007
悪い日とは主観である。
いや、日だけに限らず、良い悪いといった二択、感情の問題は、全て主観によって決定付けされている。
例えば僕が、財布を落とし、自転車が故障し、昼食を取れず、帰宅の時間帯に雨が降り、道路工事で遠回りをしなくてはならなくなり……という一日を過ごせば、僕自身は間違いなく悪い日だったと言うだろうし、このことを話せば、他の人もそれは悪い日だったねと感じてくれるだろう。
もしかしたら財布を落とすだけでも十分かもしれない。
けれども人によっては、「こういうこともあるよね」くらいに、長い人生の間にはあって当然のものだと感じる人もいるだろうし、今日で死ぬことを決定付けられ、更に自分がそのことを知ってしまい、目を逸らせなくなってしまった人生の終わりに落ち込む人もまたいるだろう。
そういう人は、財布に重要物を集中させ過ぎているのだろうが。
……余談ではあるが、僕は財布にはお金に関わるものしか入れていない。
紙幣に硬貨、割引券やポイントカード、後はまれに通帳を入れるくらいである。
……ふむ。
自分の例を挙げてみると、人生の終わりのごとく落ち込む人などは、一体上記の他に何を入れていたんだと考えてしまう。
よほど金額の値が大きかったのだろうか。
閑話休題、主観の話だ。
やはり良い悪いは主観である。
つい先ほど例に挙げた「悪い日」のことだが、どこを見て、どこをどう解釈しても、悪いのは「僕にとっての一日」だ。
他の人がいくら悪い日だったねと言ってくれても、それは「僕の一日」が悪いと感じているだけであって、その日――X日としよう、「X日は悪い日だった」ということではない。
もしかすると同じ日に宝くじに当選した人がいるかもしれない。
資格や就職試験の合格通知が来た人がいるかもしれない。
そもそも「僕の一日」すら、より「悪い日」というのを経験した人からすれば、「悪い日」とは言えなくなってしまうのだ。
人は大抵、自分の経験は過分に評価し、他者の経験は軽視してしまう。
他人の経験など自分に比べたら、と思ってしまう。
全く同じ条件下での経験など存在しないのに比べてしまうのだ。
だから。
だから結局、良い悪いは主観でしかないのだろう。
……主観主観と同じ言葉を何度も繰り返していたら、段々「主観」の意味がわからなくなってきた。
まるで哲学の問いかけだが、では主観とは?
主観があるから客観があるのだろうか、それとも客観があるゆえに主観があるのだろうか?
自我を持った者が二つ以上存在してしまったからだろうか。
そもそも「自我」は、自分のそれ以外に確信することができない。
その確信ですら、自分がそう感じているから存在するという、デカルトに近いものである。
その程度の確信では、自分以外が全て機械仕掛けである恐れを否定することができない。
常識的に考えてありえない話ではあるが、ありえない話ではないのだ。
それを否定するには、まだ人間はあまりにも幼過ぎる。
幼い僕はひたすらに言うしかない。
あの日以降は「悪い日」しか存在していないと。
今までの「良い日」とは釣り合いが取れないほどに悪い日だと。
悪い日の内でもマシな日――良い日があったとしても、声高に言うしかない。
僕の境遇に憧れるな。
非日常を求めるな。
非現実よりも現実の方が、よほどいい。