仏性が有りや無しやの曼珠沙華 上
目前は一面、赤の海である。
風が吹く度にさざ波が起きた。風が凪げばさざ波も止む。ふうっと一風、強く吹き付ければ波が揺れる。
「……いや、違う」
私は溜息を吐いた。
「何と……見事な……彼岸花か」
目の前は海ではない。それは一面の彼岸花の群生地である。
身を起こせば体中のあちらこちらが、ぎしぎし痛む。見れば腕から血が流れ、着物は裂けて膝には青い痣がある。立ち上がれば骨が軋む音がする。
痛みに耐えてそうっと周囲を見れば、そこは赤。赤。赤の世界だ。見渡す限り、一面の赤だ。
今が盛りの彼岸花が一面に咲き誇っているのである。風が吹く度に一斉に揺れる。さながら赤の海だ。
「かあいそうに、こんなにも傷だらけで。そうか。お前さんは此岸から流されてきたんだね」
気がつけば目前に一人の男が立っていた。痛む目を開けて顔を上げれば、そこにいるのは巨躯を持つ着流し姿の男だ。
頬にえぐれたような傷を持ち、浅黒い皮膚からは堅気ではない空気が滲み出ている。しかしその瞳は存外優しそうで私は安堵した。
今は、人の気配だけでも嬉しい。
それほどに、ただただ何も無い場所なのである。ただ、ただ、彼岸花だけが咲き乱れる。
「ここは、なんという所なのか……見事な場所だな……」
言葉にならず、私は夢見心地につぶやいた。四方見渡す限り、花以外何もない。
「目が覚めれば……ここにいた。ここは、恐らく、現世ではあるまい」
人間も、この男以外にはないようだ。
私は不意に、薄ら寒さを覚えた。
「そうさな、ここは彼岸だ」
「彼岸?」
男は乱雑に腰を落とす。その音が大きく響くほどに、この場所は静かだ。
「あの世だね。といっても入口だが。お前さんが居た世界は此岸という。しかし、命あるものは、死ねば彼岸に辿りつく」
秋の風はしゅうしゅうと音を出す。白く、寂しい風だ。ここがどこなのか、男の言葉を反復して私は唇を噛みしめた。
雲が地面に付きそうなほどの曇天、音も生もないこの空気、いずれも生きた世界ではない。
「彼岸……彼岸ということは私は死んだのか。ああ。そうだ、死んだはずだ。確か……つまらない、いざこざで」
私は一歩、二歩。彷徨うように歩いて、地面に膝を突いた。折れた彼岸花の花が私の膝に散った。その燃えるような赤の色を見て私は思い出した。
……私は、女を奪い合い、斬り合ったのだ。
武芸を鍛え、父と母と主君の為に生きた人生であった。だというのに、なんとつまらない、呆気ない最期であろうか。
恋の仇に斬られ蹴られて深夜の堀に、突き落とされた。水中を舞い上がる血の筋が、まるで彼岸花の花弁のようであった。
死の痛みと苦しみと悲しみと空虚な気持ちが体を襲い、私は震えて座り込む。男はそんな私の背をなだめるように、二度なでた。
「人生なんぞ、そんなもんだ。最期は呆気ない。死に様なんぞ、つまらんもんさ。彼岸から此岸を眺めてみれば、そんなことが良くわかる。たいていみな、唖然としたまま彼岸に流れ着く」
男は目を細めて私を見る。腰には刀も佩いて無いが、いずれ彼も武士だったのだろう。身のこなしが、町人のそれではない。
「貴方も、死んでいるのか……」
「多分な。もうここは……動いていない」
男は笑って、胸元をたたいた。
「ここで、なにを。三途の川にいるという、鬼の化身か、それとも」
「俺は曼珠沙華畑の番人よ」
男は袖口から腕を伸ばしそれを耳に押し当てる。
「ほれ、聞こえるだろう。曼珠沙華が囁く経文が」
「彼岸花の……」
「彼岸花、なんぞと言えば花たちが気を損ねるぞ。曼珠沙華、と優しく呼んでやれ」
ざ、ざ、ざ、風の音か、水の音か。花の音だ。いや、低く低く、経文を読む声だ。
それはか細い女の声だ。緩く低く、経文の声が一面に響き渡る。
花が互いをすりあう音が、経文の声に聞こえるのである。
その音を聞くごとに、私の中から苦しみや憎しみ、悲しみがとろけた。
……阿呆な人生であった、と儚く思うばかりだ。
人は彼岸にたどり着けばすべての後悔が溶けてなくなるという。洗い流された心中は、ひどく穏やかである。
「曼珠沙華の別名は、彼岸の花に死人花、狐花、地獄の花に幽霊花。まあよくぞここまで悪意に満ちた名を付けられたものだね。こんなに美しい花だというのに」
男は腰を落として一本の彼岸花……曼珠沙華を慈しむように見た。
「ただ、ここ、彼岸では曼珠沙華と呼ばれる。天上の花だよ。ただし花には仏性はないものだから、この花達は極楽浄土にはいけない。彼岸の花だ。だからこうして、彼岸の川辺で経文を読んで極楽浄土を恋い慕う」
男は遙か彼方を指さした。
「本来ここは彼岸の端の端。滅多に人なんぞ流れてこないのだが、どうにも恋に破れた人間は、この川辺に流れ着くことが多い。曼珠沙華は未練と恋の花だ。それに惹かれるのかもしれないね」
「私は、どこへ行けば」
「ここからずっと右手に行けば、極楽浄土だ。ほれ、聞こえるだろう。天女の歌声、鳥の鳴き声、ついでに清らかな経文の声」
男が指さす方角からはなるほど、美しい歌声が聞こえてくるようだ。光も満ちているようだ。曼珠沙華たちはそちらに頭をもたげ、切なそうに露の涙を零す。
「真っ直ぐに、後ろを見ずにすすめばすぐにつくさ。死に様の恋の憂いも悲しさも、浄土につきゃあ、なんてことはない。お前さんは極楽への道が開いている」
「貴方は」
「俺は曼珠沙華を見ている」
男は曼珠沙華を一輪、なでて笑った。
「見ているだけだよ」
「……成仏も、できないのか」
男は飄々としているが、どこか空虚であった。どれくらい昔からここにいるのか。
「なぜ、このような役割を」
「俺の惚れたイロは、俺の目の前で真っ赤に燃えておっちんじまってね」
男は太い腕をぐっと宙に差し出す。開かれた掌に、曼珠沙華の花弁が溢れて落ちる。
「差し出された手を、俺は握ってやることすらできなかった。見なよ。曼珠沙華の花は、あのときの女の手に似ている」
曼珠沙華の花は、いずれも花弁が華奢だ。天に向かって花は伸びる。それは助けを求めてもがく女の影のよう。
「後悔をしているのか? まだ悲しいのか?」
私は初めて、男の顔を真正面から見た。厳つくもあるが、優しげな風貌だ。彼にどんな恋の罪があったというのか。
「彼岸にきて、俺は悲しみもあきらめも溶けて消えた……今は穏やかだ。だというのに、お前の悲しみは消えないのか」
「……つまりこれは俺の罪というものなのだろう」
無数の曼珠沙華に囲まれて、男は私の背を軽く押した。一歩、進めば暖かな光が。一歩、進めば浄土の声が。
艶やかな極楽への道を進みながら、私はつい肩越しに振り返る。
男は穏やかな笑みを浮かべたまま、曼珠沙華の赤に焼かれていた。
なるほどここは海ではない。恋の業火が燃える岸。
どうぞ男に穏やかな最期を。と、私は心中密かに経を編んだ。