仏性が有りや無しやの曼珠沙華 中
二人の目を覚まさせたものは冷たい草露だ。秋の空気を含んだそれが、二人の顔を伝って落ちたせいである。
目を開けるのは。いつものように姉が少しばかり早く、弟はほんの少し遅い。
……と、言ってもほんの少しの時間差だが。
「お寝坊な我が背子よ」
姉は身を起こし、地面に寝転がる弟の精悍な顔をほれぼれと見つめて微笑んだ。
弟は目を開き、眩しいほどに美しい姉の顔を見上げ照れた。
「いつも同じ時に目を覚ましますね」
「それは姉上とて同じこと」
先日、元服を終えた弟の顔は幼い中にも精悍さが滲み出る。
しかし、そり落としたはずの前髪の残り香がまだそこにあるようで、姉はいとおしく弟の頭をなでるのだ。くすぐったそうに笑う彼は、姉の手を取りそうっと口づけた。
「痛くはありませんでしたか、姉上」
「あなたの刃で死ねるなどなんという至福。姉を刺したあなたの心の痛みに比べれば、なんということもありません」
姉はそっと胸を押さえる。
そうだ、この細い胸に弟の太刀が沈んだのだ。
「愛しただけでも罪だというのに、死はさらに罪深い。しかし私は貴方に殺されて涙が出るほどに嬉しいのです」
姉でありながら弟を愛した。弟でありながら姉を愛した。
罪は二人を苛んで、そして二人で死んだ。
姉弟といっても彼らは母の胎内よりほぼ同時に生まれた、双子である。
畜生の子と呼ばれいたぶられる間に、愛が芽生えた。思えば母の胎にあるころから寄り添い、生まれ落ちて粒の別れた二人である。それは愛よりも深い絆である。
その理屈は彼らの中でまかり通っても、世には示せない。二人の姦通を知った父は、弟を酷く打ちのめし、姉を遙か北国の男へ嫁がせる用意を整えた。明日が姉の婚礼というその深夜、二人は秋雨の中に赤い血を垂れ流す。
「心中などすれば、地獄に堕ちると言われておりましたが……」
体を打ち付ける雨の冷たさも、死への恐怖も姉はすべて忘れた。顔を上げれば、そこには見事なまでの曼珠沙華の畑が広がっているのである。
「ほれこんなに美しいところに墜ちてきました」
「姉上。これは見事な」
「ほんに、見事な……曼珠沙華の畑ではないですか」
赤。赤。目前は、見事なまでの赤。曇天の下、どこまでも続く赤い花畑に、姉はぽうっと見とれる。弟は、姉の体をかき抱き、怯えるように周囲を見やる。
「姉上。ここは、なんという……場所なのでしょう」
「空気が乱れたのは、お前さんたちのせいか」
空気が、不意に揺れた。弟は、素早く姉の体を抱き寄せて、幼い二人は曼珠沙華の花畑に足を取られ転がった。
「誰だっ」
「弟に手を出してはなりませぬ」
転がってなお、姉を守り声を荒げる健気な弟を、姉もまた必死にかばった。
そんな二人を見つめていたのは、巨躯を持つ男である。
「おっと、別に乱暴をしようってわけじゃねえ。落ち着きな」
突如現れた男は絣の着流し、赤の帯。髪も伸び放題の、まるで遊び人のような風体だ。顔にはえぐれたような傷もある。しかし不思議と、人を和ませる空気を持っている。
「ここは彼岸だ。お前たちがいたのは此岸。つまりここは、あの世だ。まあ心中なんぞしているのだから分かっているとは思うが」
男は転がった弟の手を握り、引き上げる。
「あなたは、彼岸の……ここの主か」
「そんな立派なもんじゃねえよ。ただ、ここの番人だ。空気が乱れた時は大抵、誰かが此岸から流れ着いたってことだ。妙に乱れてると思い、見に来たら、案の定」
男はまだ幼い二人の顔を見て、やや悲しげに目を伏せる。
「幼い顔立ちだが、哀れなことだ。お前さんたち、心中をやらかしたねえ」
姉も弟も声もない。ただ、姉は刺された胸を押さえ、弟は自ら貫いた喉を押さえた。男には全て見通されるのだろう。
まだ若く散った哀れな命を、男は慈しむような目で見つめる。
「聞こえるかい。右の奥に進めば、おまえたちのいうところの、極楽浄土。蓮の花が咲き天女が歌う、そりゃあ、綺麗な水も湧く」
ずるり、とどこかからか音がした。
男は音に気づかないように、続いて左の奥をさした。
「あちらにむかえば、地獄だ。恐ろしい閻魔大王が死人を罪人を血の池に、針の山にと、送り込む」
恐ろしい。と姉は震え、弟もまた顔をこわばらせる。ずるり、とまた音が聞こえた。今度は幻聴ではない。曼珠沙華の花たちが、まるで悲鳴を上げるように打ち震えている。
「……可愛そうだが極楽浄土におててつないで一緒に、ってわけにゃいかないようだ」
足下に、ぬるりとした赤の掌が顔を出す。それは血を落とし落とし、這いずって地中深くからよじ登ってきたらしい。
その掌は、曼珠沙華をかき分けて二人を見上げている。
「……どちらかは極楽へどちらかは地獄へ落ちねばならん」
きちきちと、掌が開いては閉じる。掌に触れた曼珠沙華はよじれて立ち枯れた。
「……なぜ」
「それがお前さんたちの罪だからだろう」
まるで品定めをするように掌は姉と弟の顔を見上げ、指を大きく広げた。弟は、震える姉を押し退け、一歩進む。
「私が参ります」
「な……なりませぬ!」
「先に言うたものが勝ちでございます、姉上」
青い袴もまぶしい、新緑のような若者である。顔は決意に満ちても膝は震えている。止める姉の手を払いのけ、彼は男の顔を見上げた。
「私が参る」
「よい覚悟だ」
地獄の掌は喜び勇むように、弟の足首を掴む。男は弟の顔を抱きかかえ、漏れた悲鳴を姉の耳から遠ざけた。
弟は、息も絶え絶えに男に礼を言う。その声さえも、若々しくそして切ない。
男はその頭を優しく撫でた。
「……彼岸花は葉より先に花が咲く。花が散れば葉を付ける。花と葉が出会うことはない。同じ場所で生まれてお互いを想いあうのに、出会えないのはなんと可哀想なことか」
男の懐の内側で、弟は痛みに耐え息をかみしめている。男はけなげな弟をしっかりと抱きしめた。
しかし弟の体はゆっくりと曼珠沙華の花畑に沈んでいく。ゆっくり、ゆっくり……まるで引きずり込まれるように。
「……まるでお前さんたちのようだね」
「あね……姉を……我が妻を……頼みます」
「さあ。お前はこの曼珠沙華を一本、しっかり握って、極楽へ」
地面に墜ちていく弟を声もなく見つめる姉に、男は一本の曼珠沙華を差し出した。
「なにを……」
「浄土の池にゃ、地獄をのぞき込める穴がある。そこに一枚、二枚、ゆっくりと花をちぎってながすのだ。そうすりゃ、弟はいつかその花の後を追い、極楽へ上がることができる」
弟の体はいまや、胴の中頃まで地面に沈み込んでいる。彼は姉の持つ曼珠沙華の花を、見つめていた。
「なぜ、見知らぬ我らにこのような親切を」
「いや、ただじゃあねえよ」
男は弟の頭にも、曼珠沙華の花を一本、飾ってやった。
もう、体は随分と地獄に沈んだ。痛みもあろう、別離の悲しみもあろう。姉は細い爪で必死に地面をかいて、弟を助けようと嘆く。
「姉上、おやめなさい。手に傷が付く。私は大丈夫です。きっと、きっとこの方のいうとおり、曼珠沙華の花を追って極楽に登ってみせましょう。だから今しばらく、今しばらく……」
弟の涼やかな声に、姉はようやく観念をしたようにその場に泣き崩れた。
「私は」
もう顔まで地面に潜った弟の声は、地獄のように響く。
「私は、何をすればよいか、曼珠沙華の番人どの」
「……俺も女とともに心中したクチでね。しかし、俺は死にきれず好いた女を一人で地獄に追いやった。もう会えもしねえ……あの女は、地獄の奥に。なあ、弟よ。お前が地獄に行って、もし永遠の炎に焼かれる哀れな女があれば、閻魔様とやらに直訴してくれ」
弟の頭は、ずるりずるりと、地面に沈む。風はしゅうしゅうと泣く。鬼の泣き声か、曼珠沙華の泣き声か。
「……女の代わりに俺を燃やしておくれとな」
いや、男の泣き声か。
曼珠沙華を握りしめた姉は、確かにその音の中に男の泣き声を聞いたのである。