叔父の遺書1・夏祭りの金魚
叔父の死体が見つかった。大河がそんな連絡を受けたのは、まもなく夏休みが終わる9月も終盤のことである。
朝夕は冷え込むようになったが、昼の日差しはまだまだ暑い。風は涼しいが、照りつける太陽に遠慮はない。
蒸し暑い派出所の中、大河は机越しに男と向かい合っていた。
「はい。はい。ここにサインして、あと住所と、電話番号。えっと、甥っ子さんだったっけ? 若いのに、遠いところまでご苦労だったね。はい、ありがとうね。はい、はい」
はい、はい。という声だけが妙に甲高い。医者で坊主で警察官だと男は名乗った。どういう仕組みなのか分からないが、実際そうなのだろう。
「こんな田舎、みたことも来たこともないでしょ? 都会の子だったら特にさ」
男は笑って、外を見る。小さな派出所なので、大河の席の真後ろは、もう外だ。
ガラスの扉の向こうには、山が近い。空も近い。遮る物がないもないからだろう、秋らしい鱗雲が空いっぱいに広がっている。山から吹き抜けてくる風は、不思議な香りがする。酪農をする家がこの向こうにあるからだ、と男は言った。
叔父の死体が見つかったのは、大河の住む東京からずっと離れたこのTという村だ。村の外れにある山の奥で叔父の体は見つかった。
観光客どころか住民さえ滅多に足を運ばない山奥の小さな沢の中である。
釣り人の格好のまま、水中に浮かぶ叔父はすでに白骨になっていた。
それを見つけたのは、近所の大学の山岳グループ。通報を受けて警察が動き、検視から事情徴収まですべて終わらせてくれた。
叔父の身元確認に手間取ったのか、親族の元に連絡がきたのはすでに「事件性なし」の結果が出てからだった。
叔父の体に怪我はない。たぶん、冬の終わりか春の始め頃に釣りに出て、心臓発作か足を滑らせたか、沢の水で溺れて死んだのだろう。と、ざっくりとした結果が大河の母……叔父にとっては姉の元に連絡が来たのはつい2日前のこと。
近くにある唯一の宿に、叔父の荷物が忘れ物として保存されている。宿帳の記録と宿の経営者の話を合わせると、前述のような結果となったという。
「宿のおやじさんが心配してねえ。良い人で、荷物なんかもまとめててくれて、それでやっと身元が分かったんだよ」
と、男はしみじみといい、額に浮かんだ薄い汗を拭う。
この何でもできる男は、骨になった叔父の体と現場に残された遺留品などを手早くまとめて遺骨の引受人を待ち受けていた。というわけである。
しかし、大学生の甥っ子が来るとは思わなかったのか、最初は面食らったように大河をじろじろ見つめてきたが仕事は手早い。
すでに骨となっていた叔父だが、村の管轄下にある火葬場でさらに小さくなって大河の手で拾われた。見送ったのは大河とこの男だけ、という寂しい火葬である。
やだ、男の唱えるお経の声だけが、やたら立派であった。坊主だ、というのも嘘ではないのだろう。
「まあまあ、綺麗なご遺体でよかったよ。いや遺体っていうとご家族に悪いけどさ。ほら、パーツがさ。そろわないとか、そういうこともあるわけでしょ、行き倒れだとさ。でも綺麗にのこっていて、そりゃもう、身元確認できるものもあって、こんな風にご家族のところに帰ることができてさあ」
「はあ」
「しかもうまく……って言い方も悪いけど……水の、沢の終わりのところに引っかかってたおかげか、上にいっぱい花が散っててねえ。どっかから運ばれてきたんだろうね。それがまた、綺麗で。綺麗っていうのも語弊があるけどさ」
男の言葉はべらべらと、揺るぎなく進む。
「夏に咲く名残の花でね。それがぱああっと散ってるから、まるでご遺体が花に埋もれてるみたいでね……ところで、東京から来たんだったっけ? ここ遠かったでしょう。ここまで……新幹線と電車とバス。そうそう、バスも乗り換えてさ。何時間かかった? ああ、6時間。かかるよねえ。学校、休んできたの? 君」
「夏休みなんで、俺」
怒濤のようにしゃべるのは、悲しませようとしないように。という気遣いだろうか。しかし大河は悲しみもうれしさも、怒りも。なにも感じていない。
叔父は自由人だったと聞いている。勝手に家を出て帰ってこない。自分の親の葬式にさえ連絡一つ入れず、生きているのかいないのかも分からない。と、大河の母はいつもそう文句をいっていた。
民俗学者で、理学博士で、そしてカメラマンで釣り人だった。つまり何者でもあり何者でもない男だ。ここ十年ほどはTの村の宿に定住し、何やら訳の分からない研究に勤しんでいたようだ。と、親戚たちは叔父のことを呆れ気味に評していた。
母にいたっては、実弟であるにも関わらず冷淡だ。
年の離れた弟なので、あまり交流も無かったのだ。といいわけめいた言葉を繰り返していた。父や息子への手前もあるのだろう。本心では、何の悲しみも持っていないようだ。
たぶん、大河の血筋は冷たいのである。
だから大河も近所の八百屋に大根でも買いに行くような気持ちで、ここまで来た。
夏休みが終わるまであと二週間。家にいても暇だからである。
「あ。大学の」
「ああ、そうか。大学は9月いっぱいまで休みか。いやうらやましい」
はいはい。とまた甲高い声で男は大河を見送ってくれた。
「ああ。でも叔父さんも幸せものだ。こんな若い子が見送りにきてくれるんだからね。君も、あんまり気を落とすんじゃないよ。苦しんだ形跡もなかったみたいだし、きっと好きな場所で好きな釣りをしながら死んだんだから幸せだったんだよ」
妙な慰めをする男に大河は苦笑しか返せない。手にずっしりと重い骨壺といくつかの荷物を持ったまま頭をひょこりと下げる。
季節を過ごしすぎた蝉が、どこかでりーんと鳴いた。
叔父の名は結城健二という。
(……まあ実は、そこまで悲しいってわけじゃあないんだけどさ)
と、大河はため息混じりにそう思う。
実際、叔父と会ったのは10年前に一度きりなのである。
10年前の夏休みの終わりあたり。盆も墓参りもすっかり終わり、夏休みもまもなく終わる、そんな時。夜も更けた頃に、叔父は突然現れた。
母と年が離れているせいか童顔のせいか、はじめて見る叔父はひどく幼くみえた。ぱっと笑う浅黒い顔が、死んだ祖父にどこか似ていた。
大河らが住む家は母の母、つまり祖母の持ち家である。だから叔父にとっても、実家のようなものだろう。もちろん、改装に改装を重ねたその家に、叔父の部屋などすでに無かったが。
彼は驚き呆れる家人に構わず家中を歩き回ると、やがて部屋の隅で小さくなる大河を見つけて、唐突にカードゲームに誘ってきた。
下手な大河に飽きもせず付き合ってくれたので、根気はあったようだ。そして、大河の足に付いた小さな痣をみて「行こうぜ」と、彼は突然立ち上がる。と、大河を家の外に引っ張り出した。
叔父が大河を連れ出したのは夏祭り。
大きな物ではない。たぶん、近所の商店街が主催する程度のちいさなもの。夏の終わりを惜しむように開かれた、小さな小さな夏祭り。
それでも、真っ暗な道に浮かぶ赤い提灯の非日常感や、こんな時間に外をうろついているという事実が大河を興奮させた。
叔父は大河の手を掴んだまま、ずんずん進む。そして明るい露店で、金魚すくいを奢ってくれた。大河の持つ最中の皮をつらぬいて紅い金魚が逃げたとき、叔父はひどく楽しそうに笑っていた。
「俺はいつか金魚になるんだ」
叔父は冗談のようにいって、大河の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「だからうまく獲れるようになってくれなきゃ、困るぜ。まあ見てな。金魚ってのは、こう獲るんだ」
叔父は露店の店主に金を投げつけ、最中のポイを奪うなり器用に水面にそれを走らせる。
……と、まるで金魚が誘われるように、叔父のポイに吸い込まれたのだ。しかも、二匹。真っ赤な彩りが、水の上を飛び跳ねた。その滴の向こうに見えた叔父は、誰よりも恰好よかった。
それを見ていた周辺の子供達が喝采の声をあげる。叔父と一緒にいた大河もまた喝采を受けた。確かにその瞬間、二人はその場の勇者だった。
叔父は子供達の喝采を受けるままに金魚をすくい続け、最後は店の親父から怒鳴られるまで遊び続けたのである。
怒られてもなお彼は子供のように笑って、近くに居た子供達を引き連れて次々に面白い遊びを披露する。
彼はまるで遊びの発明家だ。叔父の遊びはどれもこれも、他愛もないのに不思議と面白く、子供達は皆が夢中になった。そんな叔父を持つ、大河の株もまた上がった。
まるで怒濤のような一晩過ごし、そして彼はまた去っていく。訪れた時と同じく、唐突な別れであった。
馬鹿な弟。と母はなじったが、大河はそう思わなかった。
……大河は当時、近所の悪友と些細なことで喧嘩をして、軽いイジメを受けていた。しかし金魚すくいで叔父と大河が勇者となったことで、イジメはあっという間に流れてしまった。
叔父は大河の足の痣と表情を見ただけで何が起きているかを理解したのだ。それを一回のカードゲームの時間で感じ取ったのだから、叔父は頭も勘も良かったのだろう。
叔父の気遣いとやらに気付いたのは、半年以上過ぎた頃である。馬鹿な男とは自分のことをいうのだ。と大河は少し後悔したが、やがて子供らしく忘却した。
(そういえば……)
男から受け取った骨壺を見つめて大河は小さく息を漏らす。
たった一回しか逢っていないが、その思い出は強烈だ。夏の香りとともに、大河の脳内に叔父との記憶が蘇る。
顔はもうはっきりと思い出せないが、提灯の明かりの逆光で黒くなっていた顔や大きな手だけは何となく覚えている。
(恩人だったんだな……)
恩人がこんな小さな壷の中に収まっているのか。と思うと、はじめて大河は悲しい。と、そう思った。
(ああ、宿はこっちか)
よいしょ。と、骨壺を抱えなおして大河は汗を拭った。叔父の荷物はこれだけではないのだ。
叔父が泊まっていたという山の入り口にある小さな宿。その荷物も、受け取って帰らなければならない。何も持たず自由に生きた叔父さえ、死ぬとなるとおおごとだ。人の死とは、容易いものではないらしい。
(……遠いな)
流れ続ける汗を拭う元気もなくし、大河はひたすら焼けた道を歩く。
歩いていけるからという言葉を信じて歩けば、宿は見えるがいつまでも近づかない。
ゆるやかな登りの坂道になっているのだ。あげく、日差しを遮るものがなにもない。ぬるくてあつくて湿度の高い、山の香りが鼻の穴にねばりつく。
汗がぶわっと吹き出してシャツは肌にすいつく。
やはり着払いで届けて貰えばよかった。骨壺を送りつけることができるのかどうかは分からないけれど。と、後悔しはじめた頃、ようやく宿の入口が見えて来た。
宿のおやじさんは、大河をみるなり、わっと泣き出した。
大河に叔父の顔の面影が、あったという。
「いい人だったよ。10年もここに住んでたんだ。もちろん、ずっとじゃないにしろ、一年の半分以上はここにいてね……俺にとっちゃあ息子みたいなもんだよ。宿の手伝いなんかもしてくれて、ご近所さんからは本当の息子さんみたいだなんていわれて……」
たった一人で宿をしているというおやじの年齢は70歳ほどか。しょぼしょぼとした目からは止めどなく涙があふれる。
宿は想像通り、古いものだった。江戸時代の庄屋のような広い家に、入り口は涼しい土間。天井は太い木をいくつも渡してあって、ひどく高い。それが涼しくもり、大河の汗がすっと引いた。
古くてもけして汚れているわけではない。綺麗に整っているのは、おやじの性格によるのか。しかし宿といいつつ、泊まっている客はいないようだ。
入り口の柴犬が大河を見つめてなつっこくほえて、地面にごろごろ転がる。その向こうは、白い日差しが広がっている。
「今年の春だったかな。まだ釣りには早いのに、どうしてもいくってきかなくって。あのとき止めておけばねえ……俺が殺したようなもんだよ」
おやじは、またぼろぼろ泣いて鼻をすすり嗚咽を漏らした。
Tの村の人々の特徴なのか、田舎の人とはこういうものなのか、しゃべり出すととりとめもなく長く、そして絶え間ない。
大河はただ、はあ。とかふうん。とか、へえ。とか相づちをうつしかできないのに、である。
「帰ってこなくなった日に何度も探しにいったし、警察にも行ったんだけど結局見つからなくってねえ。それがこんな、半年も経ってあんな姿で」
「はあ……あの、叔父は、ここで、なにを?」
質問が少ないのもあまりにも非情だろう。大河は必死に質問を浮かべ、口にした。こんな性格は、母にそっくりであった。
宿のおやじは気にもしないのか、意外な言葉を口にする。
「精霊をね」
「は?」
「この山には精霊がいるってね、まあ昔から言われてるんだ。それをあの人は研究でねえ」
しみじみと、おやじはいう。大河はとたん、気が抜けた。
民俗学者でありエンジニアであり……と、様々な肩書きを持った叔父の、自由奔放さを改めて感じさせられたのだ。
精霊の研究など、一緒に夏祭りにいったあの叔父の姿からは想像もつかない。
「最初の数年は都会とここを行ったり来たりしてたんだが、この山を調べるってんで、ここを定宿にしてくれてね。それでも数ヶ月にいっぺんくらいはどっかに出かけてたみたいだけど、ほとんどは山にこもりっきりで」
「精霊って、なんです」
「さあ。でも悪い精霊じゃないって言われててさ、まあ俺も見たことはないけど、妖怪とか精霊とかそういうのが住んでるって、昔は割と有名になったもんだよ。あの人は研究ついでに写真を撮ったり、まあいろいろなさってたようだが」
熱心すぎた結果、あんな姿で見つかってねえ。と、おやじは大河のもつ骨壺を見つめて撫でてまた泣いた。
こんなにも泣いてくれる人がいて、よかった。大河はふとそう思った。冷たい骨壺に詰められて冷たい甥っ子に抱かれ、冷たい都会の墓に入る前に、親身に泣いてくれる人がいて本当に良かった。
「そういやね、俺も警察に呼ばれて例の現場ってのをみたんだけど、そりゃあすごかったよ」
「花でしたっけ?」
「綺麗でねえ」
おやじははたと思い出したように、大きなカップに麦茶をそそいで大河に差し出す。茶色くにごって重い、田舎めいて煮出しすぎた麦茶が、乾いた喉に不思議とおいしかった。
「花が、ぱっとこう……警察は沢のそばに咲く花が落ちて、沢の止まりだからそこに溜まったんだろうっていってたけど、そんなことあるもんかい」
「というのは?」
「あの花は、もっとずっとずっと山の上、川の上流にしか咲かないんだよ。いくらそこから流れてきても、途中でちりぢりになるし、あんな綺麗に残るもんか。あの人は優しい人だったから、きっと山の精霊とやらが、哀れんで花をかけてくれたんだろうねえ」
「はあ」
飲み終わった麦茶に二杯目が注がれる。
頭を下げて飲み干すのを待って、おやじは大河を手招く。叔父の泊まっていた部屋に、そのまま荷物をおいてあるのだ。と彼はいった。
宿の片づけも簡単なものである。叔父は剛胆な生き様に反して、整理整頓は得意だったらしい。
部屋にあったのは本と、メモ書きと、一枚の写真。写真には、近所の子供なのか、走る少女が映っている。麦わら帽子をかぶったワンピース姿の女の子。
写真を撮ったのは叔父だろう。叔父はバスに乗って、後部座席からガラス越しに少女を撮影している。バス特有の大きな窓と天井がかすかに映り、写真の真正面には大きな山だ。左右には、まだ青い田畑に、真っ白い道。ちょうど夏の終わり頃、今くらいの時期に撮ったのだろう。
真っ白な道の真ん中、バスを追うように少女が駆けてくる。何かを言いたげに、大きく右手を振っている。その手には、花が揺れていた。逆の手が麦わら帽子を必死に押さえているのがどこか少女らしい雰囲気である。
妙な犯罪に手を染めていたのではないか、と大河は今更少し心配になる。
(叔父さん、子供に好かれそうだもんなあ……)
そんな荷物を持ってきた鞄に詰めれば、あとはもう何もない。
部屋を見渡せば、なかなかに広い。この部屋に比べれば、大河の自室など犬小屋だ。
柱は古いが、二カ所ある窓を開ければ、風がよく通る。目の前は、叔父の遺体が見つかった山だ。
ざわざわと、木の揺れる音もよく聞こえる。
叔父がここを定宿にした気持ちが分かった気がする。寝転がって天井のシミを眺めているだけでも、ゆったりと心地がいい。
畳の香りに、染みついた山のにおい。たぶんこれが、田舎の香りというのだろう。
叔父も母も、実家は都内だ。ついでに父の実家も都内である。だから叔父も大河も、田舎の家というものを持っていない。
田舎の祖父母というものがあれば、こういう雰囲気なのだ。疑似的な、あくまでも疑似的ではあるが。
「もう帰るかい?」
おやじが惜しむように、大河にいう。大河は腕時計を見た……まだ、昼の2時。しかし、家まで戻る時間を考えれば、早すぎるということもない。
「そうですね。荷物、まとめたら出ようかな」
「タクシー呼んでも良いけどね、駅までバスがでてるよ。まあ次くるのは2時間後だけど、それでもいいならそれに乗って行きなよ。駅まで付けてくれるしさ。それまでの間は、部屋でゆっくりしていてもいいし、その辺歩いてきてもいいしさ」
切ったすいかを大河にすすめながら、おやじは楽しげにそういった。
ひえたすいかはそろそろ旬の終わり。かみしめると、ふにゃりと柔らかくそれでいて甘い。
「なんか、見るところありますかね」
「山奥にいくのは危ないしおすすめしないけど、叔父さんが歩いてた道はね、そこの……ほら、見えるでしょ。山道の入り口。そこから少し遊歩道でさ、そこがおじさんのお気に入りだったみたいだ」
「いいっすね」
そういえば先ほど写真に映っていた女の子は、このあたりの子なのだろうか。大河は思ったがすいかとともに喉の奥に飲み込んだ。
仮にそうだとしても、そもそも叔父と親密な子であったかどうかも不明である。
(叔父さん、あの山で何をみて……何を調べてたんだ)
青く茂る山道を眺めて、大河は思う。
(あんな山で、沢で、なんで)
警察であり坊主でもある男は、火葬の最中に妙なことを言っていた。現場に残った叔父の遺留品が少なかったというのだ。あんな山奥にいくのに、食べ物も、水を入れる容器も携帯していなかった。ある意味、覚悟の上だったのではないか、と男は漏らして慌てて口を閉ざしたことを思い出す。
(もし、自殺だとしたら、なんで)
種をぷっと皿に吐き出しながら、大河はちょっと散策に出てみよう。なぜか、そう思っていた。
山道は、思った以上に野性味に溢れていた。草はあちこちから伸びてくるし、足に絡むし、虫は飛び出すし、地面は濡れている。山の中を歩くなど、中学の遠足以来だ。
アスファルトになれた足は、土の軟らかさに驚かされる。じゅっと染み出る水の跡や、虫の大きさにも驚く。
それでも意地になったように進むと、湿気った木陰から、大きな塊が飛び出してきた。
「……っわ!」
あまりに勢いよく飛び出してきたので、熊か、猪かと大河は構える。本物を見た事などないが、このような山ならば、居てもおかしくない。
「……どこだ!」
気配は一瞬できえた。大河は情けなくも及び腰のまま、周囲を見渡す……いない。
「どこだ!」
叫ぶと、大河の声だけが不気味に響く。……その瞬間、どこかで小枝を踏み抜く音がした。
「あっ」
それは、少女の声を持つ。
「けん……じ?」
泣きそうな、ふるえる声だ。顔を上げると、大河の数メートル向こう、獣道の真ん中にワンピース姿の少女が蜃気楼のように立っている。
青白くもみえる不思議な肌の色。大きな麦わら帽子に白いワンピース。
あの写真の、娘だ。
「健二? けん……違う」
泣き出しそうな目でこちらに駆けよろうとした少女だが、大河の顔を再度見つめると彼女はあわてその足を止めた。
まるで小動物のように、後ずさる。麦わら帽子の両端をきゅと握り、きょときょと周囲を見渡して、逃げだそうと構えている。
大河はどこにそんな脚力があったのか、とっさに数歩飛び越えて、彼女のそばに立った。
横に立てば、少女の小ささがさらによくわかった。
まだ中学生……いや、10歳かそれくらい。小学生の、高学年くらいか。
愛らしい顔立ちだが、手も足も細すぎる。大きな麦わら帽子のせいで、風が吹けば転んでしまいそうだ。
この時期の子供にしては、肌が白すぎる。病気のように青白い肌だ。
怖がっているのに逃げ出さない理由は、大河に叔父の気配を感じ取ったせいだろう。つまり、この子は、叔父を知っている。
「……やだ」
大河を警戒するように、後ずさる。その足が木の根に触れて彼女は震えた。
「待って、待って、違うんだ……」
できるだけおびえさせないように、大河は体を屈める。
覗き込んだ彼女の瞳は、青の色に近い。
「健二は叔父さんだよ。俺は、甥の大河」
「大河!」
名乗ると少女は初めて目を輝かせた。そしてひたりと音をたてて大河の腕をつかんだ。
ぞっとするほど、冷たい手である。
「健二の、甥っ子……大河。東京の、大河?」
「……そうだけど」
「大きな川の、大河?」
「うん」
頷けば、彼女の手に力がこもる。顔がぱっと明るく染まり、先ほどの警戒感は消え去った。
そして、彼女は大河の腕を力一杯にひく。
「こっち、きて」
「な、なに」
「はやく!」
少女は俊敏だ。大河の手をしっかと握ったまま、小さな沢を飛び越え、獣道に分け入り、大きな木の合間を抜けた。
少女の足は、想像以上に早い。ほぼ駆け足だ。
付いていく大河は顔を枝に殴られ、葉にたまった水をまともに被り、木の根っこに何度も転びかけた。しかし少女は、構わない。ただ大河の手を掴んだまま。
「ま、まって、なに」
走る。走る。走る。
「ころ……転ぶって、転ぶから!」
「私の足の跡を、踏んで走るの!」
湿ってドロドロの道は、時には大穴があり沢があり落ちくぼんだ箇所がある。しかし、少女には安全な道が見えているようだ。彼女の歩いた場所に足をあわせれば、驚くほどスムーズに足が進んだ。
やがて息も乱ささず少女がたどりついたのは、小さな池。その隅に、池の水が小さく溜まった場所がある。
苔蒸しているが綺麗な、透き通った水だった。
大河は息を吹き出すなり、その場にへなへなと崩れ落ちる。肩が上下し、足が震えた。水に濡れた上半身は寒いほどだし、足はあちこちにぶつかって擦り傷まみれだ。
「……ああ……」
しかし、顔を上げて生きかえった。
「すごいな……」
目前には、低い崖がある。苔むして緑に染まったその崖からはちょろちょろと水が流れ落ち、可愛らしい滝となっているのだ。その滝が溜まって生まれたのが、この池だろう。
池と崖の周囲は鬱蒼とした木々にくるまれてる。木は天を貫き、顔をあげれば青い空と黄色の太陽が枝葉の向こうにうっすら見えた。
真っ青な空はまるで水のようだ。そして池には空が映りこみ、上下を見ているうちにどちらが空でどちらが地上か分からなくなってしまう。
虫の声と風の抜ける音、水の散る音以外、他には何も無い。
「これ、みて」
「写真……池?」
少女は息を乱す大河に構わず、無言で一枚の紙を差し出した。
それはやや大きめの写真で、映っているのはおそらくこの池。それも今、大河の足下にある池の水溜まりの部分だろう。
季節はわからないが、苔蒸した水の中を写している。水は今とおなじく清らかで、苔のあとまではっきり見える。光がさしこみ、輝いていた。
写真の中には、一匹の金魚がゆったりと泳いでいる。
何てことはないただの写真だ。構図が凝っているとか題材が面白い、なんてこともない。
「もしかして、叔父さんが撮った写真?」
「そう」
今の池溜まりには金魚はいないが、それ以外はまったく同じ風景だ。叔父はちょうど大河の座り込んでいるこの場所。石の出っ張ったこの箇所に足をかけて覗き込みながら撮ったに違い無い。
「これを、ここに、かざすの。早く」
「え、何……」
少女は先ほどから妙に焦っている。大河の手を取り、写真をその池だまりにかざさせる。写真と現実が、重なりあう。
……と、不思議なことが、起きた。
ぶん。と写真が揺れたのだ。まるでテレビの画面のように映像が乱れる。砂嵐のような色になり、やがて「パスワードを音声でお伝えください」と、文字が浮かんだ。
「ん? パスワード?」
「ぱすわーど、これ何? 私はこれ、分からないから」
「これ、叔父さんが?」
「そう、健二が私にくれたもの。ここにかざすと謎が解けるって、そういって。でも私じゃ、これ以上は」
少女の声が少し高くなる。声に苛立ちが滲む。早く、早く、少女はそれしか言わない。
「……待てよ、これ」
写真を宙にそらせば、パスワードの画面は消え、金魚写真に戻る。再度、池に戻せばパスワードを要求する画面となる。
「これ、この、写真の技術って……」
この技術を、大河は知っている。つい先日、ニュースで耳にしたのだ。
「もしかして、写真に音声を吹き込めるっていう……あれか」
大河は唖然と、写真を見る。それはただの一枚の薄い写真にしかみえない。ひっくり返しても、光にかざしても、普通の写真だ。
しかしこれは最新技術である。
「たしか、Y社が……って、ニュースで……」
紙焼き写真に音声や映像を流し込めるようになる、写真が撮られた時の音声を引き出せるようになる……というニュースが世間を騒がしたのはほんの一週間前。電子工学のY社が世界に先立ち開発し、まだ実験段階だが、この冬には実装されるという話。
再生スイッチは、場所だ。その写真を撮った場所にかざせば、まるで今その場にいるように音声が流れ始める。写真と現実が、混じり合う。そんな技術。
写真に声を吹き込むことはもちろん、特別な機械を通せば、過去の古い写真からも音を取り出すことができる。その時の音を、声を、空気を再現できるという。デジタルがメインとなった今の時代に、まるで刃向かうように現れた、紙刷り写真のためだけの、技術。
まだ試作品もこの世界に出ちゃいない。企業秘密中の、秘密の技術である。
それが今、大河の手元にある。
「何で叔父さんが、これ……」
「動かしかた、分からないの?」
少女が乱暴に大河の手を引く。その勢いに飲まれ、大河はあわてて写真を池たまりに戻す……また、パスワードの画面だ。
画面の向こうに、うっすらと金魚が見える。それは、遙かむかし、叔父とともにいった唯一の思い出につながっている。
思わず、大河は叫んでいた。
「……分かった。夏祭り、だ!」
ぶん。と、写真の画面が揺れる。その映像が乱れ、やがて再び、金魚の写真に戻った。いや、先ほどまでと同じではない。金魚も水も、小さく揺れている。
そして、唐突に、懐かしい声が聞こえた。
「……大河」
写真から、声は聞こえたのである。
「……健二!」
少女が口を押さえ、座り込む。その目には涙が浮かんでいた。やはりこの声は、叔父の声なのだ。
大河もまた不思議なことに胸の奥がぐっと痛んだ。
声なんて、十数年聞いてない。幼い頃に聞いたっきりなのに、不思議とこれは叔父の声だと分かった。体のどこかに流れる遺伝子が、きっと反応した。
「たぶんだけど、俺が死んだら大河が迎えにくるってそう思ってる。昔。一回しか会ったことないけど、姉さんはあれだし、ほかの家族はみんな死んでるだろ」
叔父の声は朗らかに続く。いつの間にか、少女は食い入るように真剣に写真を見つめている。
「でも大河じゃなかったら恥ずかしいからさ、パスワードをつけたんだ。もし大河に届いてなかったら、恥ずかしいなこれ。というか写真に向かってこうして話すっての、何か恥ずかしいな。なあ、ミズカ。これ誰にもいうなよ」
「いわないよ」
写真から、また別の声が聞こえる。少しくぐもって聞こえるが、確実にこの少女の声だ。
ほろ、と大河の腕が濡れた。少女の涙が腕を伝わったのである。ミズカというのが彼女の名だろう。
「健二こそ、なんで死ぬっていうのよ」
「予感だよ」
けたけたと笑う叔父の声のあと、一瞬だけ間が空いた。
次に聞こえてきた声は、背後に蝉の声が聞こえていた。時間を変えたのだろう。
「……一気に吹き込みたかったけど調節とか、色々むずかしいもんだな。実はこれ、きちんと吹き込むのははじめてなんだ。だから手探り。これが成功すれば、色々吹き込むつもりだけどな……ああ、やっぱり一人で写真に向かって話すのは、なんか気まずいな、録り直しきかねえからな、これ」
また、途切れる。次に聞こえてきたのは、ヒグラシの鳴く音だ。
「俺のことは大河はきっと何も知らないと思うし、俺も大河のことはしらない。でも、一緒に夏祭りにいったとき、ああこの子は、俺の甥なんだなあって思ったんだ。顔だけじゃなく、癖とか、考え方とか、よくわからんが、そういうのがさ」
写真から聞こえる叔父の声は、最初に比べてずいぶんと自然だ。きっと、この間に練習をこなしてきたのだろう。
「だから俺はおまえに遺書を残したいんだ」
遺書。と叔父はいう。大河の胸が詰まった。その気持ちをくんだように、大河の後ろで蝉が鳴き始める。この蝉たちも、まもなく死ぬのだ。
「この技術を知ってるだろ? そうだ。たぶん、そろそろ話題になってる。Yが開発した……というけど実際は俺が作ったんだけどな……よくある、技術を盗まれたってやつだ」
さらりと叔父はすごいことを言った。大河は思わず写真を落としかけて必死につかむ。
ミズカはそれがどれほどすごいことなのか、分からないのだろう。きょとんと首を傾げたままである。
「別に自慢したいわけじゃないし、Yから金をむしり取れとかそういうんじゃない。ただ真実を一人にだけでも知っていて欲しかった。お前、カメラ好きだっただろ?」
叔父の声は優しい。かつて一緒に遊んだ夏祭りの夕暮れ。叔父は大河のもつカメラをみたのだ。それは祖父から譲られた旧式のフィルムカメラ。
大きなものなので、幼い大河が持つとちぐはぐだった。母も父もしまいなさいと叱るのを、叔父だけが優しく使い方を教えてくれた。
デジタルになれた今、あのカメラはどこにしまったのだろう。と大河はカメラのさわり心地を思い出していた。
「俺がこれを作りたかったのはこんな風に……写真を、人の思い出にリンクさせたかった。この写真は、大河から見た過去だ」
蝉の声がますますうるさくなる。風も吹かないので、水も揺れない。しかし、なぜか大河は自分自身が揺れているような気がした。
「もう一回、ゆっくりと、写真を水面におろしてみろ」
つ、と水面が揺れたので、大河は再び写真を落としかけた。本物の池をみても、池はぴくりとも動いていない。動いたのは、写真の中の池だ。金魚が静かに泳ぎ始めたのである。
赤い印を持つ金魚は寂しそうに、時折水面から顔を出す。風景は夜になり、夕暮れ色にそまり、夜になり、明け方の光に包まれる。
金魚の過ごす、日々の映像がそこにある。
「金魚……動いた」
「金魚っていっただろ? そうだ、それは俺が今見ている……大河にとっての、まだまだ過去の写真。俺が撮影したのは、その一匹の金魚。沢の上流から流れてきて、たった一匹になってしまった子だ」
叔父の声が、切なそうに、揺れた。
そのとき大河は感じ取った。叔父はおそらく、この金魚に恋をしている。
「さあ、まもなく、未来が来るぞ」
「二匹!?」
どこからか、もう一匹の金魚が滑り込んできた。同じような色合いの、しかし少しばかり大きな金魚。
それはかつての夏祭りで、大河が取り逃した金魚に似ている。
新参の金魚がふうっと顔をあげて大河をみた。
「俺だよ」
「わっ」
今度こそ驚いて、大河は写真を手放す。写真は池の水に浮かんだが、声はとぎれず聞こえた。
「驚いたか? 驚くだろうな。俺はな、大河。死んだ訳じゃない」
叔父の楽しげな笑いが聞こえる。
水に浮かんだ写真には、二匹の金魚。それは所狭しと泳いでいる。まるで現実の池に泳ぐ金魚のようで、どちらが本物なのか、もう分からない。
「俺は、山の精霊を探しているとそういっただろう。精霊も妖怪も、この山にはたんといる。ミズカもな」
ミズカ。と呼びかけられ、少女がふるえた。彼女は大河の視線に気づいたのか、そっと麦わら帽子をとってみせる。彼女の頭にあったのは、小さく白い、皿のような物体。見られたことを恥じるように、彼女はあわてて帽子をかぶりなおした。
「……河童、なのか……」
彼女は手も広げてみせる。冷たいその指には、水掻きのような薄く綺麗な膜がある。
淡い日差しが木漏れ日のように差し込んで、彼女の顔を照らす。その目も、肌の色も、人間のもつものではない。ミズカの目はきらきらと輝いている。
「あなたも、信じるのね。私のこと」
「いや、ここまで現実離れのことばっかり起きたら、そりゃ……」
大河は改めて周囲を見渡す。
ここは深い山の奥の奥。少し日が翳って冷たい風がふいてくる。その薄い闇の中、いくつもの気配がする。狐に河童に鬼の妖怪のたぐい。この山に、住んでいてもおかしくはない、現実離れの生き物たち。
叔父がこの山に惹かれた理由が、少し分かった気がした。
「ただ、一族が絶えてたった一匹になったのは、この金魚だけなんだ」
叔父の声はくぐもって聞こえる。それは水の中で放つような、声だ。
「叔父さんは……金魚になった……」
「体なんてものはただの入れ物で、大事なのはその魂がどこにあるかだ。俺はな、この娘と生きていく」
ちゃぷん。と水の音が響く。はっと写真を見つめれば、その写真にはもう何もない。ただ水が映るばかりだ。
先ほどまで映っていたはずの金魚が、消えている。持ち上げて幾度も池にかざすが、もう声も聞こえなければ金魚も映らない。
「……金魚、どこだ!?」
慌てて池を見渡せば、真ん中当たりに赤い影が見えた。
それはちゃぷん、ちゃぷんと水面を揺らして幾度か旋回する。二匹だ。二匹の金魚がまるで別れを惜しむように、くるくる回る。そして、すうっと音もなく、その波紋はきえた。
「健二!」
ミズカの悲しげな声が、池に跳ね返る。
「行かないで!」
悲しむように、祈るように、山のあちらこちらから嘆きの声が聞こえた。
それはまるで嵐のように山を包み、揺らし、風となって消える。
確かに大河はその瞬間、木々の合間を飛び回る鬼のような影と、輝く木霊、そして狐の嘆く声を聞いたのである。
どれくらい、そうしていたのだろう。
気がつけば大河は呆然と、ミズカの手をとったまま座り込んでいた。
彼女は心配そうに大河をのき込んでいる。
「大河、大丈夫?」
ああ。と、立ち上がったが、また足がふるえる。いろいろなことが一度に起きて、何も考えられない。
水に浮かぶ写真はもう手にとっても、やはり何も動かなかった。
振ってみてもひっくり返しても、水に浮かべても何も変わらない。金魚は消えたまま。ただの苔むした水を映した、それだけの写真となってしまった。
「み……ミズカは……平気?」
「うん」
河童の少女は泣きそうな声で、気丈な笑顔を見せた。
「あのとき……健二が動かなくなって、声をかけても、ゆすっても、動かなくて」
ミズカは、写真を愛おしく撫でる。
「だんだん、骨になっていくのを見てた」
彼女が幾度撫でても、写真はやはり何も答えない。
「ああこれがきっと、彼の言っていた死なんだって思った時から、覚悟はできてた」
もう水しか映っていない写真を取りあげ、彼女はそれを胸に抱く。
ひたりと、水の染みが広がった。
「でも写真と、それと置き手紙が一枚。あったの、私達の隠れ家に。この写真の謎を解けば、中に健二のイショがあるって」
ミズカは愛おしそうにいくども、写真に耳を押しあてる。そうしても、音なんて聞こえるはずもないのに。
ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、彼女はそれでも笑うのだ。
「この暗号、私にはとけないけど、きっとそのうち、人間の男の子がこの山にくる。大河っていう、大きな水の……大きな川の名前を持つ男の子がくる。その子ならきっと解けるからって手紙には書いていて」
「俺を待ってた?」
「来ないかも知れないけど、来るかも知れない。待つのは慣れてるから」
そしてミズカは、ゆっくりと大河に頭を下げる。
「ありがとう」
ミズカが、綺麗な声でそういった。驚いて彼女を見れば、照れたように帽子で顔を隠す。
「健二がいったの。ひとにお願いを聞いて貰ったら、ごめんなさいじゃなくって、ありがとうっていいなさいって」
「ながい……つきあいだった?」
「分からない。私たちには、時間の感覚が、あまりないから」
叔父の去った方向を眺めて、ミズカは寂しそうにつぶやく。
「でも、たぶん長かった。健二はずっとこの山にいて、喧嘩を仲裁したり、山を守ってくれたり」
「だから、みんな出てきたのか」
「だからみんな、悲しいの」
腕時計を見れば、1時間半、時間が経っている。バスの時刻だ。と大河は唐突に思い出す。いまからまた、6時間の旅だ。きっと帰るのは終電になるだろう。
叔父がもうひとかけらも残っていない骨を、持っていくのだ。
それは東京の墓地に片づけられる。しかし、叔父ではない、ただの骨だ。それを皆拝むのだろうとおもうと、妙におかしかった。
「大河」
「なに」
「まだ、写真はたくさん、あるの」
道を案内しながら、ミズカが思い詰めた顔で大河をみた。
行きよりも、足取りが重い。悲しみと切なさが彼女をむしばんでいるのだ。
「健二はたくさん、この山の精霊を撮って言葉を残した。たぶん私たちの一族のことも」
やがて獣道を抜けると、元の遊歩道にでる。宿のおやじさんが心配そうに呼びかける声が、かすかにきこえた、
「あと、大河たちの住む都会の写真もあるの。いつか、全部、聞きたい。健二の声」
「好きだったんだ。叔父さんのこと」
何気なく言った言葉だが、ミズカは衝撃を受けたように立ち止まる。照れて、眉をつり上げ、そして泣きそうな顔で大河の腕をきつく殴った。
「……ごめん」
「ありがとうって、いって。大河」
「こういうとき、ありがとうっていうのはおかしいよ」
顔を見合わせると、彼女はようやく、小さく笑った。愛らしい笑顔だった。
「いつか、一緒に、探そうか。叔父さんの声を」
だから大河は思わず、言ってしまったのだ。
「今日は俺、もう帰らなきゃいけないし、休みもまもなく終わるからすぐって訳にはいかないけど」
申し出を受けようと思ったのは、彼女が可愛らしかったから、だけではない。何となく、叔父の言葉が体にしみこんだせいだ。
叔父とはもう二度と会えないが、どう生きて何を考えていたのか、写真を見ればきっと分かるはずだ。
「ここにくれば、会えるんだろ」
ミズカの顔が、ぱっと明るくなる。幾度もこくこくと頷く。望外の喜びを、表現できないように彼女はまた帽子で顔を隠した。
「ありがとう、大河」
宿のおやじの声はどんどん大きくなる。ミズカはとん、と大河の背を押した。
「……わっ」
先ほどまで獣道にいたはずなのに、気がつけば大河は元の遊歩道の真ん中に移動している。
「あっいた!」
おやじの安心しきった声も、同時に聞こえた。すぐ目の前に、泣きそうな顔のおやじがいるのである。
「ここの山、昔は神隠しなんてよくあったもんだから……なかなか帰ってこないし、それで心配になって」
「あ。すみません。ちょっと……うん、ちょっと迷ってて」
振り返ったが、そこにあるのはやはり野放図に生えた草と木と獣道だけだ。少女の声も気配もない。ただ、草の隙間からいくつもの視線を感じた。それは、大河を見つめている。
好奇心に満ちた視線だが、嫌な視線ではない。
振り返り、小さく手を振る。と、狐のような生き物が一瞬だけ顔を出し、直ぐに引っ込む。どこかで、甲高く笑う声が聞こえた気もした。
「早くしないとバスが出ちゃうよ」
おやじに急かされ宿に戻り、荷物を受け取ってバス停に辿り着けばバスはもう来ていた。
手を振る親父に愛想笑いをしながらバスに乗り、後部座席から振り返る。たった数時間の滞在の間に起きた出来事が、まだ大河の頭をぐるぐると回っているようだ。
「……あっ」
気の早い夕暮れがじんわりと空を焼いている。その風景を眺め見て、大河は思わず小さく叫んでいた。
……この風景は、見覚えがある。
大河は慌てて鞄を漁った。荷物が散るが、どうせバスに乗っているのは大河と運転手だけで、誰もいやしない。散らかった荷物をそのままに、大河が取り出したのは宿で見つけた一枚の写真。
もう疑う余地もない。それはミズカが駆けてくる写真である。
それはちょうど、山を奥に田んぼを左右に、そして真っ白い道に彼女がいる。
写真の手前には薄曇りのバスの窓硝子、上にはバスの天井。間違い無い。これは、叔父がバスの後部座席から撮影したものである。
震える手で写真をかざすと、現実の風景と写真の風景がぴたりと収まった。
やがて、写真の中のミズカが動き出す。細く白い足が必死にかけてくる。手に持つ花は左右に揺れる。
声は聞こえない。聞こえるのはバスの音だけだ。それは現実のバスの音と混じりあう。
ただ、ミズカの唇の動きだけは分かった。
「健二」
彼女は今にも泣きそうな顔で、口を動かすのだ。
「大好き!」
手に持たれたその花は、叔父が沈んだ沢に積もっていたという花だろう。
それがちりぢりと大地に散って行く風景をみて、大河ははじめて唇を噛みしめた。そうでもしなければ、涙がこぼれ落ちそうであった。
「……お客さん、大丈夫ですか。忘れ物ですか?」
「いえ」
運転手が鏡越しに、大河を見ている。大河は慌てて顔を肩で拭い、写真を鞄に押し込む。
「いいです。また来るんで」
「若いのに珍しいですねえ。なあんも、ないでしょう、この村は」
何も無い白い道をバスは進む。叔父もまた同じ風景を何度見たのだろう。大河は骨壺を強く抱きしめたまま、頷く。
「……また来ます」
窓を夕暮れが染めていく。その向こう、藍と茜に沈んだ村はいつか叔父が見た風景。
大河はカメラを持つように指を構え、その四角の隙間から風景を見る。
(……次は、カメラを持って来よう)
叔父が、笑ったような気がした。