雷の夜
その夜、エヌ氏は、犬のポチを散歩させていた。
会社からの帰りがおそくなり、時計はもう十一時をまわっていた。ポチは、近所の公園の前で、いつものように電柱のにおいをかいでいた。空が、遠くでごろごろと鳴っていた。
「早くしてくれよ。明日も早いんだ」
エヌ氏がひもを引いた、そのときだった。
目の前がまっ白になった。耳の奥で、何かが割れるような音がした。
*
気がつくと、エヌ氏は、ぬれたアスファルトの上にふせていた。
世界が、やけに低かった。電柱が、塔のように高い。そして、においがした。ものすごい量のにおいだった。雨のにおい、土のにおい、電柱にしみついた近所の犬たちのにおい、遠くのコンビニの揚げもののにおい。それが、ひとつひとつ、色がついているように、はっきりとわかった。
エヌ氏は、自分の手を見た。
茶色い毛におおわれた、前足だった。
顔をあげると、目の前に、背広を着た男が立っていた。ぬれた髪に、くたびれたネクタイ。毎朝、鏡で見ている顔だった。
男は、エヌ氏の顔で、エヌ氏の口をあけ、舌を半分たらしていた。それから、自分の両手をふしぎそうにながめ、鼻を近づけて、くんくんとにおいをかいだ。
エヌ氏は、何か言おうとした。口から出たのは、「わん」という声だけだった。
*
男は、つまり、エヌ氏の体に入ったポチは、ひもをにぎったまま、ちゃんと家まで歩いて帰った。毎晩、エヌ氏のあとをついて歩いた道だった。
玄関をあけると、妻が出てきた。
「おかえりなさい。ずいぶんぬれたわね」
妻は、背広の男のほうには、何もおかしなところを感じないようだった。男がうれしそうに妻の顔をなめようとしたときだけ、少し眉をひそめた。
「やだ、お酒でも飲んできたの」
エヌ氏は、玄関のたたきから、すべてを見ていた。
*
翌朝、エヌ氏の体は、エヌ氏と同じ時間に起き、同じ背広を着て、同じ電車に乗って会社へ行った。毎朝、玄関で見送っていたとおりに。
エヌ氏は、一日じゅう気が気でなかった。会社で、いったいどんなことになっているのだろう。
ところが、夕方帰ってきた背広の男は、上きげんだった。妻にかけてきた電話のやりとりで、エヌ氏はおおよそのことを知った。
会社では、たいへんな評判だったらしい。
朝、男はだれよりも早く出社して、入ってくる社員ひとりひとりを、全身でうれしそうにむかえた。課長に何を言われても、目をかがやかせて、まっすぐに課長の顔を見つめて聞いた。書類を取ってこいと言われれば、廊下を走って取ってきた。むずかしい会議では、ひとことも口をきかず、ただ、たまに首をかしげた。
課長は、こう言ったそうだ。
「エヌ君、最近、いやに素直になったじゃないか。きみのような忠実な部下がほしかったんだ」
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それから一か月がたった。
背広の男は、主任に昇進した。
そしてエヌ氏は、気づけば、日あたりのいい縁側で、腹を出してねそべっていた。
朝は妻に散歩に連れていってもらい、公園で好きなだけにおいをかいだ。昼はねむり、夕方は庭で虫を追いかけた。夜には、妻が耳のうしろをかいてくれた。
満員電車はなかった。課長の小言もなかった。月末の数字も、住宅ローンも、なかった。
エヌ氏は、ある日の午後、縁側で目をとじながら思った。犬というのは、なんと気楽なものだろう。
*
一か月後の夜、また雷が鳴った。
背広の男は、ひもを持ってエヌ氏を散歩に連れだした。二人、いや、一人と一ぴきは、言葉をかわさないまま、あの公園の前の電柱の下まで来た。
空が光った。雨が、しだいに強くなってきた。
ここに、もう一度、雷が落ちれば。
背広の男は、エヌ氏を見おろした。エヌ氏は、背広の男を見あげた。
しばらくして、背広の男は、ゆっくりと首を横にふった。
エヌ氏は、ぬれた地面に、ぺたりとふせた。
それで、決まりだった。二人は、いや、一人と一ぴきは、雷が通りすぎるのを待たずに、さっさと家へ帰った。
*
その夜おそく。
背広の男は、寝室でぐっすりねむっていた。居間のソファでは、妻が、ひざの上に三毛猫をのせて、雨の音を聞いていた。
エヌ氏は、ソファの足もとで丸くなっていた。
ふいに、妻が身をかがめ、エヌ氏の耳もとに口を近づけた。
「あなたも、そっちのほうがよくなったんでしょう」
エヌ氏は、びくりとして顔をあげた。妻は、ほほえんでいた。どこか、目の細め方が、人間らしくなかった。
「わたしのときは、三年前の台風の夜だったわ」
妻のひざの上で、三毛猫が、ふあ、と大きなあくびをした。そして、エヌ氏のほうを見て、なんとも満ちたりた顔で、ゆっくりとまばたきをした。
三年間、エヌ氏は、何ひとつ気がつかなかったのである。




