オクラ畑、飛び出せロケット
夏の暮れの空気には、湿っぽい悲しみが含まれている。
それは、再会の季節であり別れの季節であるせいかもしれない。
遠くに響く蝉の声、窓から滑り混んでくる残暑の湿気に、温い風。夏の終わりの午後三時は、独特な色を持つ。明るさの中にどこか暗さが混じるせいだろう。
私は手を止めて日差しを見つめる。畳をしらじら当たるのは真夏とは明らかに違う色。去年もおととしも何十年も前から、ずっとずっと見てきた、夏の終わる色。
「お母さん」
急に声が聞こえてきたので、私は思わず息を飲み込んだ。一瞬、心がここを離れて遙か遠い夏を旅していた。そのせいで、手元で留めていた段ボールが傾き、せっかく詰め込んだアルバムが一気に床に滑り落ちる。
「お母さん、進んでる?」
額に玉のような汗を浮かべて顔を覗き込んだのは、娘のゆきだった。
広い額に光るたまのような汗と、大きく見開かれた目は彼女がまだうんと幼い頃と同じ表情だった。
まるで30年前の彼女がここにいる錯覚を覚え、ダンボールを押さえる手がまた緩まった。一瞬だけとどまったアルバムはあっという間に崩れ落ちて床に広がる。
「ごめん! 邪魔しちゃった」
「……ゆき」
しかし、顔を上げて良く見れば、そこにいるのは大人の彼女だ。
かつての私の顔のようであり、亡き夫の顔のようでもある。目元の笑い皺は夫によく似ていたし、苦笑する時に唇を噛む癖は私に似ている。
「アルバム、落ちちゃったね」
ごめんごめんと、ゆきは笑ってアルバムをかき集めた。分厚い表紙のそれをぱらりとめくると、黄ばんだフィルムの向こうに家族写真が見える。
夏の頃に撮ったものだろう。まだこの家がぴかぴかと新しい。庭先で、小さな娘と若い私と夫が並んでいる。彼が手にしているのは小さな苗だった。
「まだ庭が広い頃ね。苗を持ってるってことは、この日からお父さんの庭いじりがはじまったの?」
「そういうこと。何でも凝る人だったからねえ」
手早く片付けて、段ボールにガムテープで封をする。そして息を吐いて、思わず庭を見た。ゆきもまた、同じく庭を見ていた。
「また庭ばかりみて、引っ越しのしたく進んでないじゃないかって」
古い畳の上には、真新しい段ボールが山積みになっていた。明日、私はこの家も思い出もこの場所に置いて、町に出る。
娘の家に、行く。
娘は私の隣に座ると、あぐらをかいてタオルで額の汗を拭った。
自分が産んだ子には礼儀礼儀と煩い癖に、いざ自身が母の前に出ると動きが乱雑になるのが娘という生き物なのかもしれない。
剥き出しの足を軽く叩くと、彼女は照れたように姿勢を正す。
「こうしてみると、まるで立派な畑みたいねえ」
「そうね、オクラ畑ね」
私達が座る部屋の向こうには、小さな縁側、そして小さな庭が広がっている。
その庭に、一面植わっているのはオクラである。
日差しの差し込む庭に、支柱がいくつも立てられていた。尖った大きな葉っぱが無尽蔵にのびて、風に揺れている。
庭の向こうには山に続く道があり、左右には何も無いのでまるでオクラの葉が小さな森のように見えた。
遠い昔、何も無かったこの庭に夫がオクラを植えたのである。それが、はじまりだった。一つで収まるはずもなく、二つ、三つ。ほかの植物を植えてはどうかという言葉を無視して、オクラばかり彼は埋めた。
「父さんがオクラが好きで、こればっかり。気がついたら、庭一面にオクラの畑」
「お父さん、オクラを食べてるイメージ、あんまりなかったけどなあ」
「オクラは実の生え方が独特でしょう? あの人は、あれが好きなのよ」
オクラの実は大地にはつかない。太い幹のような枝に、指のようににょきりと生える。彼らは必ず、尖った先を天へと向ける。
それがまるでロケットのようだ。これはいつか、ロケットとなって空を駆けるのだ……亡き夫は、まるで子供のようにはしゃいで、いくつもいくつもオクラの苗を植えた。
「勝手な人だなあ、お父さんは。お母さんも、途中で止めたら良かったのに」
「でも、お花が綺麗でねえ」
植えたオクラの苗は夏になると緑が濃くなる。そこに大人しいハイビスカスのような白い蕾が見え始めると、私もわけもなく嬉しくなった。
花が開けば、それはクリーム色に姿をかえる。花の中には、はっと目を惹きつける赤い芯がある。それがやがて、あんな無骨な実となるのである。
「お花畑みたいになるのがたのしくって、ついついね」
「お母さんは、お父さんに甘かったから……私はいやだったなあ。夏になるとオクラ料理ばっかりで。お弁当も全部緑色だったし」
これだけ苗があるものだから、当然オクラの実は呆れるくらいたくさん獲れた。今もちょうど収穫時期で、獲っても獲っても毎日そのロケットは発射台に設置される。今日の朝も、娘と孫とで必死に収穫した。明日、私がここを出ていってもオクラは構わず実を付けるのだろう。
「お母さんがここを出ても、ゆっこおばさんが面倒みてくれるって言ってたよ。一安心しちゃった」
「そうねえ」
「でも、一株だけなら、うちでも育てられるからさ」
一番力強い苗を明日、トラックに乗せて運ぶ手はずは整えてある。しかし苗も、たった一本だけでここを離れるのは寂しかろうと私は不意に寂しくなった。
……日が落ちかけているのか、どこかからヒグラシの声が聞こえる。近くを流れる小川の水音が、今日はひどくよく聞こえる。
虫の声も、盛夏のころとは違う声になっている。夏が終わるのだ。
「あ、そういえば精霊馬もオクラなのよね」
娘が、ふと仏壇の前を見た。そこには大きなオクラに爪楊枝をさして置いてあった。精霊馬というほどのものではないが、なんとなく、盆がくればオクラばかり作ってしまう。
盆終わりには片付けるものだが、私は毎年片付けを遅らせてきた。毎年毎年遅れがちになり、今では夏の終わりまで放っておくことも多い。
「早く食べなきゃ、萎びちゃうよ」
娘がひょいっとそれを取りあげると、何の感慨もなく爪楊枝をぬく。あとに残ったのは、ただのオクラだ。
「ほらもう、しなしな」
それを軽くつまんだまま、彼女は私を見た。
「私、料理しようか?」
「いい、いい。ゆきは、引っ越しの片付け続けてなさい」
娘からそれを取りあげ、私は台所に向かう。
随分片付けたので、台所もすっかり寂しい。しかしまな板と包丁、簡単な調味料に鍋くらいは残してあった。
年季の入ったまな板の上に転がるのは、とりたてのオクラと精霊馬のオクラだ。上から塩をまき、押しつけすぎず、緩すぎず、ゆっくりと転がしてやる。
「まずは、こうして表面の産毛をとって……」
ご、ご、ごと力強い音をたててオクラが手の中で転がった。掌にちくちくと痛いものが突き刺さる。それはオクラのもつ牙である。
ロケットにもなる、牙も持つ、オクラは強いものだ……と、夫は不思議とオクラのことばかり言っていた。
だから私は精霊馬を作る時、迷わずオクラを選んだのかもしれない。
だが、これが本当にロケットなら、一瞬で、彼はあちらの世界に戻ってしまう。
それが嫌だという、まるで少女のような気弱さで私はいつもオクラの馬を片付けない。これを片付けるとき、今年も夫はロケットに乗っていってしまったのだ。と、しみじみ悲しく思えるせいだ。
「そして、湯がく」
私は柔らかくなったオクラを湯の中に放り込む。と、サッとその色が変わった。古びた鍋の中、美しい緑の色が広がった。目の覚めるような、グリーンである。
熱い湯を吸ってふっくらと美しい緑になったそれをさっと取りだし、続いて熱したフライパンの上に。油が跳ねてじゅ、と音を立てる。跳ねる滴を堪えながら転がしていけば、やがて緑の表面に綺麗な焦げ目色がついた。
焼き上がりを皿に盛って、マヨネーズを添えれば終わりだ。簡単なのに美味しい。香ばしくて、柔らかくて、とろける。
箸なんてつかわない。へたを手づかみして食べるのが、一番美味しい。
思えば夫が亡くなった時もちょうどこの季節で、私は泣きながらいくつもオクラを湯がいたのだ。
何もこんな日にまでと呆れる娘も泣いていた。オクラのグリーンを見て切なくなるのは、そんな思い出のせいかもしれなかった。
「ばあちゃん」
「よしくん」
とん。と背中に暖かく柔らかいものが触れて私は目を丸める。膝の裏に、まるでしがみつくような小さな手が見えた。ぷくりと膨れたその愛らしい手を撫でてやると、その小さなものは嬉しそうに弾けるように笑うのだ。
「ばあちゃん、オクラ?」
「ごめんねえ。またオクラだけど」
「いいよ、俺オクラすきだもん」
私の膝に絡みつき笑うのは、孫である。彼は、幼いながらに力強い顔をしていた。
「ロケットみたいで!」
ぶうん。と子供らしい口調で腕を大きく広げて、彼は駆け出していく。遠くで娘がそれを叱る声が響く。しかし私は唖然と、彼のその小さな背を見送るしかできなかった。
……血は、つながっているのである。
「佳史さん」
オクラを手にしたまま、私はふと声に出した。夫の名を呼ぶのは久しぶりのことだった。
「良かったわねえ」
古びた家に響く足音も、部屋中に漂う青い香りも今日までのものだ。しかし、全て明日に繋がるものである。
ひとつ、オクラを掴んで口にはこぶ。皮がぷちりとちぎれると、柔らかい種がとろりと流れこむ。
噛みしめるとなんともいえず青臭い、夏の終わりの味がした。