8章 美樹の恋(その1)
松下陽斗の部屋は、陽斗の父親が経営するジャズ喫茶・
GROOVEの3階にあった。
GROOVEは、世田谷区代田6丁目の通りの、
下北沢駅の北口から歩いて、3分くらいの場所にあった。
清楚で、おしゃれな、茶褐色のレンガ造りの、
表口で、全国的に知られている、老舗のジャズ喫茶だった。
清原美樹は、都立の芸術・高等学校の3年間、
美樹と同じ音楽科の、鍵盤楽器で学ぶ、
松下陽斗と、よく待ち合わせをして、一緒に下校した。
駒場東大前駅から、電車に乗り、下北沢駅で下車する。
その帰り道、美樹は、陽斗の部屋に寄って、よく時間を過ごした。
それほど、ふたりは、おしゃべりするたび、信頼も深まってゆくような、
まるで恋人同士か、無二の親友のような仲であった。
それなのに、高校の卒業間際のころ、
陽斗は、美樹に、美樹の姉の美咲に、
好意を持っていることを、打ち明けた。
その陽斗の告白は、美樹にとって、陽斗がどのような存在であったのか、
あらためて考えさせられる、ショックな出来事だった。
およそ1年間くらい、失恋に似たような、大切にしていた何かを、
どこかに置き忘れてしまったような・・・、
魂が、どこかへ行ってしまったような、喪失感が、
美樹にはつづいた。
それが、やっと、妹思いの、姉の美咲の努力や協力もあって、
陽斗の気持ちも、美咲のことから、自然と離れて、
美樹と陽斗の親密な信頼関係も、高校のころと同じ状態に、
もどったのであった。
2012年の10月13日の、美樹の二十歳の誕生日には、
松下陽斗が、「特別な誕生日だし・・・」といって、
数人の仲間と一緒に、祝ってくれた。
2013年の2月1日の陽斗の二十歳の誕生日には、こんどは、美樹が、
仲間を集めて、ささやかな誕生会を催してあげた。
何人もの、男友だちのいる美樹ではあったが、
いつのまにか、知らず知らずのうちに、美樹の心の中には、
ふたりの男性が・・・、
同じ歳の松下陽斗と、
3つ年上の大学の先輩だった、川口信也が、
特別な存在になっているような感じだった。
≪つづく≫