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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

彼女は二度死ぬ。

作者: 枕くま。

 右腕に巻いた時計を確認すると、時刻は午前一時五十五分。

 いわゆる、丑三つ時とされる時間まで、あと五分といったところだった。

 春先の温みを帯びた夜風が、僕の頬を舐めるように過ぎていった。昼間の陽差しが感じさせた清廉潔白なイメージから一転した雰囲気を感じ取り、思わず身が震えた。そんな僕の小心ぶりを知ってか知らずか、立ち並ぶ並木を彩る群青の点描を分け入って、止め処も無く風は吹き続けていた。春という季節の裏手にあるいやらしさのようなものを、一年ぶりに実感させられる。

 急きたてられるように、チラチラと微かな音を立て、青々しい葉が路上を這いずるように舞っている。そのいくつかが僕のジーンズに引っかかり、やがて名残惜しそうに離れ、どこまでも続いていそうな一本道の向こうへと転がっていった。

 僕は蛍光塗料の塗られた時計の針を、それこそ食い入るように見つめ、知れず小さな舌打ちがこぼれた。

 僕はまた、こんなところで立ち往生をしている。その事実が、現実が、頭のなかから額をせっついた。

「今日も、ハズレか……」

 理髪店で整えたばかりの頭髪を右手で掻き乱しながら、ひとりごちた。

――当たり前だ。

脳みそから現実がささやきかける。

 ――そんなことが起こり得るはずがない。

「……わかってる、そんなこと」

 気付けば自然と言葉が漏れていた。その事実を振りほどくように、僕は小さく頭を振って、また並木道の先へと目を向けた。

 この道が、あの世へとつづいていることを、僕は期待していたのだ。

 また、彼女と逢うために。




 この並木道には女の幽霊が出る。

 そういう噂がまことしやかに囁かれているらしいことが、僕の耳に入ったのはつい先日のことだった。

 噂の出所や、どういった経緯でその女の幽霊を見るに至ったかなどの情報はすでに諸説うまれてしまっていて、いまさら知ることはできなかった。

 しかしながら、それらに含まれるわずかな要素をつまみ出すことで、僕は件の幽霊は彼女のことなのではないかと疑うことになったのである。

 まず、幽霊に逢ってしまう人物はみな高校二年の男子に限定されていること。

 つぎに、その幽霊は泣き声で人の注意を引き、石をもちいて襲い掛かってくるという。重要なのは、やみくもに殴りかかってくるのではなくて、ある一箇所。 

 ――眼球を叩き潰そうとしてくること。

 そして、その幽霊自身の眼窩は醜く抉られており、眼球が収まっていないことが挙げられる。

 最後に、その幽霊は地の底を這うような声で、助けを求めるように、『アケシ、アケシ』と何度も、何度も、言うのだそうだ。

 この最後の一点を鑑みた結果が、今に至る原因なのだ。

 『アケシ』とは、『明石』。それは僕のあだ名であり、それを知っているのは彼女だけだったからだ。




 僕の名前は明石という。読み方は「アケシ」ではなく、「アカイシ」だ。

 そんな僕の名を、間違いやすくっていけないと、彼女は僕を「アケシくん」と呼んだ。

 僕と彼女はいわゆる幼馴染だった。

 小さなころ、僕らは彼女の妹も混じえて、よくいっしょに遊んでいた。

 いまどきコンビニが一軒も無いくらいには田舎であるこの地域には、驚くほどに子どもが少ない。僕と彼女を合わせても、両手で数え終わってしまうほどだった。

 そのために、僕らの結束は固く、とくに僕と彼女は家が近かったこともあり、他の友人たちよりも、とくに仲が良かったように思う。

 彼女は僕をアケシくんと呼ぶのは、決まってふたりきりのときだけだった。

 他の友人たちといっしょのときは、僕をふつうに「アカイシくん」と呼んでいた。まるで、ふたりだけの秘密のようで、僕はすこしうれしく思っていたものだった。

 この関係は僕らが同じ高校に進学してから、二年の月日が流れるまでつづいた。途切れてしまったのは、彼女が亡くなってしまったからだ。

 死因は両の眼球破裂によるショック死だった。彼女の顔は鈍器によって、原型をとどめないほどに、ボコボコに殴られていた。彼女は服を剥ぎ取られ、荷物も持ち去られていた。犯人はおろか、凶器も発見されていない。

 その事件は、まさにこの並木道で起こったのだった。



 

 一陣の風が僕の首筋を撫ぜていき、反射的に身震いする。空気が冷えはじめてきたようだった。突然の寒気に怯んだのを見越したように、またひとつ、風が吹き、僕は思わず目をほそめた。風に煽られた葉が、名残惜しそうに枝からはなれ、宙を舞った。

 その瞬間、宙をたゆたう青い葉が、さざめく木々の葉が、僕の目には桃色に映った。

 思わず、目を見張る。

 異常な変化はそれだけに留まらなかった。

 アスファルトは引き剥がされ、土がむき出しになり、大小の石ころがそこいらに転がっている。

 木々の根元に降り積もった花びらが、殺伐とした路面に赤い点を生み、気がつくとまるで血だまりのごとき様相を呈していた。

 なんだこれは。

 突然、眼前で起きはじめた奇怪な出来事に戸惑う僕の耳元で、囁くような声が響く。

 まるであのときのように。

          ――アケシくんはさ、

 いや、この情景がすでにあのころのようではないか。

        ――アケシくんはそうじゃないの 

 下がる気温と対照的に、額には汗が滲む。

             ――きみはちがうのよ。

 唐突に現われた桃色の世界の向こうに、ふたつの影が生まれ、ゆらめいている。

 輪郭から、片方は男性的であり、もう片方からは女性的な印象を得た。

 ふたつの影は睦まじそうに溶け合い、重なりあったりわずかに離れたりをくりかえしている。

 僕はその様を呆然とながめていた。

 ふと視線を外すと、とある一本の桜木のしたに、もうひとつの影が潜んでいるのをみつけた。

 それは自身の心情をあらわすかのように、形状が判然とせず、火影のようであったが、頭部と両腕が見て取れることから、どうやら人間ではあるらしい。さまざまに変化する姿からは、緊張、焦り、寂寞の情。そして、現しがたい敵意、そして、殺意のようなものがうかがえる。その対象が件のふたつの影であることは疑いようもなかった。

 この時点で、僕はこの奇怪な現象はあの事件の模倣であることに気がついていた。

 並んでゆらめくふたつの影の片割れが、ふたりの間にすこしの間を置いた。しばし見詰め合った後、ふたたび強く重なり合い、こんどこそぷっつりと途切れた。

 重なり合った瞬間に、桜木の影がいっそう禍々しくうごめいた。

 ふたつの影はどんどん離れていき、片方は、男性的な影のほうは、ついには消えてなくなった。

 その隙を、桜木の影は見逃さなかった。

 残された影のほうへ向かって、にじり寄っていく。残された影はその存在に気がついていないようだった。

 いけない!

 僕は反射的に口を開けていた。しかし、僕の声が空気を震わせることは無く、陸に上がった魚のように、虚しく開閉をしただけだった。

 僕の声は誰にもとどかず、にじり寄る不定形の影はついに女性の影へと、彼女の影へとたどり着いてしまう。

 不定形の影の存在に気がついた女性の影は、一瞬ひるんだようだったが、つぎの瞬間には咎めるように不定形の影に詰め寄っていく。

 僕には見ていることしかできない。

 わずかに体勢を崩した不定形の影の一部に、しっかりとした形を為した大きな影が付随したのだ。

 ――彼女の顔はボコボコに変形していた。

 アレは、凶器となった石だ。

 不定形の影は萎縮した状態から、瞬時に身を翻し右手にあたる部分を大きく振り上げた。その先端には、丸く、大きな影が付随している。

 やめろ!

 僕の声無き抗議は虚しく終わった。

 右腕は振り下ろされ、彼女の影は思わず両の腕で顔を覆う。

 不定形の影は構わずに右腕を振り下ろしつづける。

 いつしかふたつの影が重なり、ひとつの丸く黒い塊になった。

 音の無い惨劇の瞬間を、僕はただ見ていることしか出来なかった。

 桃色の世界で、ひとつの影がゆっくりと立ちあがる。

 影は、今度はしっかりと輪郭を保っており、息を吐くたびに両の肩が持ち上がっていた。

 その影の頭が、僕のほうを向いた。

 突然の出来事に、目を剥く僕に向かって、その影は楽しげに笑んだ。

 口元が見えたわけではない。ただ、そのような空気を感じ取ることができた。

 気が狂ったような笑みを、たしかに影は湛えており、その空気を感じ取った僕もまた、同様の笑みを浮かべていた。




 ――アカ……シ、さん。

 ――アカ、シさん。

「アカイシさん、ですよね?」

 突然声をかけられ、僕はハッとなって辺りを見回した。

 桃色の世界はすでに無く、木々は黒々とした陰に覆われているが、その実、青々しい葉を湛えた枝枝があるはずだった。

 先ほどまで碌に舗装されていなかった田舎道は、丁寧にアスファルトが敷かれ、擦れかかった白線がのびていた。

 さっきの出来事は、やはり夢だったのだろうか。過去に固執する僕の頭が見せた白昼夢のようなものだったのだろうか。

 僕は目元を軽く指で揉み、瞼の裏に張り付いた影の惨劇を打ち消そうとした。

「こんなところで、なにをしているんですか。アカイシさん……」

 声は女性のものだった。僕はそちらへと目を向け、おもわず小さな悲鳴を上げた。

 肩までかかる烏のように黒い髪、賢さと利発さを兼ね備えた、灰色がかった大きな瞳。鼻筋がすぅっと通りつつも、小ぶりな鼻は、妙な愛嬌を感じさせる。

 あのころの彼女が、目の前に現れたのだ。

「あの、わたしです。アカイシさん。久美です」

 狼狽した僕をなだめるように、久美を名乗る女性は言葉をこぼした。

 久美。

 聞き覚えのある名前だった。

 記憶の深い部分を探り、ふと思い浮かぶ事実に、僕は驚きを隠せなかった。

「久美、ちゃん? まさか、久美ちゃんなのか?」

 僕の言葉に、彼女は深くうなずいた。その所作までが、かつての彼女に重なってしまう。

 小さなころに、僕と彼女といっしょに遊んだ、彼女の妹。それが久美だった。

「こんなところで、ぼうっと立ち尽くして、なにをしていたんですか?」

 再開を喜び合う、という雰囲気ではなかった。なにか、いぶかしむような空気が、久美の表情からは読み取れた。

 僕がなにをしていたのか。それをそのまま正直に語って、果たしていいのだろうか。彼女が噂の事実を知らなかった場合、気を悪くさせてしまうかも知れない。

 そう考えると、僕はつい口を噤んでしまった。

 すこし考えたあと、涼むついでに夜桜を眺めに来たのだと応えた。

「すっかり散っちゃったあとに、ですか?」

「知らなかったんだよ」

 適当に誤魔化す僕に、不信の目を向ける久美。僕は小さく咳払いをし、君はなにをしに来たんだと質問を返した。

「バイトが忙しくて、なかなか時間が取れなかったんです。あした中にはもう帰らなくてはいけないんですよ」

 現在、久美は都会の大学に通っているらしかった。

 やはり、久美は例の噂を知っているのだろうか。

 なぜ、そこまでここに来たがるのか。僕が問うと、すこし顔を伏せ、

「ここは、姉が殺された場所ですから」

 とつぶやくように言った。

 影が差した彼女の目は、射抜くように僕を見ていた。




「あれから、もう五年も経ってしまいましたね」

 久美がひとり言をいうような調子で、そうこぼした。僕は唐突な久美の言葉に、すこし戸惑った。

「もう、そんなに経つのか」

「覚えていないんですか? あんなに姉に固執していたあなたが」

「僕が彼女に、固執していた?」

 なんの話だろう。まったく意味がわからない。

「いつも、姉のうしろにくっついて回っていたじゃないですか。小学校、中学校まではまだいいとして、同じ高校に進学した上に、執拗にひっついてこられて、迷惑そうでしたよ」

 お姉ちゃんは。彼女は微かに毒を含ませて、そう締めくくった。

「迷惑そうだった、だって? 彼女が本当にそう言ったのか? それは君の勝手な考えじゃないのかな。それに、ひさしぶりに会ったっていうのに、ずいぶんと酷いことを言うじゃないか」

 僕の非難を、久美は意にも介さず言葉を重ねる。

「姉から訊かなくってもわかりますよ。それは、あなたもよく知っているでしょう?」

 厭な笑みを浮かべる久美に、僕は内心、恐々としていた。

 やめてくれ。

 言わないでくれ。

「だって、お姉ちゃんには付き合っている人がいたんだもの。それは、もちろんアカイシさん。あなたではなかった」

 久美の言葉が、僕のなかに小さな波紋を生み出した。

 ――アケシくん。

 先ほど聞こえた囁きが、また頭のうちで繰り返される。

 ――アケシくん。きみはちがうのよ。

「お姉ちゃんは、あなたのことを『アケシくん』と呼んでいましたが、気付きませんでしたか? 姉は誰かが側にいるときは、あなたをちゃんと『アカイシ』と呼んでいたことを」

 それが、それがどうしたのだろうか。

「お姉ちゃんは怖かったんですよ。いつも引っ付いてくる煩わしいアカイシさんと、自分との仲が周囲に疑われることが。そして、それを既成事実みたいに勘違いしたあなたが、とんでもない行動に出てしまうかもしれないということが」

「彼女が、そう、言っていたのか」

「はい」

 彼女と同じ顔をした久美が、首肯を交えて応える。それだけで、僕の心は深く、沈んでいくようだった。

「お姉ちゃんはとてもやさしい人でしたから、あなたを直接突き放すことが、どうしても出来なかった。そんなお姉ちゃんがあなたとすこしでも距離を置きたくて及んだ行為が、露骨に呼称を変える。というものでした。まぁ、あなたはその真意にまったく気付かず、特別あつかいをされているとひとりで舞い上がっていたようですけど」

 彼女と同じ顔をした久美が蔑むような目で僕を見ている。

「それで、僕にそんなことを言って、なにがしたいんだ、君は」

 じつは、今日、私はあなたに会いに来たんです。と彼女と同じ顔をした久美は言った。

「私は、ただ、あなたが許せなかったのです。あれだけ拒絶されていたことも知らず、ずっと、お姉ちゃんに思われていた風に生きているあなたが。いや、許せなかったのではなくて、ただ不快だったのです。

 しかも、今度は例の噂を聞きつけて、死んだ姉にまで縋りつこうと毎夜毎夜、姉が殺された場所に足を運ぶあなたが、ただ不快で、不快で。気持ちが悪くて仕方が無かった。その、思い上がった心が、ひねり潰してやりたいくらいに不快だった」

 それに。と、彼女はそう言って言葉を繋ぐ。

「私は姉を殺したのは、あなたではないかと思っています」

 その言葉を聞いた瞬間に、白昼夢での出来事が脳裏を走馬灯のように駆け巡った。

 ――触れ合う距離で、睦まじそうにするふたつの影。

 ――大きな石を振り上げて、彼女を打ち殺す不定形の影。

 狂った笑みを浮かべる影に、僕の顔が重なりあう。

 気がつかないうちに、僕は声を荒げていた。

「僕が、僕が彼女を打ち殺したとでも言うのか? 僕が、僕が石を振り抜いたと……」

「待って。どうしてあなたは凶器が石であると知っているのですか? 報道では、凶器は『鈍器のようなもの』としか発表されていない。そもそも、凶器は発見されていないんですよ。

 ……やっぱりあなたが」

 彼女は目じりをキッと吊り上げて、僕に肉薄し、腕をつかむ。

 その瞬間、腕に感じる体温が、彼女の発する汚い言葉の数々を鈍化させ、消し去っていった。言いようも無い幸福感が、僕を包み込んだ。

 あぁ、僕は今、あのときの彼女につかまれているのだ。

「警察を呼びます。洗いざらい話してもらいますから」

 彼女が携帯を取り出すために気を抜いた瞬間に、僕は力の限りを尽くして、彼女を押し倒した。

 暴れる彼女の頭を右手で押さえ、ちょうど手の届くところにあった石を、あの日と同じように手にとって、あの日と同じように振り下ろした。

 今、僕は彼女を二度、殺した。

 

 

 

「アケシくん、きみは、ちがうのよ」

 目の前の彼女が言ったそのひと言の意味が、脳みそに浸透していくまでに、しばらくの時間を要した。

 脳の処理が終わったところで、僕の額から汗がわき、口元はだらしなく開いて、眉間には皺がよった。

 開いた口がアワアワと言葉を吐きあぐねているうちに、彼女は哀れむような目で僕を見て、小さく首を振り、背を向けていってしまった。

 僕は彼女を愛していた。

 だから、彼女も当然そうだと思っていた。

 しかし、彼女は言うのである。

 ――きみは、ちがうのよ。

 彼女のそのことばを聞いたあと、教室にもどった僕を見た小学校以来の友人が、近づいてきて、こう言った。

「あきらめろよ。もう、お前には遠すぎる存在さ」

 涼しげな目元をした友人は、僕の背を叩き、何度も似たようなことを言った。

 それに対して、僕はなんと応えたのか、ひとつとして記憶にない。そのときの僕は死んでいたも同然だったのだ。どうやって彼女のことばを解毒しようか、僕の頭はそのことだけに終始していた。

 僕からの反応がうかがえないと知った友人は、すこし悲しげな目をして、そっと自らの席へもどっていった。

 ふと気がつくと、授業も、ホームルームも終わっていて、僕は教室にひとりきりで席についていた。

 西日の橙に照らされて、すこし目を伏せた。帰らなければと、漠然と思った。

 帰り支度を終えて教室を出ると、となりの教室の開いた戸から、騒がしい笑い声が聞こえてきた。

 けっして覗き見るつもりは無かったのだけれど、その教室の前を通らなければ一階へとつづく階段へ向かうことができなかった。

 行きがかり上、その騒がしい教室をちらと見た僕の目は、そのグループのなかで、楽しげに笑む彼女の姿を捉えたのだ。

「あんたも長い冬だったね」

 ショートヘアの女子が彼女の肩をたたきつつ、そう言った。

 彼女はやめてよと小さく拒否しながらも、僕には見せたこともない最上の笑みでそれをいなしていた。

 その笑みが、僕の心をつよく突き飛ばした。

 僕の知っている彼女はそんな顔をして笑うひとではなかった。いつも儚げに微笑んでいて、溜め息ひとつで吹き消されてしまいそうな、そんな弱弱しさこそが彼女の魅力だったのだ。

 それに、長い冬だったとはどういう意味だろう。彼女は僕に「ちがう」と言った。言ったのに。

 僕はとてもその場で会話を聞きつづけることはできなくて、逃げるように走り去った。

 逃げた僕の背後から、聴いたこともなかった彼女の甲高い笑い声がいつまでも響いて、思わず耳をふさいだけれど、その声が鳴り止むことはなかった。急きたてられた僕の心は焦燥にも似た、さまざまなものが混ざりあったような、混沌とした感情を抱きながら、ひたすらに走った。彼女から距離がひらけばひらくだけ、そういった感情はなぜだか膨らんでいった。

 家に帰ってからは自室のありとあらゆるものを叩いて崩した。そうしたことで、またなにかから逃げ出したかったのだ。

 しかし、行為のむなしさが、また僕のめちゃくちゃな感情を増大させていくのみであった。

 思えば、彼女に対して、どうともしがたい暗い感情を抱きはじめたのはこのときからだっただろう。

 それが、裏切りに対しての殺意であることに気付いたのは、僕が桜並木の下で石を振りぬいた瞬間だった。

 

 


 ふたりの姿を見たのは、まったくの偶然だった。

 僕はその夜、塾から帰ってくる彼女と立ち話をするために偶然をよそおい、彼女の帰り道であった桜並木へと向かったのだ。

 僕はいつものように、桜木の下で通りがかった理由をどのように説明すべきか考えていた。

 頭を働かせるたびに、彼女のことばが殻を破るようにあふれ、わずかに頭痛がした。

――きみは、ちがうのよ

 知らない。

 そんな彼女は知らない。

 僕は頭を振って思考を散らし、ふぅ、と溜め息をこぼした。その吐息に乗るように、散った一枚の花びらが宙でひとつ、くるりと回った。桜の花は散り始めていた。春ももう、終わってしまう。

 ふと、悲しさのようなものが心を過ぎり、僕は頭をふって感情を散らす。

 慣れない感情が呼び水となって、またこの間の異常な感情の流れにとらわれてしまってはいけないと反射的に悟ったのだ。

 腕時計で時間を確認する。彼女がくるまで、あと三分もないだろう。そのとき、時計を巻いた僕の左腕に、一枚の花びらが、そっと乗った。

 それを払おうとしたとき、彼女の姿が目に入った。

 しかし、僕は動けなかった。

 花のように笑む彼女のとなりに、僕をなぐさめてくれた、友人の姿を見たからだ。

 その一瞬で僕の中に巻き起こったのは、ただ純粋な物欲だった。誰にも渡したくないという、その一念のみが、僕の身体を支配した。

 惨劇は、友人が離れてすぐの出来事だった。

 


 

 ぐちゃぐちゃになった彼女の顔を見て、僕はものすごく悲しくなった。

 なぜそうなったのか、今でもわからない。

 ただ、二度と体験したくない感情だと、思ったことは確かだった。

 そのはずだった。



 


 彼女は動かなくなった。

 まるで、あの日と同じように。

 僕は動かなくなった彼女の顔に向かって三度目の殴打を行い、ゆっくりと立ち上がった。違和感を覚えて、自分の頬に手を当てると、頬肉がつりあがっているのがわかった。あの不定形の影の狂気が理解できたことが、なぜかうれしくて、含んだ笑い声がこぼれた。そもそもあれは僕自身だったのだけれど。

 今回はあの悲しみを感じなかったなと、ふと思ったが、現場の処理がさきだと気づき、行動に移した。

 凶器を持ったまま、ふらりと立ち上がり、しばらくあたりを散策し、彼女が乗ってきたであろう車が路肩に停められているのを見つけた。

 僕は動かなくなった彼女のポケットから車の鍵を抜き取り、凶器と彼女を車に乗せた。

捨てに行こう。

 持って帰るのは彼女の持ち物や、着ている服だけでいい。すぐに腐って醜くなる肉体なんて、欲しいと思うほうがどうかしている。僕は既に、彼女を二人所有したも同然なのだから。

 人は思い出だけで生きていけるのだ。

 彼女を殺して、また殺した。これで、彼女はすっかり僕のものだ。ただ、惜しむらくは彼女の消え入りそうな微笑が、もう二度と見られないことくらいだろう。彼女を殺した、唯一の心残りは、それだけだ。

 捨てる場所は心得ている。ここは僕が二十年ちかく住んだ故郷だ。持ち主が老いさらばえて、まったく管理がなされていない山をいくつも知っている。そのどれかの中腹あたりに埋めておけば、誰にも見つかることはないだろう。

 現場に死体を残してしまった、昔の僕とはちがうのだ。

 僕は車へ鍵を挿し込み、捻る。エンジンが始動し、僕はアクセルを踏んだ。




 しばらく直進していくうちに、僕は奇妙な感覚を覚えていた。

 おかしいのだ。

 いくら速度を上げても、どれだけ時間をかけて走っても。一向に並木道の終わりが見えない。僕はこの並木道に毎日のように通っていた。歩いてならば、十分。自転車ならば五分で通り抜けられるところを、僕は今、車で二十分走っているのだ。これが奇妙と言わずしてなんと言おうか。

 それどころか、風に舞う青葉のなかに、桃色の花びらが混じりはじめていた。

 アスファルトの上を走っていたはずのタイヤが、地面を踏みしめるたびにジャリジャリと音を立てている。まるで、土の上を走っているかのように。

 おかしい。

 こんなのは、おかしい。

 そのまま、直進をつづけるうちに、ついには青々しかった並木が、すっかり桃色に彩られているではないか。

 僕は堪らずブレーキを踏んだ。慣性によって、動かなくなった彼女が後部座席から転げ落ちた。

 満開の桜木の下で、僕はすっかり放心していた。

 桜はそれ自体が淡く桃色の光を放っているようだった。宙を舞う花びらも暗闇に光の尾を引いて、地面を明るく照らし出していく。

 これも、白昼夢のつづきなのだろうか。僕はまた意識を手放しているのだろうか。

 この非現実的な光景を前にした僕の耳に、風の音に乗った、誰かのささやきが届いた。

 それは、まるで地を這うような重々しさで、怨嗟の篭もった殺意のうめきだった。

        ――ア、ケ

 僕には、この声に聞き覚えがあった。

     ――アケ、シ……く、ん

 彼女が会いにきてくれたのだ。心のなかに、ふたたび幸福感がよみがえってくるのがわかった。

「ねぇ、どこにいるの? 出てきてくれよ!」

 僕の声が桃色の光舞う闇夜に響き渡る。その呼び声が届いたのか、目の前に彼女が現れた。

 服は着ておらず、まぶたは閉じられていた。あの下には、眼球が入っていないのだろう。まぶたはすこし、へこんでいた。

 事件後と違う部分は、執拗に叩き潰したはずの顔が、もとの滑らかさにもどっていたことだった。

 彼女は、ふらふらと覚束ない足取りで、こちらに近づいてくる。

 僕はその姿に感動を覚えた。あのときのまま、彼女が動いている! なんて素晴らしいのだろう! このまま持って帰るんだ。そうすれば、動く彼女まで僕の物になるのだ! 

 僕はすっかり有頂天になった。

「すごい! 死んだはずの彼女が、彼女が動いている! 死んだはずなのに!」

 思わず感動が口に出ていた。僕の目は、眼前の彼女の姿に釘付けられていた。

「おばえが、死ね」

 そのために、背後に近づいていた久美の存在に、その両手がかかげた大きな石の影に、気付けなかったのだ。

 後頭部に鈍痛を感じた。瞬間、目の前が一気に暗転していく。

 薄れ行く視界の向こうで、本物の彼女は閉じた瞼を開き、真っ黒い眼窩をこちらに向けていた。

 ――アケシくん。

 僕の彼女の口がそう蠢いた。それだけで、僕は昂揚してしまう。

 ――死んでね。

 二度目の鈍痛が、僕の頭蓋を打ち砕く。

 僕の意識が薄れていく。

 本物の彼女がいうように、僕は殺されてしまうだろう。

 しかし、あぁ。

 僕は、しあわせだ。

 あのときの悲しみから、やっと開放されたような、そんな気がした。


 初投稿。去年の六月くらいに書いたモノを修正して投稿しました。感想、コメントを頂けたなら、幸いです。

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