花拾う人 陸 【春運ぶ色】
一休が奇妙な男と出会ったのは、早春の風も冷たい村のはずれのことである。
薄墨を流したような空から、しとりしとりと雨の滴が降り落ちる。
早春とはいえ、朝も夜もひどく冷えた。山村では雪が積もったという噂も聞く。
このような人の気配もない村の外れともなれば、雪こそ降らないものの風の冷たさが身にしみた。
街道からも遠く離れたその場所には、家も茶屋もない。ただ一本の桜の木があるばかりである。
「よっ」
手を擦り合わせながら一休は軽く手を上げた。桜の木の根元に、一人の青年がある。
雨はいよいよ本格的に降りつけてくる。雨を受けた花が、耐えるように震えているのが健気ですらあった。
「まったく、春の雨は花泣かせだ。せっかく咲いた花が散ってしまうな」
雨を避けて木陰に駆け込めば、間一髪。さあ……っと音をたてて細い雨が一気に降り落ちた。
花の隙間から水が滴り落ちて一休の袈裟が重さを増す。それを絞り、一休は錫杖を木に立てかけた。
しかし、目前に座る青年は、一休が駆け込んでこようが雨が降ろうがお構いなしだ。背を幹に預け膝を投げ出し、まるで死人のような顔でぼんやりと目前だけを見つめている。
「お前さんも、雨宿りかい。それとも、一人きりでお花見かい」
一休は戯けるようにそう言って、男の隣に膝を進めた。青年は身じろぎもせず、顔をこちらに向けることもしない。
一休はさり気なく錫杖を引き寄せ、油断なく男の出方を見た。
「……こんな寂しい場所でよ」
人の気配はひとつもない。雨の音と風の音が鳴るばかりの場所である。ただ一本あるこの桜木は、今が盛りと満開だが、雨に色を奪われたようにただ白い。
力なく垂れた花弁は、愛らしいと言うよりも恐ろしい。花は一斉に、一休を見つめているのだ。
そんな木の根元で、花を見るでなく座り込む男は不気味だ。
「……待ち人を、待っているだけです」
男はようやく声を上げた。その口調は突き放すように冷たく、眉間に細い皺が浮かんでみえた。その顔を見て、一休は目を細める。
「ん……お前さん、良い男っぷりだねえ」
男はまだ若い。二十にもなってはいないだろう。細面の顔に、細い顎。肌も髪も抜けるように白い。瞳もどんより白く濁っていた。
しかし、顔は造られた人形のように整っている。
ただ目に生気はない。気力も無い。彼は一度だけ一休を見つめて、また目線を前へと戻した。
天には春らしいどんよりとした雨雲が重苦しく渦巻いているばかり。
男のあまりの気力の無さに一休は脱力する。
(……これまで色んな鬼もあやかしも見てきたけどよ)
男は人間ではないだろう。その顔色は、おおよそ生きた人間のものではない。しかし、一休を敵視する様子もなければ怯えて逃げる様子もない。
(こんなにやる気のねえ男は、はじめて見るぜ)
仕方なく、一休は彼の隣に音を立てて腰を落とした。
男は真っ白な着物を白い膚に乗せている。
この妙な寂しさは、男に色がないせいだろう。
「この辺りに、妙な気配がしてござる。鬼のようなあやかしのような、幽霊のような……」
「あやかし?」
「それを探りに俺は来た。そしたらお前さんがいた。ってわけよ」
噂の出所は相変わらず、古物商の弥平であった。
最近彼は、日を開けずに一休の元へ足を運ぶ。地獄太夫に逢う目的もあるのだろう。しかしそれ以上に、鬼やあやかしの情報を一休に与えるのを喜びとしているようだ。
そもそも、あやかしが好きなのだ。とほろ酔いの弥平は語った。古物に惹かれる理由もまたあやかし好きが高じてのことである。
古物にはあやかしの気配のようなものが染みつきやすい。それをのぞき見るのが彼の至上の楽しみであるという。
とはいえ、弥平の仕入れてくる噂は虚八割、真二割といったところ。しかし、あやかしを求めて江戸中を当てもなく探し歩く一休にとって、彼の情報は真偽不明でも有り難い。
「鬼とは、お前さんかえ」
「さあ……どうでしょうか」
「ちょいと失礼」
男が身じろぎもしないので、一休はいよいよしびれを切らして彼の腕を掴む。引き寄せ、瞬時に彼の額をぽんと叩いた。
その指先に伝わる、確かな隆起。
「……ああ。いけねえや。鬼の角が生えかけている。お前さん、これを知ってるかい」
彼の白い額の中央が、ふくらと膨らんでいる。それはまるで、桜のつぼみのようだ。しかし、中は固い。額に割れ目が見える。薄く裂けて、中から現れるのは白く尖った角である。
「春になるころに生えてくる困った角です」
「恨みを残して死ねば、額を割って角が姿を見せるのだ。それを残したままだと鬼となる。俺はな、こういうのを折るのを生業にしてるのだ。まあ、痛いことにはしねえから、どうだひとつ俺に任せて見ちゃあ」
一休はずい、とひざを進めた。
人でも物でも植物でも、恨みや未練を残せばそれは鬼の角となって額を割る。角の生えたものは、鬼とならざるを得ない。
それを防ぐには、狂ったしまうその前に刈り取るしか方法はない。無論、刈り取れば死ぬ。しかし元より死んでいるのだから、正しい状態に戻る。ともいえる。
少なくとも、未練地獄の苦しみからは救われるのである。
しかし、男は平然とその角を撫でた。
「……別に取ってもいいですが、これは貴方じゃ無理だ。これを取れるのはただ一人。それを、僕はここで待っているものですから」
相変わらずの無気力なもの言いで、彼は膝を抱え直した。
目は、真剣に空ばかりみている。
何を見ているのか。同じ方向を見つめてみるが、そこにはやはり雲しか無かった。
「あの人にしか、この角はとれない。毎年、毎年儀式のようなものです」
「ふん。はじめてだ。こんな無気力なあやかしは……お前さん、この桜の木の精か」
一休は背後の桜の木を、錫杖で叩く。立派な幹だ。巨大な枝振りだ。これほど大きな桜ならば、精が付いても可笑しくは無い。
「そうです」
「それにしちゃ色がねえ。真っ白じゃねえか」
一休はふと、顔を上げた。
彼らが背を預ける桜木は、天に向かって大きく広げた手に満開の花を付けている。
巨木だ。花も多い。しかし、不思議とそれは皆、白い。
男の肌と同じ色だ。色が無い。ただただ真っ白な花弁が、みっちりと天を覆って時に揺れるのだ。春の雨を受けて落ちる花も白。それはぞっとする風景である。
「今じゃ江戸の連中は上野の山で花見だ桜だと大騒ぎしているがね。古来、桜ってのは恐ろしいものだった。俺はちいっと古い人間なもんで、今でも桜が怖くってならねえや。この木の下に座ると気が触れるってな。夜の闇を覆う、見事なまでの花の大群だ。梅と違って桜は固まって咲きやがる。見上げる先に、花に花に花……」
そもそも花見など、流行りはじめたのはついぞ最近の話である。桜の木など、野山や里の村はずれに咲いていたもので、その狂い咲きは山賊の心さえ乱すといわれた。
桜は、あやかしの同族である。人の心を妖しく乱す。人の血肉で赤く染まるのだ……などと、言われることさえある。
青年は一休を見て、薄く笑った。
「そのことに関しては、僕にも異論はありません」
「暖簾に腕押しだね。なあ。お前さんの待ち人は誰だ」
「鳥です」
「鳥が突けば角が落ちるのかい」
青年はもう答えない。その代わりに、空を見る。なるほど、使者は空より現れるらしい。
「……あなたは、この角を取ってどうするつもりです」
彼はふと、一休に問いかけた。
「角を集めるなど酔狂な」
「なんてことはない。俺の可愛い可愛い弟子のやつがさ、その角を集めてるのさ。角はおちれば花の種となる。そして地獄の底にある花園に、それをそっと植えたと思いねえ。そうすると、綺麗な花が咲く。地獄っていってもそこは極楽浄土のように美しい。だから安心して、角を任せな。悪いようにはしねえよ」
「さぞ、綺麗な……色鮮やかな花園でしょうね」
「咲けばな、百花繚乱だ」
「なるほど……」
青年ははじめて、薄く微笑んだ。それは、一休を見て微笑んだのではない。誰かを思って笑ったのだ。その微笑みは、目を見張るほどに美しい。
彼は誰かを思い出すように、薄く瞳を閉じた。
「……ぜひ、見せてあげたいな」
伸ばしかけた手を、一休は落とす。
これまでは、やけに戦いが多かった。
角を刈り取るのに話し合いで済めばいい。しかし恨みを残した鬼たちは、無我夢中となり一休に向かって来ることも多かった。そうなれば、一休もまた錫杖を手に戦わざるを得ないのである。そんな戦いが、最近は妙に多かった。
だが、そのような血なまぐささを、この男からは感じない。
「まあ、無理に捻り取るのも俺の流儀じゃないやな。どうせ暇な体だ。その待ち人ってのを、待たせて貰うか……で、お前さん。名前は」
「……燕」
「お前さんこそ、鳥みてえな名前じゃねえか」
返ってきた男の言葉に、一休は苦笑する。
それは、春を呼ぶ鳥の名である。
地獄太夫が一歩、足を踏み出せば雪がちらりと降る。
二歩、足を出せばつま先に枯れた春の花が触れる。
早くに咲きすぎた花だろう。最近は、春に成ったかと思えば冬に戻る。寒の戻りが多すぎる。一瞬の暖かさに釣られて咲いた花は、哀れにもこうして散っていくのだ……と、地獄太夫は枯れた花を下駄の先で踏みつけた。
地獄太夫は頭に被せていた朱の衣を肩までおろし、きんと冷えた空気に顔をさらす。
口から漏れた息はなお白い。ゆるゆると、曇天の空に太夫の吐き出した白の息が伝わっていく。
冬の長い山の奥とはいえ、この寒さは異様である。ようよう膨らんだ山の桜は哀れなほどに寒さに震えている。
気がつけば、しとりしとりと雨まで降り出す始末。
「……今年は春が遅うございます」
地獄太夫は白く濁る空から、つい。と目線を送る。
かさかさと音をたてる古木の枝。木の葉も落ちるそこに、まるで緑色の顔料を塗り込んだような一点があった。
「ねえ、目白さま」
優しく声をかければ、緑の色が動揺するように蠢く。やがて、そうっと息を殺しつつ顔を覗かせたのは鳥の顔。
それは、一羽の目白であった。
輝くような緑の体に、目の縁には白の隈取り。小さな嘴は、人間の言葉を放った。
「あら。もう見つかってしまったわ。地獄のかた」
「ずいぶんと長い間、太夫の後ろを付いて来られていたものだから」
小さな目白だが、その目を惹く緑の色はこんな曇り空では隠しようがない。
そしてその体から薫るのは、極楽浄土で焚きしめられる香である。いずれ生の眷属のものではない。そのような香りをまき散らしながら、この目白は先ほどからつかず離れず地獄太夫の背後を飛ぶのである。
気付かないはずもない。と、地獄太夫は思う。
「太夫は本来、極楽浄土のお方とはお話もしたくない性分なのですが、目白さまはどうにも無邪気な方なれば、お声をかけてみようと思ったのです」
「良かった。ちょうど、迷子になっていたの」
足を止め、振り仰ぐ。と、目白がほうっと安堵をするようなため息をもらした。
「人の姿に戻っても?」
雨は目白のと小さな肩をたたき続ける。耐えるように震える目白に向かって地獄太夫が頷けば、彼女はゆっくり大地に舞い降りた。
「……」
小さな足が濡れた土につくか、どうか。
その瞬間に、足は人間のものとなる。濃い緑の衣に白の鼻緒。帯は山吹、顔を覆う尼頭巾は絹のような透き通る白だ。伏せられた顔が不意にあがる……そこにあったのは目白ではない。一人の老尼である。
老いたりとはいえ、その小振りな顔には品がある。彼女は小さな口をかすかに開いて、にこりとほほえんだ。
「ああ。疲れた。鳥は便利だけれど、このような雨の中。ずっと飛んでいると腕が疲れるわ」
彼女が歩けば極楽の香りがぷんと香る。
実際のところ、地獄太夫は極楽を嫌っていた。花が咲き乱れ音と香りと美しい色彩に包まれたこの世の浄土。苦しみも痛みも悲しみもない世界。しかし地獄太夫にとっては、そこは血の池よりもまだ苦しい。
そこには、閻魔大王はいないのである。
「なぜ太夫のことを?」
「あら。極楽では有名なのよ。地獄には綺麗な太夫さまがいらっしゃる。着物の柄は地獄の恐ろしい絵だけれど、赤に黄色にお美しい。袖は極楽浄土の図。雲にお釈迦様。天女の舞う様」
尼は地獄太夫の着物に顔を近づけて、うっとりと目を細める。手も触れんばかりになっていることに、ようやく気づいたのか彼女は頬を赤らめた。
「ごめんなさい。美しい色に目がないものだから……」
「極楽のかたらしい」
「私は極楽の畔で鳴いて過ごすばかりの鳥です。ただ、この季節、たった一日だけの旅行を許されているの」
にこにこと無邪気に彼女は笑う。笑えば、まるで幼い娘のようである。本来なら嫌悪すべき極楽の香りも、彼女がまとえば嫌みではない。つられて地獄太夫もほほえんでいた。
「まあ、いずこへ?」
「どうぞ、一緒にまいりましょ」
彼女は旅なれているのか、自然に地獄太夫の手を取ると自ら先陣を切る。それは深い山の道であるが、獣道を下っていけば村のはずれに出るのである。
その奥に、鬼の気配がある。そういって地獄太夫の師である一休が出かけていったのはもう数日も前のこと。遊んでいるのかそれとも強敵であったのか、ちっとも一休の音沙汰がない。
案じて出かけてみれば、雨である。そしてこのような、奇妙な目白と知り合った。
「たぶん、地獄のかたと目的は同じだとおもうわ。あなたも鬼の角を探してるのでしょう?」
「なぜそれを?」
「地獄のかたが鬼の角を取っているのは極楽でも噂になってるの」
優しく取られた手はあたたかい。死んでどれほどになるのか、地獄太夫には分からない。
気がつけば、手の温度など長らく感じていなかった。しかし尼の手はひどく暖かいのである。もう記憶にもないが、母の手とはこのような物であったのかもしれない。
尼は地獄太夫の手を優しくさすり、笑った。
「私もその真似ごとをしているのよ」
「まぁ」
「地獄のかたもずいぶんとお上手と聞いたけど、私もなかなかに巧いのよ」
「お手並み拝見」
地獄太夫の声を聞いて、尼ははにかむように笑う。
気がつけば、雨はひとつぶ、ひとつぶ細くなっていた。風も弱くなり、白い雲の隙間からかすかな青空がのぞきつつある。見えた空の色は、春の色である。
日差しさえ届きはじめた時、尼が意を決したように顔をあげた。
「……実はね」
一粒の雨が、地獄太夫の頬におちる。尼が袖で、その滴を拭う。
「もし地獄のかたに出会えたら、浄土へ連れて来るようにと言われていたの」
「……」
「あなたの人生は、あまりと言えばあまりの境遇。だのに、地獄でこのような酷な仕事をされるなど。あなたに罪はないわ、地獄のかた。さらに、あなたの師匠はあなたをきちんと弔ったというのに。地獄行きはあまりの理不尽」
「それは……」
地獄太夫の胸の内に往来したのは、生きた時代の地獄絵図。
山で無頼ものに浚われ店に売られ、男に押さえつけられた日々であった。高嶺の花よとあがめられながら、どうせは男に抱かれる運命である。
結局は一人の男に身請けをされたが、以後はその男に飼われるだけの日々であった。彼女の楽しみは学問と歌だけだ。そしてその才知の噂を聞きつけて、変わった禅僧が地獄太夫のもとに現れた。
それが一休であり、彼は地獄太夫の師と名乗った。
「……おししょ様は、酷い人です。太夫は……死んだ体を打ち捨ててほしいと願ったというのに、おししょ様はわざわざ太夫の墓なぞたてて」
地獄太夫に死が訪れたのは、一休と出会ってまもなくのこと。
どうぞ自分の遺骸は打ち捨ててくれと泣いてすがった地獄太夫に、彼は「きっと打ち捨てよう、野犬に食わせてやろう」と誓ったくせに、ふたを開けてみれば彼は墓などたてて彼女を丁重に葬ったのだ。
その恨みはいまも地獄太夫の中にある。無論、そんなことを言っても一休は飄々とかわしてしまうだろうが。
「それは師の優しさです。きっと私でもそうするわ」
尼はからからと笑うと、地獄太夫の手を優しくいざなう。まもなく山も終わる。まっすぐに進めば、村のはずれにでる。
「……だから本当は、あなたを極楽に連れて行こうとずっとついて飛んでいたの」
尼の目はまっすぐに、地獄太夫をみた。
「でも、そこに描かれた帯の絵を見て、誘うのは止めました」
「帯……」
「恋をしているのね」
は。と顔を下げれば、地獄太夫の体を包む大きな帯には、閻魔の絵が織られているのである。袖で隠せばその織は隠れる。腕を広げれば、見える。それは地獄太夫の胸の内をささやかに現すものである。
それを撫で、地獄太夫は苦笑した。
「太夫を極楽へ引きずりこもうという不穏な計画。その内容を当人である太夫に漏らしてもよかったのでしょうか、極楽の方」
「どうぞ地獄のかた、ご内密に……」
は。と気づいたように彼女は目を見開き、拝むように手をあわせる。そして、残りの道を急ぎながら尼は思い出したように、言った。
「あ。そうそう。私の名を律と申します」
それは仏の規律を意味する名であった。
村のはずれにたどり着く頃には、雨はすっかりあがっている。雲は払われ青い空がでているというのに、不思議と空気は白い。それは春特有の、湿ったぬるい空気である。
そんな空気の中、道に一本だけ桜が咲いていた。それは天をも覆うほど花をつけた巨大な桜だ。しかしその花の色は白。この空気と同じ、白である。
風もないのにざわざわ騒ぐその音に不穏なものを感じ、地獄太夫は歩みをとめる。その根本に、二つの影があったのだ。
目を見張るまでもない。その一つに、見覚えがあった。
「……おししょ様?」
「太夫じゃねえか」
よ。と声をあげて腕があがる。その痩せて引き締まった腕には覚えがあった。まさに、一休だ。
彼はすっかりくつろいだ様子で木の根本に寝転がり、顔にはかすかな寝起きの色がある。
よくよくこのような場所で眠れたものだ、と地獄太夫はため息をついた。
「あら偶然にも、お知り合い」
「師にございます」
情けなさに赤面しながら地獄太夫は答える。しかし一休はへらへらと、一向に恥いる様子もなく顔を拭った。
「よう。尼さんと道行きったあ洒落てるな太夫」
「ずうっと戻られないものだから、どこで油をうっているのかと」
「売る気はなかったんだけどよ。どうもここの鬼の気長さに、つられてゆっくりしちまった」
「……鬼?」
確かに、気配はふたつあった。一休の隣。顔を向ければそこにまるで白くくり抜いたような男がある。色がないのだ。髪も顔も着物もなにもかもが、白い。
それはこの桜木につく花と同じ色である。
そして、その白い額からは白の角がゆっくりと現れはじめている。
「なぜ、角を刈り取らずに遊んでいるのです、おししょ様」
「ごめんなさい、遅くなって。迷子になっていたものだから」
思わず警戒の色をみせる地獄太夫と違って、律の声はあかるい。彼女は一歩踏み出した。
「燕くん」
彼女がまっすぐに目線を向けるのは、まさにその鬼に対してであった。
「お待たせ」
「遅いですよ」
「さあ」
律が踊るように一歩出れば広げた袖が羽根となり、解けた帯が尾となった。尼頭巾の白は目の縁取りとなり、気がつけばそこにあるのは一羽の目白。
ぴくりとも動かなかった鬼が、弾かれたように立ち上がり待ちかねたように腕を広げる。
「色を」
二人の声が重なるなり、はらりと、色が散った。
「ああ。桜の花が」
地獄太夫は思わず呟く。
律の羽根がはためくと、彼女の体が空を舞う。そのまま、羽根で宙をなぞればそこに色が散ったのだ。赤に緑、鮮やかな色が雨の如くぽとりぽとりと白の桜に降り落ちる。
「薄桃の、色に染まる、春の花が」
一休もまた感極まったようにぽかんと桜の木を見上げた。
「……染まる」
落ちた色は桜に吸い込まれ、白の花にほのかな赤みが差す。花は一斉に色を取り戻した。漏れた色は大地に散って地面には緑の草が萌え出る。
黄色の花が咲く、紫の花が咲く、白の花が、美しい苔の色が、濡れたような緑の葉が、一斉に色づき始める。
春の色が、落ちたのだ。
白い鬼を……燕を見てみれば、彼の顔にも色が差す。白の着物は春の色彩が落とし込まれハッと目を惹く美しさ。
髪と瞳は黒々と、頬に生気が満ちて、目尻と唇にはサッと朱が差す。
彼は無言のまま、顔をそらし額を天へと向けた。彼女は何も言わず燕に近づくと、額に現れたその角を嘴の先で突く。さほど力の入った風には見えないというのに、角はあっさりと、彼女の嘴につままれた。
「これはね、遙か昔……まだ私が生きていた頃に、手植えした桜の木なの」
色彩の雨は一瞬で終わった。気がつけば彼女は元の尼装姿で木の根元に立っている。
樹齢何百年の木となるのだろう。幹は太く力強く、天に向かった枝には薄桃に染まった花が揺れる。
律は木の根元に座り込む燕の姿を見つめて微笑んだ。
「あまりに私を慕うものだから極楽浄土より毎年春を告げに来るのです。気難しい桜だから、そうでなければこの山は、春が来ないのよ」
「あなたが旅をする理由を、作ってあげているだけですよ」
「あら。有難う」
燕の額にはもう、角の欠片もない。色の付いた彼は、静かに木の幹に背を預けている。このまま木の中に吸い取られ、また早春の頃に白く染まって目覚めるのだという。いささか眠そうに彼は目をこすった。
「春を告げる色がなければ、どうにも寒くて体が動かない。ただそれだけのことです」
目覚めれば燕の額にはまた角が生える。そうして春を呼ぶ目白が色を運んでくるまで、毎日ただ待ち続ける……。
「この角は差し上げられないのだけれど」
律の掌には、白の角がひとつ転がっていた。それはやがて桃色に染まり、桜の花弁となる。
地獄太夫もまたそれを覗き込む。これを花園に植えてやれば、きっと綺麗な桜となるだろうと思った。
「何故でしょう?」
「私が食べてしまう、ものだから」
言い終わるより早く、律はその花を口にする。花はあっという間に吸い込まれ、やがて彼女の腹の辺りがぼうっと光った。
彼女は菩薩の如き笑顔で瞳を伏せ、やがて地獄太夫に小さな種を差し出す。
「代わりに、この種を差し上げましょう。」
「これは?」
「極楽に咲く花の種。綺麗な漆黒の種よ。まるで夜の海みたい。ただこの種は半分に欠けているでしょう。これだけでは埋めても芽も出ません」
律のいう通り、種はまるで半分に断ち斬られたような形をしている。断面はつるつると黒曜石のように輝いていた。
「それでは……」
「もし何かの種で半分に割れてしまったものがあれば、それに合わせて埋めてみて。そうすると、種は不思議と芽を出し花を付ける」
地獄太夫の掌に載せられた黒の種は、花の気配もない。ただこの種が欠けた鬼の角と合わされば、花が咲くのだ。それは奇跡のような図であった。
「これまで太夫は、角を取り損ねたこともありました。無理に奪おうとして割れてしまったことも」
角の割れてしまった鬼は、中途半端に苦しむ羽目となる。恨みは消しきれず、さりとて鬼にもなりきれず、人の心と鬼の心で揺れるのだ。結局は死んでいったものたちを、幾人見てきたか。
呟く地獄太夫の背を、一休の手が撫でる。口にこそしないが、一休もまた似た経験をしているはずだ。
「どんな花が……咲くのでしょ?」
「まるで春のような美しい花が咲くわ。名前は無いのだけど、私は蜘蛛の糸と呼んでるの」
律はそう言うなり、再び鳥の姿に成ると羽根を大きく広げた。
「それでは、また春に、燕くん。またどこかで出会えたら、地獄のかた」
彼女は燕の上を旋回し、やがて嘴を天へと向けた。
「春は一足で過ぎて行くものだから、どうぞゆるりと一瞬の色を楽しんで」
彼女の姿は緑の軌跡となり、春の曇り空の中へと消えて行く。後に残るのは一枚二枚、ひらひら舞い落ちる羽根である、桜である。
そして名残の雨である。
「いつも春は、早く終わる」
額から角が落ちた燕は、惜しむように呟いてやがて桜の花弁の中へと消えて行く。花が散ればまた、彼は色を亡くし鬼と化す。ただ春の世の一時の休息である。
「太夫よ、どうした。ぼうっとして」
「おししょ様」
とん、と背を突かれて地獄太夫は我に返る。一休が悪戯者のような顔で彼女を覗き込んでいた。
地獄太夫は掌の中の種を柔らかく握る。たしかに種からは、伽羅の甘い香りがした。それは極楽の香りである。しかし不思議と、嫌な気持ちにはならないのである。
「いえ、このような救い方もあるのだと、心に染みました」
「しばらくこの稼業を辞める気はねえか」
「ございませぬ」
地獄太夫の目下の目標は、地獄の底に作られた花園を花で埋め尽くすことだ。そのためには、もうしばらく種が必要である。しかし無理に刈り取れば花は咲かない。
最初はひどく面倒な仕事を押しつけられたものだと思ったものだ。
このような稼業を続ける限り、閻魔にもなかなか会えない。それならばいっそ、光も刺さない地獄の底で閻魔の側に従っている方がいくらも幸福である……と、当初はそう思っていた。
ただ、最近は思うのだ。
「外に出るのが楽しゅうて、仕方ありませぬ。外の世にはほれ、このように春があり秋がある……」
目前で揺れる美しの桜。香りもなく、儚い花弁はまるで飴細工のようである。蜜が照るように、光の当たった先が蕩けるように輝いていた。
この奥に、桜の精は眠る。来年の、春を呼ぶ色を待って眠る。
「それに今日のように面白い人達にも出会えまする」
「花園がたんと一杯になれば、どうする」
「血の池にも、賽の河原にも、植えてあげましょ。さすれば獄卒達も、きっと穏やかになりましょう」
ほほ。と地獄太夫は口を押さえて微笑んだ。
最初は閻魔大王に褒められたいがための仕事であった。しかし最近では、妙に楽しい。
「太夫はどうにも、この仕事が楽しくなって参りました」
微笑むと一休は呵々と声をあげて笑った。
「そうか良かった。俺も楽しい。死んでなお、こんなに楽しめるったあ人間一回死んでみるもんだ」
苦労はあるが、花はひとつひとつと確実に増えている。さてあの薄日しかささない地獄の底が、どんな花園になるものやら。
歌うように地獄太夫は呟き、一休の錫杖の音がそれに追随する。
師弟の足音は重なり、離れ、近づき遠ざかり、やがてその場所には雲海のごとく花を付ける桜の木がただ一本残っていた。