水族少女と寒がり男子
この水族館は、古くて小さくて目玉の魚もない。イルカのショーもなければ、これという土産があるわけでもない。だから人は来ない、来ても二度目はない。いつ潰れてもおかしくない。
それでも潰れないのは、解体するにも金がかかるからだ。
それに「町の唯一の水族館」ということで多少なり町から援助を受けている。だから潰れないし潰せない。たとえ一週間以上、客が来なくても、魚たちは呑気に水槽の中を泳ぎ回っている。
「武、ぼさっとしない!」
「はいはい」
名前を呼ばれ、武は居眠りの毒を欠伸と一緒にかみ殺す。
巨大な水槽に囲まれた館内は、夏でも冬でも一年中冷え冷え寒い。床は水族館特有の青いビニール製で、これがまたよく冷える。
それでも眠くなってしまうのは、体を包むダウンが布団のような役割をしているからだ。と、武は思う。
それとも、この冷たい空気に慣れたせいか。
(実家が水族館、なんてなかなか無いよなあ)
と、17年近く眺め続けた風景を見渡して、武は二度目の欠伸を飲み込んだ。
戦後のどさくさに紛れて曾祖父がはじめた小さな水族館は、潰すに潰せず田舎町に張り付くように生きている。
おかげで武は、水族館だけは来たいときに来られる生活を、生まれたときから手に入れた。
「はい。は、一回! 一応バイトなんだから、しゃきっとしなさい」
「バイト代もらってないんだけど」
「私だって、子供の頃にバイト代なんてもらってなかったわよ」
目の前に、エプロン姿の母親が立つ。そして、パイプ椅子に腰掛けたままの武を乱暴に立たせるなりスタッフ、とかかれた腕章をその手に押し込んだ。
「もう閉館時間だから、早く見回ってきて。晩ご飯遅くなっちゃうでしょ」
「はぁい」
それを腕に通しながら武は伸びをする。
毎日毎日繰り返される問答は、水槽から発せられる冷たい湿度と同じくらい、べとべとと武の感覚を粘つかせていくのだ。
変わらない毎日、変わらない会話の応酬。変わらない日々に、眠気ばかりが増えていく。
それは、冬休みの余韻をまだ引きずっているせいも、あるかもしれない。そして、高校二年生という気楽さのせいもある。来年の今頃は、きっと地獄だ。
「……さてっと」
見渡せば、青い水槽がぶうぶう不満気な音をたてて林立している。
泡を吐き出しながら泳ぐ魚は青い光に包まれて、薄暗い館内の中でひときわ輝く。そんな水を包む水槽のガラスは白く濁って歴史ばかりが感じられた。
水の香りというのか、青い香りがあたり一面を覆っている。嫌いな匂いではない。
それは、幼い頃から嗅ぎ続けた香りだ。生まれ落ちた時から、いつでもそこにあった香りだ。
海ともプールとも異なる、水族館独特の時が止まったような香りだ。
「寝てるくらいなら参考書の一つも開いてたらいいのに、この子は。来年は受験でしょ」
母親の言葉に刺を感じ、武は数歩退く。勉強と口にする母親は、水族館の経営者ではなく武の扶養者としての顔を出す。
「真面目にしておかないと、あんたの将来、この水族館の経営になるわよ」
そう言って母はいつも武を脅すのである。それを聞くたび、武はおかしくなってしまうのだ。
母は恐らく、この水族館を武に継がせたがっている。しかし同時に、未来のないこの場所を継がせたくないとも思っている。彼女の中で、葛藤がある。
未来が未知数の武は、そんな母親の葛藤がおかしい。将来何をしたいか、何になりたいか。本人は全く何も考えちゃいないのだ。
「バイトが寝てるのもだめだけど、勉強してるのもだめだろ」
首を数度鳴らして武はようやく歩き始めた。水槽の前に座っていると、どうにも眠くていけない。
水槽の中を泳ぐ魚たちが、眠れ眠れと誘いかけてくるような気がする。
それに、こんな平日の夕方など、客などほとんどいない。
「今日、何人くらい来たのお客さん」
「……一人よ。あの子」
ため息をついた母親に、武の動きが止まった。あの子。という響きで、水槽の魚が武をみた、そんな気がした。
「寒いから気をつけて帰るように言ってね」
母親はそんなことも気づかないのか、気軽に武の背をたたく。
閉館を知らせる錆びたアナウンスだけが、薄青暗い館内にゆっくりと流れていた。
閉館のアナウンスが鳴るたび、照明がゆっくりと落ちていく。音をたてて薄暗くなれば、かえって水の青さが際だつようだ。
そんなほの青い部屋の中に、一人の少女がいた。
「……やあ」
できるだけ驚かさないように、武はわざとらしい足音をたてて少女に近づく。
そしてちょうど、少女の四歩ほど手前で足を止めて彼女の反応を待った。
一度、近づきすぎて逃げられた。そのときには変質者を見るような目でにらまれたので、それからは懲りて近づきすぎないように気をつけている。
(……やっぱ、一回話しかけるくらいじゃだめか)
こぽこぽと、湧き上がる水の音に青い光。その光に照らされた彼女は、近所にある中学のセーラー服に身を包んでいる。
上には薄いニットのカーディガン一枚きりだ。寒くはないのかと人事ながら武は心配する。人一倍、寒さに弱いせいでそんなところにばかり目がいくのである。
話しかけても、近づいても、彼女は気づいていないのか無視をしているのか顔さえこちらに向けなかった。
「もう、閉館時間なので、そろそろお帰りの準備をお願いします」
「……すみません」
業務的に呼びかけると少女はようやく、小さな顔を上げた。
手はぺったりと水槽のガラスに置いたまま。先ほどまでは額まで押しつけて、真剣なまなざしで水の中を見つめていた。
この水槽は、館内一の大水槽だった。といっても、この館内で一番大きいというだけで、他の水族館に比べてみれば悲しいほどに小さな水槽である。
そんな自慢の「大水槽」は、青の部屋の真ん中に鎮座している。
悪趣味なほど床も壁も天井も青く塗られた部屋で、このエリアの入り口には大水槽。とそのままの看板が掲げられていた。
広々とした青の真ん中に、円柱型の水槽がただ一つ置かれている。
中には回遊魚をはじめ、鮫も数匹泳いでいる。あとは名前も知らない小さな魚や大きな魚。上に掲げられた看板はすっかり錆びて文字もよめない。
子供の時は何も感じなかったが、ある程度成長した今、この部屋を見ると妙に寂しい気持ちになるのである。
何かが足りない、そんな気がするのだ。ここは無駄に広すぎて、パーツが足りない。だから寒々しく、寂しい。
「何見てたの?」
少女は水槽の中が気になるのか、なかなか動かない。
武は怖がらせないように、できるだけゆっくりと話しかける。
実家がこのような家業なもので、そのような技ばかりが磨かれる。
「アジ? イワシ?」
「……違う」
幼い顔に似合わない鋭い目で少女は武を見ると、ゆっくりと水槽の奥を指した。
「あの……あそこにいる……」
彼女の目は一匹の鮫を、真剣に見つめているのである。
ここの鮫が、いつから居るのか武は知らない。鮫といっても大きな種類ではなく、鮫にしては細身の小さなものだ。
しかし背には鮫特有の背びれが尖り、目つきは鋭い。
アジやイワシと違って鮫たちはけして慣れ合わない。互いを牽制するように堂々と泳ぐ様子は流石、海の王者だった。
彼らは体を押し出すようにまるで弾丸のように泳ぐ。
彼らには狭すぎる水槽のはずだが飽きもせずぐるぐると巡る。そのつど、尾から泡があふれて、水中の色がさらに濃くなっていく。
その泡の行方を彼女は真剣に見つめている。
「すきなの?」
「……?」
「鮫」
中学生にしては、小振りすぎる少女である。制服を着ていなければ、小学生でも通るだろう。
武が中学の時、クラスの女子はもう少し大柄だった。むしろ男子より大きな女子の方が多かった。それに比べて、少女は少々華奢にすぎる。
「鮫……」
彼女は名残を惜しむように水槽から手を離して、武をみた。
顔立ちは地味だが、目が鋭い。目尻がくっと上がり、黒目はぞっとするほどに黒い。日本人形の目に似ている。
その目にまっすぐ見つめられて武は一瞬、息が詰まる。
その鋭い目は、水槽からこちらを睨みつける鮫と同じ光を持っている。
「……あれは、私の、ひいお爺ちゃん」
彼女は力強く、言った。
その声に呼応するように、一匹の鮫が壁面に近づいてきた。まるで少女を守るように、鮫はこちらを一瞥するなり背をくねらせて再び水槽の奥深くへと戻っていくのである。
「この鮫は、私のひいお爺ちゃんだから。鮫、なんて呼び捨てないで」
「……」
少女はさも当然のようにつぶやいて、それから音もなく駆けだしていく。
唖然と振り返った武の目に映ったものといえば、青い道を駆けていく少女の薄い背中だけだった。
雨の日は、水の香りがことのほか強くなる。
「お爺ちゃん。可愛い孫娘じゃないか」
水槽に額を押しつけて、武はわざとガラスを曇らせる。思った以上に水槽は冷たく、ひややかだ。
こんな冷たい水槽に何時間も彼女は掌を押しつけていた。寒くはないのだろうか。と武はまた考える。
「ひい孫かな? まあどっちでもいいけど、鮫のくせに人間の孫がいるなんて贅沢なやつ」
ガラスに額を押しつければ水の中がよくわかる。まるで水の中に入り込んでしまうような、そんな気がする。
目の前を回遊魚たちが銀色の光を放って泳いでいる。その向こうには、鮫の群が見える。果たして少女がひい爺ちゃんといった鮫はどの個体だったのか、武は思い出せない。
(……冗談だって、分かってるけどさ)
武は少女の声を思い返しながら、ガラスに向かって息を吐き続ける。
変わった子だった。冗談以外なにものでもない。魚が曾祖父なんて、そんなことあるはずがない。からかわれたのだ。
しかし、それにしては少女の目は真剣であった。
「なにいってんの武、早く学校いきなさいよ。遅刻するわよ」
武は水槽に張り付いたまま、器用にダウンを羽織る。さらにマフラーに帽子に手袋だ。ここまでしてもまだ寒い。
鼻を盛大に鳴らして、武は手の中にあるカイロを必死に揉み込んだ。
「いっつもうちに来てるあの子さ、学校いってんのかね。中学生みたいだけど」
「さあ。行ってないでしょう。平日の昼間から来てるんだから」
「昼から?」
「そうよ。昼から閉館まで。週に三回は来てる」
床を磨く手を止めず母親は困ったように眉を寄せた。
毎朝、開館までに館内すべての床を磨くのが彼女の仕事であり、趣味だ。
誰も客などこないかもしれない。それでも、このべたべたとしたビニールの床を磨くのが彼女の誇りのようだった。
学校に行く直前、通りすがりに武も時々手伝うことがある。モップを持ってひとさすり、その程度ではあるが。
「断ればいいのに、入り口で。てか、よく金続くね? うち、やすいとはいっても毎日なんて子供の小遣いじゃ無理だろ」
「パスを持ってるのよ」
「パス? そんなのあったっけ?」
「ああ。あんたは知らなかったっけ。もう70年も前。ここを私のお爺ちゃんが作ったときに特別につくった特性のパスで、有効期限は無期限なの」
武の曾祖父であり母の祖父は自由奔放な男だった。そうでなければ単身、水族館を作ろうなどとは考えないだろう。
その男は、自分の水族館が完成した記念に、無期限パスなるものを作り上げた。身内に配った程度だろうが、百枚ほどがこの世に出たと母はいう。
「随分、思いきったことをしたね、ひい爺ちゃんはさ」
「それはもう変わり者だった。無期限パスなんて、ねえ」
武は記憶の遠くに残る、曾祖父の顔を思い出していた。まだ武が幼稚園の時に、曾祖父は逝った。
最後まで賑やかで、派手で、そして物知りな男だったとうっすらと覚えている。魚の種類を教えてくれたのも曾祖父だ。その頃には館長を引退していたが、常にこの水族館のどこかには居座っていた。
「戦後のごたごたした時期だし、パスなんてみんな無くしただろうし、まあ持っていても持ってくる人もいないしで、すっかり忘れてたんだけど」
母親は水の滴るモップを丁寧に絞りながら、遠くを見るように目を細めた。
「昨年くらいかしら。あの子がもってきたの。ぼろぼろになったものを綺麗にカードケースの中に格納してあってねえ」
冷え込む冬の日だった。と母親はいう。
最初は土日の朝に少しばかり訪れる程度だったのが、平日の夕刻になり、平日の昼になり、そして居着く時間も少しずつ延びたという。
武が彼女を見かけるようになったのは、ここ数ヶ月のこと。そのころにはすでに、昼から閉館まで居続けるようになっていたと母親はいう。
「本物のパスなの?」
「どう見ても、お爺ちゃんの字なのよ。手作りだし、お爺ちゃんの遺品から出てきたパスの写しがあれと同じだし。まあ断れないでしょ」
そして少女は決まって、この水槽の前から動かない。あまりに動かないものだから母親が見かねて椅子を用意したこともあるという。それでも、彼女はお義理に一度座っただけで、あとは延々と水槽に額を押しつけ立っている。
「何か理由もあるんだろうけど、聞いて答えてくれる風でもないし、学校に通報するってのも、なんだか可愛そうでねえ……」
母親の切なげな声が、水槽に跳ね返る。その中を悠々と泳ぐ鮫は、やはり冷たい目線で人間を一瞥して水の奥へと帰って行く。
少女は、雨の日でもかまわず現れた。
「ずっとそこ見て、たのしい?」
「……たのしい」
最初こそ武が近づくと逃げ出した少女だったが、毎日少しずつ距離を縮めるうちに逃げることはしなくなった。
野良猫が、執拗な愛猫家を諦めて受け入れる様子によく似ている。武に笑みを見せることはしないが、話しかければ単語で答えるくらいはしてくれる。
相変わらずの青い部屋で、彼女は寒がりもせずガラスにすがりついていた。
「俺もいいかな?」
隣に立ち、武も水槽に額を押しつける。母に見つかれば文句のひとつも言われるだろうが、どうせ客は相変わらず彼女一人だ。
「やあ、お爺ちゃん」
「……違う。ひいお爺ちゃん」
少女は頑なな声で武の言葉を封じると、指をガラスに押しつける。
「それに、その子じゃない。あっちの、あの、口元が赤いの」
彼女の指した奥に、少し体の大きな鮫がいた。たしかに口元が少しばかり、赤い。
しかしその鮫は、堂々たる動きで水を切ると他の個体の上を悠々とすぎていく。
「赤いのは血。たぶん、怪我してる。治ってきてるけど」
少女は声に不安をにじませて、武を見上げた。やはりその目は、ぞっとするほどに青く見える。
(……確かに、鮫によく似てる)
飲み込んだ言葉を読みとったように、彼女は薄くほほえんだ。
「外観というものは、一番ひどい偽りだ。世間はいつも虚飾に欺かれる」
「は?」
「シェークスピア」
とん。と彼女はガラスに手をおく。小さなその手が見えたのか、一匹の鮫がこちらをみる。
「あれが君にどうみえてるのか知らないけど、彼は私のひいお爺ちゃんだ」
……きっと、彼女がいうのならばそうだろう。武は不意に少女の言葉が腑に落ちた。
見張るまでもなく、少女は毎日毎日飽きもせず、あらわれた。
武の学校がテスト期間に入った午後、冷たい雪が降り始めた時も彼女はいた。
午前のテストを終えて帰宅した武に、母親が肩をすくめて見せる。それだけで、彼女がいることが分かる。
「やあ」
青の部屋は、いつも以上に冷え込んでいた。だいたい、水族館は冬と相性が悪いものだ。水のせいか、空気のせいか、青の水槽はいつもよりも寒い。だから、客だって少ない。
武はわざとおどけるように、足を踏みならして進む。
(……ひい爺ちゃんも、似た動きしてたな)
と、不意に武は思い出した。家族の誰かが落ち込んでいるとき、喧嘩をして険悪なとき、曾祖父はまるで踊るように、おどけるようにその場を和ましたのだ。
そして、落ち込む人間を放っておけないのが曾祖父であった。その血は、微量ながら武にも流れている。
お節介という、血だ。
「もう、飯くった?」
少女は日々、細くなっていく。スカートから見える足は、可愛そうなほどに細いし、ガラスに押しつけられた手のひらは薄い。
彼女のそばに近づいて武は鞄の奥から小さな菓子パンを取り出す。潰れていないか確認し、差し出すと彼女ははじめて驚くように目を丸めた。
「はい、パン。半ドンなの忘れて、二つ買っちゃったからさ」
「……ありがとう」
彼女の見せたはじめての人らしい顔つきに、武は思わず笑みをかみ殺した。
驚かせないようにそっと手渡すと、彼女は俯いてそれを食べ始めた。小さな唇が見た目以上に忙しく動くのを見て、彼女は満足に食事もできていないのではと武は思う。
「いいよ、気にしないで。どうせ余り物だし」
実際のところ、なぜこの少女のことが気にかかるのか武自身にも分かっていないのである。
ただ妙に気にかかる。目が離せない。
「……あ」
武は声を漏らした。
必死にパンに食らいつく少女の顎がかすかに赤い。まるで擦れたような、傷があるのである。
それは少女の白い肌に、可愛そうなほどによく映える。
「怪我してる」
「……あ。うん。平気」
「まって。俺、絆創膏持ってる」
鞄の奥底から、へろへろとしなった絆創膏を取り出し差し出す。受け取る彼女の指先を見て、武は小さく震えた。その手首にも、首筋にも、かすかな赤い跡がある。それは、消せない暴力の跡だった。
言葉に詰まった武を見て、彼女は何かを察したように笑う。
「逆境が人に与えるものは美しい。ガマガエルに似ていて醜く毒を含んでいるが、頭の中に宝石をはらんでいる」
「またシェークスピア? 好きなの?」
「ひいお爺ちゃんが残してくれたのは、水族館のパスとシェークスピア全集」
彼女は絆創膏を大事に握り込んだまま、水槽をのぞき込む。その目が薄く、薄くなる。
こちらを見る目は漆黒の癖に、目の奥は不思議に青いのだ。水の色がそのまま写りこんだ、青なのだ。
目前を泳ぐ魚を見上げて、武は言う。
「あそこにいるんだろ、ひい爺ちゃん」
「……君は、信じてないくせに」
つ、と少女が水槽を撫でた。その声はいかにも絶望しているくせに、武に何か気づいてほしがるような、そんな含みがある。
「ひいお爺ちゃんというには、理由がある」
「……なに」
「簡潔は、英知の真髄」
「……?」
首を傾げる武に、少女はまっすぐ向かい合った。
「ひいお爺ちゃんは、遠い昔に戦争で海に沈んで足と腕を鮫に食べられても生き残った。でも体には鮫の遺伝子が入ってしまったから、きっと俺は死なない。人間として生きたあと、俺は鮫になるんだといって、私がまだ小さな時に」
歌うように彼女はいう。
「……本当に、海に消えた」
「……海に……」
武は想像する。腕と足を無くした老人が、静かに青い海に消えていく様子だ。
それは、絶望ではなく希望に思える。
「私が鮫を見たことがないといったら、ひい爺ちゃんはいった」
少女は堅く掌を握りこむ。
「……きっと、必ず、おまえが人生で最初に出会う鮫が、俺だ」
そして大きく手を挙げると、その掌をガラスに押しつけるのだ。
「……あの子が、私の人生ではじめて出会った鮫」
その手が水槽に張り付くなり、一匹の鮫が音もなくこちらに向かってくる。その鮫の口は、かすかに赤い。
孤独なまでに鋭い目つきのその一匹は、一瞬だけガラスに鼻先を押しつけた。そして、少女の掌の上をするりと通り過ぎていく。けして甘えたわけではない。何かを感じ取った通じ合ったもの同士が見せる一瞬の触れあいだ。
彼女は額をガラスに押しつけて、鮫の尾を見送った。
「悲しみを分かち合ってくれる友人さえいれば、悲しみは和らげることができる」
「すげえ。俺もやってみたい」
少女をまねて武も腕を大きく振り上げ、掌を水槽に張り付ける。冷たさが全身に広がったが、やがて慣れた。
しかし、鮫どころかイワシの一匹も、近づいてくるわけではない。
「おおい。誰が餌やってると思ってんだおまえ等」
思わずこぼした武の言葉に少女がふと笑う。その背後に通りすがる鮫は、彼女を心配するように目を細めるのだ。
「……パス見せてよ。いや、別に疑ってるとかじゃなくって。俺、パス見たことないからさ」
武はふと、そんなことをいった。疑っているわけではない。しかし、彼女がここを訪れるために毎日持ち歩く、そんなパスが気になった。
いやがるかと思いきや、彼女はあっさりと薄いカードを差し出す。
「古いなあ。これ」
市販の透明のカード入れに、ぼろぼろの古紙を差し込んだだけ。すっかり茶色に変色し、文字なども掠れている。
それは黒と朱の墨汁で書かれた、いかにも手作り感のあるものだ。名刺サイズの紙に、細々と水族館の名前、無期限。などとかかれている。あとはいかにも稚拙な魚の絵と。
曾祖父の文字だ、と思えば不思議と感慨深くなる。
ひっくり返してみれば、和邇賢治と書かれていた。
「和邇?」
「ひいお爺ちゃんの名前。私は、青子」
「確か、和邇って」
「そう。鮫」
古い古い物語で、和邇という名を見たことがあった。
それは、今の言葉で鮫であるという。それを教えたのは曾祖父だ。
「……なるほど」
と武はつぶやいた。何が、なるほど。なのか自身でも分からない。
ただ、目の前にいる少女の名前が、和邇であり、青であるのはいかにもお似合いだとそう思った。
「……古いのに、大事にしてるな」
「宝物」
パスケースを返すと、彼女は赤い跡の残る手でそれをそっと抱きしめる。
「ひいお爺ちゃんの、家にあった……宝物」
水のわき上がる音と機械のうなる音が静かな館内に響きわたった。
やはりこの部屋は少し寂しい。と、武は水槽を見上げた。
いつか、これと同じ風景を見た思い出があるのだ。それは、妙に寒く寂しい思い出だった。
試験が終われば、また怠惰な日常がやってくる。
その日常を破ったのは、母親の少々緊迫した声だった。
「中学校から連絡が来てねえ」
パイプ椅子の上で伸びる武に、母親は言いにくそうに呟く。
今日も客は一人きり。まもなく閉館のアナウンスが流れ始める、そんな時刻。
「……中学って、あの子の?」
のびを止めて武が顔を上げれば、母親は複雑な顔のまま雑巾を幾度も畳んでは広げる。落ちた水滴が、武の膝に触れた。
「……そう。やっぱり登校拒否だって」
「親は?」
「おきまりの育児放棄」
母親の声に、武が思い出していたのは彼女の体に残った赤い跡だ。それと、パスケースを抱きかかえて前のめりになったあの細い肩。
「ずっと保健室登校だったのに、この冬から学校にも来ないからって調べられて」
「ここがばれた?」
「そりゃ、あんな制服で毎日来られたら……最初はただの登校拒否かと調べてたら家族のこととか、いろいろ分かったみたいで」
人が他人の不運に気がつくのは、いつでも少し遅いのだ。
水槽の中を上へ上へと上がっていく泡を見つめて、母子は同時に無言となる。
口火を切ったのは、母親の方である。
「……いろいろあったみたいだけど、結局、あの子、遠方の親戚に引き取られるとかで……施設じゃないだけ、ましなんだろうけど」
「いつ?」
「さあ。あと数日? もしかすると明日とか、明後日とか……」
母親の声は、いかにも複雑だった。武の声もまた、同じだ。
「もし今日も来てたら学校へ行くように促してくれって言われたけど、そんな話聞いたら……ねえ。あと少ししか見られないなら、ここに居た方がいいじゃない?」
母親の視線が、館内の奥を見ている。武も釣られてそちらをみた。壁の向こうに、青の部屋があるのである。
まだ、彼女はそこにいる。
「父親とか……じいさん、ばあさんは?……もしかして、ひい祖父さんとかいる?」
「さあ。そこまでは……でも、学校に、怒られちゃった。早く通報してくださいって」
母親は肩をすくめ、雑巾で水槽を優しく撫でた。古く濁ったガラスは、それくらいでは汚れなど落ちない。それでも磨くのは、やはりこの古い水族館が好きなのだろう。
「でもねえ。どうしても、通報なんて物騒なことはできなくって」
「……なんで」
「あの子を見てると、あんたのことを思い出すのよ。ずっと昔の、幼稚園のころの」
彼女の声は、経営者の声ではないし高校生の武を見る母の声でもない。小さな武を思い出すかつての母の声である。
「……え、なに」
「幼稚園で嫌な事があって、もう行きたくないって、あの水槽の前でずっと泣いてたじゃない」
「……覚えてないんだけど」
武は手の中のカイロを、ぽろりと落とす。朝から揉み込みすぎて、すっかり堅くなったそれは、意外なほど乾いた音を立てて落ちる。
「それをお爺ちゃん……あんたにとってはひい爺ちゃんね。何やかんやで窘めて……まあ一週間くらいのことだったけど」
青い部屋の薄暗さと、水のたてる泡の音。静かなモーター音に、涙で霞む目の向こうに見える魚の群れ。
武の記憶のどこかにこびりつく、そんな古い思い出がある。
夢のような薄ぼやけたその記憶の最後に出てくるのは、皺を帯びた指先だ。その手は乱雑に武の頭を撫でた。そして、今より少しばかり綺麗な水槽を指さして、魚の名を呼び上げていく。
「小さな頃だから覚えてないだろうけど、ひいじじ、ひいじじって爺ちゃんのこと、大好きでねえ……爺ちゃんが冬に亡くなったでしょ。それからよ、あんたが極端に寒がりになったのは」
青の水槽エリアが寂しいと思い始めたのは、曾祖父の葬式の日から。
(だから)
武は震える手で、冷えたカイロをつまみ上げる。
(足りないパーツは、ひい爺ちゃんだ)
「ああ。もうひとつ、あの子が見てる水槽だけど、あそこの鮫ね。怪我してるみたいで、今朝、お医者さんに引き取って貰ったから」
母親は思い出したように、手を打つ。その言葉に武は思わず言葉に詰まった。
「死ぬの?」
「馬鹿ねえ。一ヶ月で戻って来ます」
母親は笑い、武の頭を乱暴に撫でる。その手の動きは曾祖父のものに少しだけ似ている。
曾祖父と同じ目で、彼女は武を覗き込むのだ。
「何で、そんなに泣きそうな顔をしてるの?」
そして、母は、曾祖父と同じ声で言った。
武が駆け出した先は青の部屋。いつも通り青く香る部屋の中に、同じ色の名前を持つ彼女は所在なげに立っている。
青子は武を見るなり、はじめて顔を真っ直ぐにあげた。
何かを問いかけるように、口が弱々しく開く。言いかけた言葉は彼女の喉の奥で消える。
「……」
「なんで、そんな泣きそうな顔してんだよ」
「……してない」
「鮫……じゃなかった、ひい爺ちゃんだろ」
青子は今にも泣き出しそうな顔で水槽に手を置いたまま。
隣に立って水槽を見上げれば、中はあまりかわらない。ただ、一匹いないだけだ。それなのに、水槽が妙に空いて見える。
「……青子がいってたとおり、怪我してたから医者がみてるとこ。心配しなくていいよ」
何といって呼びかけるか、武はしばらく迷う。どんな敬称を付けるのも彼女には似合わない。
口を突いて出たのは馴れ馴れしい言葉だったが、青子はそんな些細なことなど気付きもしないのか武の腕を強く引いた。
「ひいお爺ちゃん、大丈夫……?」
「あいつ、一匹だけアウトローだったろ。仲間につつかれたみたいでさ、でも大丈夫」
「肥えた土ほど、雑草がはびこる」
「1ヶ月で戻って来るよ」
「期待はあらゆる苦悩の元」
青子はそれが癖のように、難解な言葉を口にする。武にその意味は分からなくても、伝わるものはあった。
「……青子、どっかいくの? あの……親戚の……」
「これが最悪だと言えるうちは、まだ最悪ではない」
青子は自分に言い聞かせるように呟いて、額を水槽に押しつけた。
「 今晩一晩は我慢しなさい。そうすれば」
今は彼女の曾祖父の居ない、その水槽に。すがるように青子は体を押しつける。
「この次はこらえるのが楽になる。そして、その次はもっと楽になる」
(……ああ俺がいる)
武はふと思い出した。遙か昔、まだ小さなからだで見上げるこの水槽は巨大だった。こんな風に、水槽を抱きしめた。
救ってくれたのは、曾祖父だ。
そして、かつての武に似たこの少女を救えるのは、武だ。
「なあ。どこにいきたい?」
武は思わず青子の肩を掴んでいた。
彼女は一瞬驚くように目を見開くが、やがて聞こえるか聞こえないか程度の声を上げる。
「……海」
「いっておくけど、あの海に鮫なんていないよ」
「知ってる……けど」
館内には閉店を告げる、錆びきったアナウンス。
「見たことがない……海、本物を、見たことがないから」
アナウンスも段々と力なく、消えて行く。部屋は青く寒い。
武は無言のまま、青子の手を取って外へと飛び出した。
「はい。寒いでしょ」
ダウンを脱ぐと、冬の風が武の体を舐めあげる。震えを隠し、青子の細い身体に無理矢理ダウンを押しつけた。
母親には叱られるが、入口のすぐそばに自転車を置いていてよかった。と武は思った。少なくとも、歩きでは海には行けない。
外はもうすっかり薄暗く、水族館から漏れる光ばかりが眩しい。雪か雨でも降るのか、真っ黒な空に赤い雲が空を覆っている。
人の気配はなく、ただ風だけがごうごううるさい。
(絶対、見つかったら怒られるだろうけど)
武は青子の手を掴み、自転車の後ろに座らせる。見つかれば言い訳はできない。変な噂も立つかも知れない。しかし今、武にできることは。
(……多分、これだけだ)
「貸し借りをしてはいけない」
「はい、もういいから着てて。冷えるでしょ」
ダウンを脱ごうとする青子の手を止めて、武は自転車にまたがった。寒さに弱い彼にとって吹き付ける冷風は身に染みる。
しかし、この寒さを耐えてきた青子を思うと腹の奥に力が入る。
「……見てる俺が寒いんだから、着てて」
自転車が進み始めると、青子は口を閉ざす。背に、小さな手のひらを感じた。水槽を覗き込むとき、押しつけられた手のひらだ。
まるで水槽になった気持ちで、武は自転車を走らせる。真っ暗な国道、車だけが風をきって走る、走る。眩しいヘッドライトが二人を照らして去って行く。坂道がある。石に引っかかり車体が揺れる。武の口から漏れた白い息が目の前を染める。
「海……近いの?」
「真っ直ぐ!」
武は叫んだ。この町は狭いのだ。真っ直ぐ駆け抜ければ、海の見える丘がある。
自転車だと全力疾走で30分。そんなに近いのに、曾祖父の消えた場所だというのに、それなのに一度も海を見たことがないという青子の生活をおもえば、切なくなる。
横を通り過ぎる車は、自転車で駆ける二人など興味もないのだろう。何台もの車にどんどん追い抜かれた。雨粒なのか、霙なのか。冷たい滴が頬を叩いたががむしゃらに進めば足が攣る、背中も震え、頬の感覚が抜けていく。
それでも必死に駆け抜ければ、やがて、目の前が、開けた。
「……海!」
冬の海である。高台の丘に急停止し、まるで転がるように大地に飛び降りる。青子は器用に飛び跳ねるなり、唖然と目の前の風景を見る。
高台に作られた小さな丘は、ほんの気持ち程度の公園として整備されていた。
昼間なら海が見渡せるこの公園も、日が落ちれば薄暗い。その代わり、目の前に広がる海の黒さがよく見える。
真っ黒な海の、うねるような白い筋やその上をいく船の灯り。そして海と空の隙間が目の前に広がっていた。
痛いほど冷たい風が鼻を刺激する。乱れる息の奥に、つんとした痛みが走り涙が浮かぶ。せき込むと、肺いっぱいに冷たく潮臭い空気が広がった。
「海!」
青子はもう一度叫び、端に作られた手すりにすがりつく。落ちそうな勢いだ。慌てて支えるが、彼女は落ちるような真似はしない。ただ、いつか鮫を見ていたその目で真っ直ぐに、夜の海を見るのだ。
暗い海だが、目が慣れれば明るく見えてくる。
空に掛かる赤い雲が光を反射しているせいだ。海の黒に青が混じる。激しく揺れる波間が、音をたてる。
その波の間を、青子が指さした。
「……ひい……お爺ちゃん」
それは奇跡だったのかもしれない。
「鮫……?」
青子の指さした場所の波間が揺れて、一匹の魚が飛び出したのだ。それはゆるやかに飛び上がり、鋭い目線をこちらにくれて、そして沈んだ。
確かにその背には、三角の背びれが大きく輝いていた。
(まさか……)
この界隈に鮫は居ない。まして、こんな浅瀬には。それに例の鮫は治療中で、海になどいるはずがないのだ。
しかし。
「不幸を直す薬は、希望の他にない」
声に幸福を滲ませて、青子が呟く。祈るようなその声を聞いて、武は確かにあの魚影は鮫で、そして青子の曾祖父なのだろうと確信する。
「ちゃんと自分の言葉でいって」
「……ありがとう。ここを離れる前に、海が見られてよかった」
青子ははじめて武に向かい、満面の笑みを見せた。これまで見た表情の中で最も安らかで、そして年相応の笑みだった。
武は彼女の肩を軽く叩き、笑う。
「1ヶ月もすればひい爺ちゃん戻ってくるし、青子の持ってるパスは、水族館がつぶれるまで有効だ」
冷たい海風も、雨の降りそうな湿っぽさも何も気にならない。ただ、海の音だけが心地よかった。
「俺も将来、水族館継ぐしさ。また、来いよ。遊びに。ひい爺ちゃんが居るなら、実家みたいなもんだろ」
「……うん」
母親が聞けば卒倒するようなことを、武はさらりという。武の将来はまだ未知数だ。しかし、水族館の青い色から離れる生活は想像できなかった。
「また、ひい爺ちゃんに会いにこいよ」
体を押しつぶすような寒い冬は、それほど長くは続かない。
冷たい潮風に混じる、かすかな春の香りを感じ取り武は大きくのびをする。
寒さに少しだけ、強くなっていた。