば、ぼとり。
二口飲めば、ぼとり。
一滴も体に残らず、ただ染みのように広がる白湯の残骸を見て地獄太夫は笑った。
そも、自分は生きてすらいない。
地獄太夫は、己の生まれをすでに覚えてはいない。ただ幼くして山中にさまよい、女衒にさらわれた。
そのまま遊女に落ちたが、天性の美しさから太夫になるまでそう時間はかからない。彼女の体は幾人もの男を知った。身は汚れたが、美しさは衰えなかった。やがて身請けの話がきて彼女は、一人の男のものとなる。
身請けされたとて、一度も自由のない人生であった。男の手と舌に翻弄された人生であった。このような人生を歩むのは、己が徳のなさであろう、前世の報いであるのかもしれない。地獄に堕ちるよりない人生であろう。
そう思いこんだ彼女は、自らを地獄と名乗った。身には地獄の描かれた着物をまとい、念仏を唱えることを信条とした。
……その先は、あまり記憶にない。ただ、いつの頃かに死んだようである。
美しい女であればあるほど、死ねば哀れだ。かの小野小町も死後の哀れな姿を絵に描かれたというではないか。死人が美しければ美しいほどに、人の目は好奇と嫌悪に包まれる。
死んでのち、地獄をさまよう地獄太夫を見て皆が眉を寄せた。近づきもしない、声もかけない。
しかし、今にも腐り落ちそうな地獄太夫の手をとり、哀れなことよと泣いた男がある。
それが閻魔であった。彼の手は温かであった。
触れあったのは、その時一度きりである。
顔は薄闇に隠れて、あまり見えなかった。巨躯であったように思う。しかしこの際、顔などどうでもよい事である。
彼は憐れみと悲しさと慈しみを以て彼女の手を包んだのだ。
骨が剥きだしとなり腐敗した彼女の手を、いやがることもせず慈しむようになでた。ただそれだけの触れあいだ。
……それから以降、地獄太夫は閻魔のために働いている。
花の種を懐いっぱいにして地獄へ参っても、すれ違うばかりで閻魔とは出会えなかった。今日もまた、花園にも衆議の場にも彼はいない。地獄太夫は生娘のように閻魔を捜し、捜し飽きるまで捜しそうして門前町へと戻ってきた。
あれより一度も出会えぬ男であるが、焦がれるのがこれほど楽しいとは死んで初めて気がついた。
稚気に等しい恋である。
「お花は、たくさん植わりましたか」
娘が地獄太夫に顔を寄せ、ささやく。
「ええ、でもまだまだ」
「あれを一杯にするまで地獄にも極楽にも行けないなんて」
地獄太夫の言葉を聞いて、はたはたと娘は涙を流した。
かわいそうかわいそうと嘆く娘を眺めて、自分はやはりどこかが欠落しているのだろう。と、地獄太夫は白湯の最後の一滴を大地に散らす。
茶屋を後にしたのは、それからしばらくのこと。
現世につながる道を進めば、風のざわめきが聞こえはじめた。冷たい木枯らしが木の葉を揺らす音である。それを耳にすると、まもなく現世であると思うのだ。地獄には音がない。
「おや、ここは」
地獄太夫は歩みを止めて、ふと顔を上げる。そこは、懐かしい風景である。薄暗い、山の中。冷たい風、赤や黄色に色づく木々に、獣道。そして大地にへばりつく、小さな池。
それを目にしたとたん、地獄太夫の顔に笑みがこぼれた。
「マァなつかしや」
ここが、始まりの地だった。
かつてこの山で、彼女は賊にさらわれた。その時の手の冷たさを今でも夢に見る。
「……ああ。おまえ」
懐かしさに近づけば、池の縁より一匹の蜘蛛が顔を出す。それはあたりをはばかるように、怯えるように蠢いていた。
大地には、赤が散っている。それは先ほどの牡丹と違って紅葉の赤だ。牡丹より鈍い色だが、一面に散る様は凄惨である。
かつて、自分もこの場所で死ねばよかったのだ。と地獄太夫は思うことがある。
死ねば、後の苦しみはなかっただろう。しかし、死ねば閻魔とは出会えなかったかもしれない。どちらの苦しみが重いのか、地獄太夫にはいまだはかりかねている。
(もしくは今の私が)
地獄太夫は冷たい大地に腰を落とし、蜘蛛を見つめる。
(あのときの私を、殺してあげたい)
蜘蛛は一人きりでおびえている。冷たい風と、冬に向かう鋭い寒さに驚いているようだ。
地獄太夫は蜘蛛に向かって優しく手をさしのべた。
「こんな山中でただ一匹、寂しかろう寂しかろう」
蜘蛛は掌ほどの大きさ。地獄太夫の差し出す手に迷っていたが、やがてそろりそろりと八つの足を動かしはじめた。
来てはいけない。と、地獄太夫は思う。
それはかつての自分だ。山中でさまよい、この池で賊に捕まった。寂しかろう。おいで、とさしのべられた冷たい手に、自ら飛び込んでしまった。
来ては行けないと、念じても蜘蛛はまるで従順な犬のように怯えながらも地獄太夫の手に近づくのである。
「おいで」
辛抱強く、手を差し出せばやがて蜘蛛は地獄太夫の掌にたどり着いた。
冷たい足が、地獄太夫の手に絡む。
「……捕まえた」
それをつかむなり、地獄太夫は腕ごと池に静かに沈めた。
手の中で蜘蛛がもがく、もがく、もがく。
ゆるさじと、手に力をこめる、こめる、こめる。
「ああ」
やがて力つきた蜘蛛はだらしなく四肢を広げて静かに池へと沈んでいく。それを目で追い、地獄太夫はため息をもらした。
「ここはさながら、風葬の地」
池には、底一面に赤いものが広がっている。それは無数の蜘蛛の死骸である。赤く染まった蜘蛛の死骸は一様に地獄太夫を見つめるのである。
不意に、思い出した。
(そういえば、私は、いつも、いつも、地獄からの帰り道に)
いつも、いつも、蜘蛛をこうして沈めてきたのである。
(何匹、殺したのやら)
数百では、きくまい。
今、目前で広げられた地獄太夫の手は白く美しい。しかし、この手で多くの命を奪った。ふと、地獄太夫は微笑む。なんとも、憐れなことである。
「おや、角が……」
その手の中に、小さな固まりが転がり落ちた。見れば、それは鬼の角。眺めるうちに、小さな種へと姿を変える。
「種が」
それはこの蜘蛛が持っていた角だろう。どんな花になるのだろう、と地獄太夫はそれをそっと懐に片づけた。
「かわいそうに、殺生はいけねえ。いけないよ、太夫」
声が聞こえたのは、そのときだ。
は。と振り仰げば、そこに一人の小柄な老人が立っている。老人といっても足も腰も強健だ。垢まみれの袈裟を羽織り、頭は青く剃り上げて、顔は俗なまでに愛嬌がある。
彼は皺の寄った目を細め、地獄太夫を見つめて歯のない口で笑う。
「殺生はいけねえ。太夫よ」
「おししょ様」
彼の姿を見ると、彼女の中の緊張の糸がゆるんだ。とたん、世界が明るいものに見える。彼はそんな気分にさせる不思議な男である。
それは一休という。破戒坊主であった。生前、いつのころか地獄太夫と知り合った。この男、破戒坊主というわりに女犯の罪はおかさない。
遊女であった地獄太夫に指の一本も触れず、師匠などとうそぶくのだ。
その関係が心地よく、ついつい「太夫も一休の弟子である」などと地獄太夫もうそぶいてみせた。
この不思議な師弟関係は、死後も続いている。一休が生きているのか死んでいるのか地獄太夫には分からない、興味などもない。しかし、おそらく死んでいるはずだ。
閻魔より仕事を与えられ、愕然と地獄に佇む地獄太夫に、声をかけてきたのがこの一休だった。それからは、なんとなく共に仕事をこなしている。
なぜ一休が地獄太夫にこれほど肩入れするのか分からない。分からないが、もし彼が居なければ寂しいだろう。とも思うのだ。
「ここまで殺生を繰り返した太夫など、いかな極楽の仏様とて浄土へ招いてはくれますまい」
歌うように地獄太夫はいう。掌についた水をはらえば、宙に水滴が飛散する。それは血の色だ。
「閻魔様のいらっしゃらない浄土など、招かれとうありませぬので、太夫は殺生を繰り返すのです」
「太夫」
不意に、一休の顔が鋭さを帯びた。そんな顔をすれば、彼の顔は恐ろしくもある。
「……なんと、愚かなことだ」
これまで聞いたこともないような、低い声が彼から漏れた。
が、はたと気づいたように彼はまたおどけた顔をしてみせる。
「俺が極楽へ引き上げる糸を、地獄のお前に投げかけるかもしれねえぜ」
「……まあ」
背にうっすらと浮かんだ汗の玉を隠すように、地獄太夫は優雅にほほえんだ。
「おししょ様、浄土にあがられるご予定でも?」
「はは。あるわけもねえ。俺もおまえも地獄の底で、お花畑の番人よ」
見れば一休はすっかり旅の支度が整っている。また今日より旅がはじまるのだ。花の種を集める、そんな仕事が。
「ところで、もうあれから三日は経ちました?」
歩き始めようとして、地獄太夫はふと口をとがらせる。つい昨夜、つまらぬことで一休と喧嘩をした。三日は口をきかぬと言い捨て地獄へと降りたのだ。
そういうと一休はしれっと杖を振ってみせる。
「おう、ちょうど今時分で、三日頃」
「……ならば太夫はおししょ様と口をききます」
「そいつはいいねえ。おまえさんの生意気な愛らしい口振りを、一日でもきかないとたまらなく切なくなってしまうのだ」
「太夫も、おししょ様の減らず口をきけずにさみしゅうございました」
顔を合わせると自然と笑みがこぼれる。一休はそりあがった頭を乱雑にかき回すと、胸をはる。
「では参ろうか、どうせ俺もおまえも行き着く先は地獄の髑髏」
「悪い場所のように仰いますな。地獄はよいところでございます」
「聞きてより、見て美しき地獄かな」
一休の口から漏れた言葉に、地獄太夫は思わず吹き出した。それは、生前、彼がはじめて地獄太夫に出会った時に口にした句であった。
あの瞬間より、この男に毒気を抜かれた。鬼の角を抜くがごとき、彼の手腕である。
「……落ちざるを得ない、地獄にございます」
不意に、北風が止まった。山中が、静かな色に染まる。一休は足を止め、背後をみる。それは先ほどの池である。
自分の犯した罪をみないように顔をそらす地獄太夫だが、彼は優しくその背をつついた。
「見てごらん、太夫よ。おまえの地獄の池をよ」
池が風に揺れている。底に沈む赤い色は死骸の色か……いや。
「きれいな紅葉じゃあねえか」
それは、一面に沈んだ紅葉である。
は。と懐を押さえれば、そこにしまっておいたはずの花の種はもうない。代わりに、地獄太夫の懐から赤や黄色の美しい紅葉があふれ出しやがて彼女の足下に柔らかく秋がつもった。
手の内に残っていたはずの殺生の感触は、紅葉に触れる暖かな感触に取って代わる。
切なさが胸を貫き、地獄太夫は一休の袈裟に紅葉を一枚、さしてやる。
「……また、おししょ様は意地悪な妖術をお使いになった」
「人聞きの悪いことを」
かかか。と一休は笑い、さあさあと地獄太夫をせかし始める。
「急ごう急ごう。人が鬼となるまえに。……救いきれず地獄で出会う、そんな逢瀬は二度とごめんだ」
せかされながら、地獄太夫も足を早めた。空はもう冬の色を呈している。さて、花も咲かぬ冬の空。どのような種を拾えるか。
楽しみでもあり、楽しみでもなし。うそぶいて歩く二人の背に秋を惜しむ紅葉が舞った。
風の吹き止む頃にはもう、二人の影はどこにも見えなかった。




