幼いころの記憶
『ここはどこ……? 夢……? 違う……これは、私の記憶だわ……』
遠い昔……私がまだ両親と一緒に暮らしていた頃。
セピア色に包まれた部屋の中。
覚えている。 懐かしい。 生まれ育った家だ。 暖炉の火が穏やかに揺れて、幼子の私は母の腕の中で眠りにつこうとしている。 うとうとと瞼を閉じそうになる私を優しく見つめながら、母は何かを口ずさんでいた。
「あの日もいだ木の実が、赤く染まりて泣いたとな……木の葉に埋もれて泣いたとな……」
『小さい頃、お母さんがよく歌ってくれた子守唄だわ』
私は部屋の天井付近に浮いたまま、ぼんやりとその母子の光景を見つめていた。 母は静かな口調で続けた。
「木の実が落ちた音を聞き、この世が震えて泣いたとな……」
『はっ!』
私の意識がはっきりと目を覚ました。
「思い出した!」
そう言いながら、私は現実に戻ってきた。
木の葉が埋め尽くした地面から、赤い木の実へと視線を移し、ティスへと向き直った。
「ティス。 私は、あの木の実を討ち落とさない……」
「えっ……」
ティスの頬が、ぴくりと引きつるのが見えた。
「私は、あの木の実を射ち落としてはいけないのよ。 思い出したの……小さい頃にお母さんが教えてくれた子守唄の中で歌われていたのは、この木の実のことだったのね……」
私は木の実を見上げると、思い出の中で奏でられていた旋律を口ずさんだ。
「あの日もいだ木の実が泣いたとな――」
さっきまでのひどい頭痛は無くなっていた。 大木は時折吹く風に木の葉を揺らしながら、私の子守歌を聞いているようだった。
「だから、私はあの実を落とすことは出来ないわ……」
そしてティスへと向き直ると、説得するように語り掛けた。
「分かってくれるわよね? その傷を治す力が、あの実にあるかどうかは分からないけれど、私にはあの実を採ることは出来ないの。 きっと他に何か手はあるはずよ。 有能なお医者さんにかかるとか、よく効く薬があるかもしれない。 勿論私も協力するわ、だから――」
「シエロ」
私の言葉をさえぎるように、ジーナスが口を開いた。 彼はまっすぐ私を見つめていた。
「ティスの願いを、叶えてやってくれよ」
「ジーナス……?」
私は、言葉を失っていた。 ジーナスまで……何故分かってくれないの? 私には分かる。 あの実は採ってはいけない物だと。 無表情なジーナスの横で、ティスはどこか余裕のある微笑みを浮かべていた。
「俺からも、頼む」
ジーナスはもう一度言った。 私は苦しくて何も言えなかった。 ジーナスもティスの味方なんだね……。 結局私は、誰からも信用されていない。 何を言っても、絵空事になるのね。
私は再び赤い木の実を見上げた。 そしてゆっくりと地面に転がる剣を拾い上げた。 ティスは余裕に満ちた表情で、私を見守っていた。 彼女は、私が再び木の実を射ち落とすと思っている。
「恨みたければ恨めばいいわ……」
私は呟いた。 心は決まっていた。
「私はあなたに『何でもする』と言ったけど、これだけは出来ないわ」
言いながら、ティスの表情が苛立ちに満ちていくのに気付いた。
「あの実はここに無くてはならないもの。 私の弓でしか討ち落とせないのは、私が木の実を守る役目を遣わせられたから」
私の口からは、思いもよらない言葉が次々に流れだしていた。 言いながら、自分でも驚いていたのだ。
「私は赤い実の門番。 善悪を見極め、守るのが私の使命……」
言い終わって、私は自分の口を押さえた。
『いったい私は何を言っていたのかしら? 自分でも知らないことばかり』
その時、ティスがつかつかと近づいてきた。
「あなた、自分が何を言ったか分かっているの?」
そう言いながら、ティスの両手が私の首に掛かった。
「っ? ティ……ス?」
白く細い指に力がこめられ、私の首に食い込みはじめた。 私はティスの腕を掴んで離そうとしたが、予想以上にその力は強く、びくともしない。
「ジ……ナ……」
ティスの肩ごしにジーナスへと助けを求めたが、彼は突っ立っているだけだ。 ティスが笑った。
「残念ね、彼はもうあなたを助けてはくれないわよ」
「な……」
ティスに押されるままに後退りをした私は、大木の幹に押さえ付けられた。 不気味な笑みだった。 今まで見たことの無いような、狂気に満ちた笑顔。 私はティスの異変に、今頃になって気が付いた。
『ティスじゃない……誰なの?』
彼女は冷たい視線を私に落とした。
「私の字名を教えてあげましょうか」




