ヴェナトーネから馬車に乗って
「九百九十七、九百九十八、九百九十九……せーんっ!」
カウントをし終わると、腕の力は一気に抜けて、重力に逆らうことなくドサッとうつぶせになった。 そのままでは苦しいので、肩を起こして仰向けになり、何度も大きく深呼吸した。 栗色のストレートの髪の毛が頬にまとわりついていたが、千回の腕立て伏せをしたあとのしびれた腕を動かす気には到底なれなかった。 ただ目の前に広がる透き通るような青空に流れる雲をぼんやりと見つめながら、体力の回復を待っていた。 その時、視界を遮って誰かが覗き込んだ。
「…………!」
相手は私に向かって何か怒っているようだったが、まだ頭までしびれた感覚に酔いしれていたかった私は、何も答えなかった。
「おい! 聞いてんのか?」
多分、何度か私に向かって何か言葉を落としていたんだろう。 やっと頭の中がはっきりしてきた時、違う影が私の視界に入った。
「うわっ!」
慌てて飛び起きた私がさっき寝ていたところに、でかい靴が容赦なくめり込んでいた。
「何するのよっ! 可愛い顔が台無しになるところだったじゃない!」
でか靴は怒る私に迫ると、今度は平手で頭を叩いてきた。
「いたっ!」
でか靴は、力加減をコントロールする回路が壊れている。 きっと私を、おもちゃか壊れても良い物か何かだと思っているんだ。 でか靴は長身から伸びる腕をのばして、私の首根っこを掴んだ。
「な、なにっ!」
私は猫かっ? 軽がると相手の目線まで立ち上がらされると、細く視線を突き刺してきた。
「オヤジがお呼びだっつってんだよ! 置いていくぞ!」
急に手を離されて、私は猫のように静かに着地した。 と同時に、頭の中が一瞬で真っ白になり、背筋に悪寒が走った。
「おっ! オヤジがっ? 何でもっと早く言わないのよっ!」
言いかけたときには、既にでか靴ははるか向こうの方にいた。
「何度も言ったぞ! お前が人の話を聞かないからだろうがっ!」
遠くの方から、でか靴の声が届いた。 私は背筋をしならせて飛び起きると、でか靴の後を追った。
ことごとく性格の悪いあいつはセルシー・ジーナス。 誰よりも足が速いので【伸速】という字名を持っている。
【字名】とは、周りより人一倍優れた特技を持つ者だけが与えられる称号のようなもの――二つ名のことだ。 その名の通り、ジーナスは足が速く、まるで地面を滑るかのように素早く走ることが出来る。 私はみるみる遠ざかっていく彼の背中に焦りながら、急いで駆けていった。
集会所には、すでにほとんどの仲間たちが集まっていた。 皆それぞれに自由な格好をしていて、ある者は手に書物を持ち、ある者は菓子を口に頬張り、ある者は柱を使ってスクワットをしている。 その中を縫いながら前へと進んで行くと、不意に襟元を後ろから引っ張られた。
「んにゃっ!」
振り返ると、ジーナスが私を見下ろしていた。
「こら離せ、でか靴っ!」
両手と身体をくねらせてもがくと、ジーナスは簡単に手を離し、弾けるように笑った。
「お前はホントに面白い奴だな!」
「何よっ! 勝手に人をからかって、楽しまないでくれる?」
眉をしかめて嫌悪感を丸出しにして訴えたが、ジーナスは意に介さない様子で豪快に笑った。 陽に焼けた小麦色の肌に、白い歯が無性に映え輝く。 そして黒い短髪を太く鍛えられた腕から伸びる大きな手のひらでかきむしりながら、空いているもう片方の指先が、ある方向を指差した。
「皆集まったか?」
ジーナスが指したほうには小さな答弁台があり、そこにもたれかかる形で細く中背の、白髪の男がパイプをくわえて立っていた。 紺のベルベットで出来たローブがよく似合うあの人は、ここの所長、タヴィニー・デュクス。 今はほぼ引退している状態だが、今でもかなりの実力者という噂だ。 皆は親しみを込めて【オヤジ】と呼ぶ。
そのときオヤジが、パイプの煙に激しくむせた。
「ブッ! ゴホゴホゴホゴホッ!」
いつもの事だ。 吸えないならやめときゃいいのに、格好は凄く気にするんだ。 周りの皆も、そう顔に出して呆れている。 オヤジはしばらく息を整えた後、背筋をのばした。
「はあはあ……さて、皆を集めたのは他でもない。 町の郊外に、獣が出たと知らせがあった。 今回は少しヤマがでかい。 そこで、特別に俺から指名をする!」
オヤジの燐とした声が響いた。 声ひとつにしても覇気がこもっているから、一瞬で部屋の空気が緊迫した。 オヤジは部屋の中を見回しながら、一人ずつ名前を挙げた。
「チュウヨウ、ヨハネ、ジーナス、そしてシエロのパーティーに行ってもらう!」
最後の名前が呼ばれたとき、後ろから伸びた大きな手のひらが私の頭を押さえつけた。
「んっ!」
相手は分かっていた。 首が短くなるじゃないかと睨みながら見上げると、ジーナスがにやりと笑っていた。
「よろしくな、シエロ!」
私はジーナスの重い手を払い退けると、
「くれぐれも、足手まといにならないようにね!」
と毒づいてやった。
私が働いているここは、【獣】と呼ばれる巨大な生物を退治して報酬を貰う会社【ヴェナトーネ】。
五百年ほど前に大きな戦争があって、私たちの世界は死んでしまった。 その時に使われた化学薬品の影響で、それまで無害だった生き物たちが巨大化したうえに凶暴化してしまったらしい。 生き残った私たちは、先祖の代からずっと獣たちと戦って生きている。 今じゃ、こんな会社まで作って生業にするようになっている。 人々は、そうやって役割分担をしながら生き長らえる方法を編み出した。
「シエロ! 早くっ!」
甲高い声が私の耳を貫いた。 思わず顔をしかめて声のした方を向くと、長い黒髪の小柄な少女、ヨハネがはるか向こうから私に向かって手を振っていた。 私は慌てて準備していた細い剣を腰に差すと、皆が待つ馬車に向かって急いだ。
「ごめん! いいわ!」
私が飛び乗った途端に馬車が走り始めたので、勢い余って後ろに転げるところだった。 私の身体を支えてくれたのは、ジーナスだった。 苦笑いしながら
「ごめん、ありがと!」
と礼を言うと
「お前、重くなったんじゃねーか?」
と細い目をした。 私は思わずこぶしを握ると
「なんですってっ?」
とジーナスに殴りかかった。 それは簡単に受けとめられ、悔しがる間もなく背後からヨハネの声が突き刺さった。
「ちょっと! 狭いんだから暴れないで!」
くりくりっとした瞳を歪ませて怒るヨハネは、見た目は子供のようだが、実は私より三歳年上である。 そしてその小さな体に似合わず胸が大きい。 私より五サイズくらい上なんじゃないか? 身長よりも、そっちにばかり栄養が行ってしまったんだな、きっと、と私は思う。
ヨハネは、お気に入りだと言うよく似合う花柄のもこっとしたワンピースの裾を直しながら座りなおすと、ふんっとそっぽを向いた。 出発早々、機嫌を悪くしてしまった。 今から協力して獣を倒さなくてはならないのに。
「ご、ごめん……」
ヨハネに小さく謝りながらジーナスを見ると、自分は関係ないというとぼけた顔ですましていた。 ホント、要領良いんだから!
馬車を動かしているのはループ。 いつも菓子が入った袋を持っていて、口を動かしていないのを見たことがないほど、しょっちゅう何かを口にしている。 そのすぐ後ろにチュウヨウ、その向かいにヨハネ、そしてその後ろに私とジーナスが並んで座っている。
私たちのパーティーは、組まれてもう一年以上になる。 実際に外へ出て、獣を始末したのは数十回にものぼる。 ずいぶん仲間たちとの連携も滑らかになってきて、今ではヴェナトーネの中でも一、二を争うパーティーと言われるようになった。
私としても、それは誇らしいことだと思っていた。