名門伯爵家を牛耳ります
アルカディア帝国の王都の片隅。
喧騒から離れた路地裏に佇む、お世辞にも華やかとは言えない古びた書店。その、さらに薄暗い奥の棚の前こそが、エルセ・フォン・ブラウベルト(18歳)の聖域だった。
普段の社交界におけるエルセは、流行の最先端を追うわけでもなく、いつも一歩引いて周りを立てている、ただただおとなしい伯爵令嬢だ。
特別目を引くような美人というわけでもなく、きらびやかなドレスを着飾った令嬢たちの中に混ざれば、あっという間にその他大勢に紛れてしまうような、ごく普通の地味な女の子。
少しクセのあるハニーブラウンの髪を、お洒落とは言えないシンプルなロイヤルブルーのリボンで一つに結び、どこにでもあるようなヘーゼル(榛色)の瞳を伏せて、いつも壁際で気配を消している。今日着ているのも、仕立ては悪くないけれど色合いの落ち着いたロイヤルブルーのドレスに、地味なクリーム色のケープマントだけ。首元に飾ったシルバーの小さなペンダントだけが、かろうじて彼女が貴族であることを示していた。
そんな、社交界の花とは程遠いエルセが、今、そのヘーゼル色の瞳を爛々と輝かせ、緊張と興奮で頬を真っ赤に染めながら、一冊の文庫本を両手で大事に抱きしめている。
「あったわ……!『悪女の鉄槌~クズな元婚約者は泥水をすすりなさい~』の最新刊……!」
これこそが、エルセの誰にも言えない秘密の、あるいは唯一と言っていい生きがいだった。
大衆小説のページの中にだけ存在する、我が強くて、傲慢で、自分のプライドのために世界を敵に回すような「悪女」たちが、理不尽なクズどもを容赦なく叩き潰すスカッとする物語を読み漁ること。
「エルセ、そっちの棚にあった!? こっちには『氷の悪女は二度と踏みにじられない』の限定版があったわよ!」
同じ棚の陰から、目を輝かせてひょっこり顔を出したのは、同じ趣味を持つ唯一の親友、子爵令嬢のロゼッタだ。
二人はこうして身分を隠して本屋に籠もり、悪女たちの華麗な大立ち回りについて熱く考察を交わすときだけ、普段の「おとなしい令嬢」の仮面を脱ぎ捨てて、楽しくおしゃべりに花を咲かせることができた。
「まあ、ロゼッタ! そっちも素晴らしいわ。ああ、どうして悪女様たちはこんなにカッコいいのかしら。悪口を言われたら三倍にして言い返し、罠を仕掛けられたら相手の家ごと叩き潰す……。私、いつかあんな風に、誰に対してもはっきりと、恐れを知らない不敵な笑みでモノを言える時がきたら、どんなに素敵かしらって思うの」
「本当にね。私たちみたいに、社交界の隅っこで『はい、そうですわね』って調子を合わせているだけの地味な令嬢には、眩しすぎる世界だわ」
二人は買い込んだ本を大事に抱え、「悪女ならこのクズ婚約者をどう処刑するか」なんてニッチな話題でいつまでも笑い合っていた。自分たちには、そんなドラマチックな事件なんて起きるはずがない――この穏やかで、ちょっと退屈な日々がずっと続くのだと、そう思っていた。
けれど、時間は待ってくれない。
エルセが夢見ていた日常は、突然実家から突きつけられた、あまりにも不釣り合いな婚姻話によって、音を立てて崩れ去ることになる。
相手は、シュヴァルツ伯爵家の若き当主、ギルベルト・フォン・シュヴァルツ。
同じアルカディア帝国の「伯爵」という爵位だからこそ、家格の釣り合いとしては表向き「普通の婚約」になる。しかし、それはあくまで建前に過ぎなかった。
あちらは帝国屈指の歴史を誇り、「帝国の盾」とまで称され、国を動かすほどの膨大な資産と権力を持つ名門中の名門。
対するエルセの実家・ブラウベルト家は、王都から遠く離れた領地で細々と暮らすだけの、しがない地方伯爵。同じ爵位でありながら、持っている金も発言権も、天と地ほどの差があるのが冷酷な現実だった。
(同じ伯爵だからって、うちみたいな地方の地味な家に声をかけるなんて……どうして私なんかを選んだの……!?)
普通の令嬢であるエルセにとっては、ただの恐怖でししかかった。社交界の交流が狭いエルセは、彼の姿を遠目から数回見たことがある程度で、顔すら満足に覚えていない。ただ、誰もが「恐ろしいほどの美貌を持つ天才」と噂していたから、多分イケメンなのだろう、ということくらいしか分からない。
そんな自分が、格の違いすぎる帝国の最高峰名門に婚約者として上手くやっていけるのか。
悩む暇さえ大して与えられず、エルセは結婚式までの期間を相手の邸で過ごすため、たった一台の馬車で送り出されてしまった。
手荷物の中に、実家から持ってきた大量の「悪女たちのスカッと本」を、まるでお守りのようにぎゅうぎゅうに詰め込んで。
◇
――そして、王都にある壮麗なシュヴァルツ伯爵邸に到着した。
最初の三日間、エルセはひたすら大人しく、息を潜めるようにして過ごしていた。
何しろ、出迎えた執事からは「当主のギルベルト様は政務と長雨の対応でしばらく戻れない」と冷たく言い放たれ、使用人たちからは『いくら同じ爵位とはいえ、地方のパッとしない地味な令嬢が……』という侮りの視線を隠そうともされなかったからだ。
広すぎる豪奢な客室の隅で、エルセは借りてきた猫のように縮こまっていた。
やっぱり、同じ帝国に籍を置く伯爵家でも、うちとは格が違いすぎるのだ。こんな針のむしろのような場所で、一生冷遇されながら、息を殺して生きていくなんて耐えられない。
おとなしく黙っていれば、いつまでも舐められ、都合のいい飾り物の妻として扱われるだけだ。そんなの絶対に嫌。
悶々と悩み、後ろ向きな涙がこぼれそうになった、到着して三日目の夜のことだった。
「……ハッ、泣いている場合じゃないわ。私にはこれがあるじゃない」
エルセは気分転換にと、トランクの底からお守り代わりに持ってきた「悪女シリーズ」の最新刊を取り出し、貪るようにページをめくった。
そこに描かれていたのは、冷遇された主人公の悪女が、傲慢な態度で周囲を圧倒し、己の尊厳を完璧に守り抜く最高に熱い名シーンだった。
凛とした態度で、理不尽を突きつける者を冷徹に見下ろす悪女の姿に、エルセの魂が激しく揺さぶられる。
(……そうだわ。これよ。これだわ……!)
本を強く抱きしめ、エルセのヘーゼル色の瞳に、これまでにない強い光が灯った。
(私はブラウベルト家の娘。あちらとどれだけ格差があろうと、同じ伯爵という身分に違いはないわ。おとなしく縮こまって舐められるくらいなら、私もこの本に出てくる悪女のように、堂々と、冷徹に振る舞って自分の身を守るのよ!)
いいえ、大丈夫よ。もし、万が一やりすぎて追い出されるようなことがあったとしても……その時は、最悪実家に戻ればいいんだわ。実家のお父様もお母様も優しいもの。きっと私の避難所になってくれるはず……!)
実家という「最後のセーフティネット」があるのだと思えば、急に胸のつかえが取れ、不思議と勇気が湧いてきた。
しかし、エルセはただ無鉄砲に突っ走るだけの無能ではなかった。元が真面目で大人しい令嬢である。悪女として振る舞うからには、それ相応の「準備」が必要だと考えた。
「まずは……舐めてかかってくるであろう、この邸の人間たちを迎え撃つ武器を作らなくては」
そこからさらに数日間、エルセは自室に完全にこもり、夜を徹して準備を進めた。
まず彼女が手をつけたのは、悪女本で定番の展開――「地味な新参者を舐めて、不正を働く小悪党の炙り出し」である。
エルセは使用人に命じて、過去数ヶ月分の邸の出納帳や、王都の商業ギルドが発行している公的な物資の価格表を密かに取り寄せた。数日間、部屋に引きこもって、地元の領地で父親の書類仕事を手伝っていた時の知識を総動員し、一部の人間が「どうせ地方の世間知らずな令嬢には分かりっこない」と高を括って提出してきた帳簿の数字を、徹底的に精査し始めたのだ。
「やっぱり……! この建築資材の購入費、王都の平均価格の3倍近くなっているわ。会計官が業者と結託して、伯爵家の資産を横領しているに違いないわね。……ふふん、証拠は完全に掴んだわ」
エルセは、不正の証拠となる数字と、実際の市場価格を対比させた「横領弾劾資料」を完璧にまとめ上げた。
さらに、エルセの準備はそれだけに留まらない。
彼女が愛読する悪女本には、もう一つお決まりのピンチがあった。それは、「主の不在時に起きる、領地や屋敷の突然の危機(天災や暴動)」である。
特に、今も外で降り続いている大雨が気になっていた。
「悪女たるもの、想定外のピンチに右往左往して泣き叫ぶなんて、一番あってはならない恥べき行為だわ。もし、万が一この雨で領地が危機に陥ったら、悪女様ならどうするかしら……?」
エルセはベッドの上に何冊もの悪女本を広げ、ページをめくりながら何日も考えを巡らせた。
『ふん、私の所有物が泥にまみれるなんて許さないわ。騎士団、今すぐ動きなさい!』――そんな、本の中の冷徹な女帝たちのセリフや行動をノートに書き写していく。
もし川が氾濫しそうになったら、どこに領民を避難させるべきか。
騎士たちをどう効率的に動かすべきか。
怪我人が出た場合の救護所の確保や、物資の配給ルートはどうするか。
ギルベルトが戻れない以上、誰かが冷徹に、迅速に指示を出さなければ、この歴史あるシュヴァルツ伯爵家の名に傷がつく。
「伯爵家を……貴族の矜持を、使用人ごときに舐めさせるわけにはいかないわ。もしもの時は、私が悪女になって、この城のすべてを支配して守り抜いてみせる!」
数日間の引きこもり生活を経て、エルセの手元には、完璧な「横領告発資料」と、あらゆる災害を想定した「領地防衛マニュアル(悪女セリフ集付き)」という、恐るべき二大兵器が完成していた。
世間一般では、これをその場のノリと勢いで用意した「泥縄式」と呼ぶのだろうが、その完成度は、本物の悪女も顔負けの凄まじいものだった。
大人しく縮こまっていた地味な令嬢の仮面を脱ぎ捨て、準備を終えた翌朝。ついに、彼女の「舐められないための悪女化計画」が幕を開けた。
まずは、主の不在をいいことに、ろくに掃除もせず、エルセの食事を適当に済ませようとしていた怠惰な使用人たちに対してである。
「ねえ、そこのあなた」
朝のサロン。エルセは、本で読んだ『傲慢な悪女の冷徹な声』を必死に真似て、わざとゆっくり、低めの声で呼びかけた。背筋をピンと伸ばし、顎を少し上げる。
普段の大人しくてパッとしない彼女からは想像もつかない冷ややかな声音に、びくりと足を止めたメイドへ、エルセは感情の読めない視線を向けた。
「このサロンの隅、ずいぶんと見苦しい汚れが残っていますわね。私のドレスが汚れたら、あなたがどう責任を取ってくださるのかしら? 私を怒らせるということが、どういう結末を招くか、その身で試したいの?」
本当は心臓がバクバクで、地味な顔が緊張で真っ赤に染まりそうだったが、悪女本のセリフをそのまま再現しただけである。
(よし、これで身の程をわきまえさせたはず……!)
エルセが内心でガッツポーズをした瞬間、メイドは顔を真っ青にして「も、申し訳ありません!」と床にひれ伏し、血眼になって掃除を始めた。
さらに、エルセの勢いは止まらない。
午後、邸の会計報告書を持ってきた、これまたエルセを小馬鹿にしていた中年の会計官バルトに対し、エルセは自室にこもって作り上げた、あの「第一の兵器」を突きつける時が来たと確信した。
バルトは、エルセが「地方のしがない伯爵令嬢」であることを知っており、どうせ数字など読めないだろうと、これみよがしに莫大な使途不明金を紛れ込ませた帳簿を提出してきたのだ。
エルセは机の上に置かれた帳簿をパラパラとめくると、ある1ページでピタリと指を止めた。
背筋を伸ばし、冷徹なヘーゼル色の瞳でバルトをまっすぐに見据える。その鋭い眼光に、バルトは思わず息を呑んだ。
「バルト。この資材購入費の項目、随分と不自然な数字が記載されていますわね。市場価格の3倍近い値がついている。……私を騙せると思っていらして?」
バルトは一瞬だけ動揺したものの、すぐに鼻で笑い、傲慢な態度を崩さなかった。
「ふん、地方から出てこられた世間知らずの令嬢には、王都の物価というものがお分かりにならないのでしょう。シュヴァルツ伯爵家ともなれば、出入りの業者も一流ばかり。これくらい当然の経費です。口を挟まないでいただきたい」
その言葉を聞いた瞬間、エルセの心の中で、冷たい炎が燃え上がった。
自分を馬鹿にされたことではない。歴史ある高潔な「シュヴァルツ伯爵家」の名を、こんな小悪党が自分の私利私欲のために利用し、汚していることが、どうしても許せなかったのだ。
「――口を慎みなさい、バルト」
エルセの声が、これまでとは一線を画すほど低く、冷酷に響き渡った。
彼女は立ち上がり、バルトに向かって一歩、ゆっくりと歩み寄る。悪女本で学んだ、相手を精神的に追い詰めるための威圧的な仕草。
「あなたが今、誰に対してその言葉を向けているのか分かって? 私はギルベルト様の婚約者であり、この邸の主を任された身。そして何より、あなたたちが軽んじていいはずのない貴族の娘です」
「くっ……!」
「シュヴァルツ伯爵家は、帝国の盾とも呼ばれる名門中の名門。その歴史と名誉を、あなたのような小役人が、己の懐を肥やすための道具にすることを、この私が許すとでも思いましたの? 伯爵家を……、貴族の矜持を、これ以上舐めるんじゃないわ」
エルセは自室で夜通し作り上げた、あの横領の証拠書類一式を、バルトの目の前へ容赦なく叩きつけた。
「これは先月、王都の商業ギルドが発行した正式な価格表と、あなたが改ざんした帳簿の対比データよ。あなたの言う『一流の経費』とやらは、どう言い訳しても横領の証拠にしかなりませんわ。……これだけの証拠が揃っていて、まだ言い訳を続けるつもり?」
バルトの顔から、完全に血の気が引いた。書類に並ぶ数字は、言い逃れの余地をすべてへし折る決定打だった。
「ひ、ひいっ……! あ、いや、これは、その……!」
「今すぐその汚れた身一つで、この城から出て行きなさい。二度とその不愉快な顔を私の前に見せないこと。……それとも、今ここで騎士団を呼び、横領罪で監獄へぶち込まれたいのかしら?」
エルセが冷徹にそう言い放つと、バルトはガタガタと震えだし、「申し訳ありませんでしたぁぁっ!」と悲鳴を上げて床にひれ伏した。そして、自分の荷物をまとめる暇さえ大して与えられず、衛兵によって文字通り邸から叩き出されたのだった。
「ふう……! 悪女のフリって、なんて心臓に悪いの……!」
部屋に戻ると、エルセはベッドに倒れ込んで胸を押さえた。
しかし、彼女の思惑とは裏腹に、邸の空気は一変していた。ただのパッとしない地方令嬢かと思えば、なんという鋭さと威厳。騎士や使用人たちの間で、「ブラウベルト令嬢、実はとんでもなく聡明な方だ」「旦那様がいない城を、同じ伯爵としての矜持を持って、私欲に溺れる者を正してくださった!」と、凄まじい尊敬の念が広がり始めていたのだ。
そして、エルセが恐れ、そして自室で完璧に対策を練っていた「第二のピンチ」が、ついに現実のものとなる。
何日も降り続いた大雨により、領地を流れる大川が氾濫する危険性が高まったのだ。
「大変です! 川の水位が堤防を超えかけています! しかし、ギルベルト様は出先で足止めを食らい、魔法通信も嵐のせいで繋がりません! 指示が出せない!」
パニックになる騎士団。城の中が混沌に包まれる中、エルセは自室の机に仕込んでおいた、あの「領地防衛マニュアル」を掴み取った。
(よし……完璧にシミュレーションはしてあるわ。後から戻ってきた旦那様にどれだけ『出しゃばるな!』って怒られてもいい。最悪、追い出されたって構わないわ!)
覚悟を決めたエルセは、怯える自分を完全に心の奥底へ閉じ込め、悪女本の「女帝キャラ」を自分に降臨させた。
彼女は、混乱する騎士たちの前に、凛とした足取りで姿を現した。
「静まりなさい! 騎士団!」
その凛烈な声に、広間の全員がハッとエルセを振り返る。
「主がいないからと、揃いも揃って右往左往するなんて、シュヴァルツ家の騎士の名が泣きますわよ。動けない旦那様に代わり、この私が命じます。ただちに領民の避難誘導を開始しなさい! 川沿いには土嚢を積むのよ! 私の命令が聞けないというの!?」
「しかし、令嬢! 避難場所の確保や、怪我人が出た場合の対応が……!」
「そんなこと、すでに手配してありますわ! 城の使っていない倉庫を救護所として開放しなさい。物資の配給ラインも、追放したバルトの不正帳簿から、浮いた資産をすべて捻出します! 急ぎなさい!」
自室で何日もかけて練り上げた完璧な作戦計画があるからこそ、その指示に一切の澱みはなかった。
ただ「自分の身と、この城を守るために完璧に悪女を演じる」を必死に実行しているだけだったが、その姿は、混乱する一同にとって、暗闇を照らす一筋の光――否、誰よりも気高く頼もしい、真の女主人の姿そのものだった。
「――っ、了解いたしました! ブラウベルト令嬢の命に従え!」
騎士たちは魂を震わせ、一斉に動き出した。
エルセもまた、ドレスの裾をまくり上げ、髪を振り乱して泥にまみれながらも、テキパキと救護所の指揮を執り続けた。完璧に仕事をこなしてこそ、傲慢な悪女にふさわしいのだと、必死に自分を鼓舞しながら。
数日後。
奇跡的に被害を最小限に抑え込み、氾濫の危機を脱したシュヴァルツ領。
そこへ、泥をかぶり、疲弊しきった様子で、若き当主ギルベルト・フォン・シュヴァルツが命からがら帰還した。
彼は、自分の留守中に領地が壊滅しているかもしれないと絶望していた。
しかし、彼が目にしたのは――。
「令嬢! こちらの物資の搬入、終わりました!」
「ご苦労様。みんな、よく頑張ってくれましたわ。温かいスープを飲んで、少し休みなさい」
泥だらけのドレスを着て、顔にも泥が跳ねているにもかかわらず、誰よりも誇り高く毅然と微笑み、騎士たちから神のように崇拝されている一人の少女の姿だった。
(……彼女が、私の婚約者……、エルセ、なのか……?)
ギルベルトは、言葉を失ってその場に立ち尽くした。
24歳という若さでありながら、アルカディア帝国屈指の名門伯爵家の頂点に立ち、若き天才政務官として皇帝からも一目置かれる男。それがギルベルトだ。
長身のすらりとした体躯に、名門の血筋を証明する圧倒的な気品。多忙ゆえに多少の疲れは見え、泥をかぶってはいるものの、隙のない完璧な佇まいは一切損なわれていない。
結婚式を前に、形式的に申し込んだ婚約。社交界の片隅で、着飾ることもせず、ただ静かに、けれど確かに自分の芯を持って世界を見つめていた彼女の「本質」に惹かれての選択だったが、まさか、これほどまでに気高く、頼もしい女性だったとは。
一方、エルセはギルベルトの視線に気づき、心臓が跳ね上がった。
(ひ、引きつった顔の、ものすごいイケメンがこっちを見てる……! 間違いない、噂のシュヴァルツ伯爵様だわ! 勝手に騎士を動かして、勝手に会計官をクビにして、絶対に怒られる……! 追い出されたらどうしよう……あ、でも、最悪実家があるし……うん、堂々としていよう!)
エルセは覚悟を決め、とっさに「不敵な悪女の笑み」を浮かべ、ツンとそっぽを向いた。
「あら、お帰りなさいませ、ギルベルト様。勝手にお留守番の退屈しのぎをさせていただきましたわ。お怒りかしら?」
さあ、どうにでもなさい!
そう身を硬くしたエルセの前に、ギルベルトがゆっくりと歩み寄る。そして、泥に汚れた彼女の両手を、壊れ物を扱うかのように優しく、震える手で包み込んだ。
冷徹に見えた彼の美しい切れ長の目が、今や感動と、熱い情熱でうるうると潤んでいる。
「怒る、わけがないだろう……。君が、私の家を、領民を、すべてを守ってくれたのか……」
「あ、あの……?」
「なんて……なんて健気で、強い人だ。君を置いて家を空けた私を、どうか許してほしい。これからは、生涯をかけて君を愛し、守ると誓う」
「……はえ?」
エルセの口から、悪女らしからぬマヌケな声が漏れた。
(ちょっと待って、怒られないの!? ていうか、なんでそんなにトロけそうな目をしてるのーーー!?)
◇
その日を境に、エルセの平穏(?)な日々は完全に終わりを告げ、ギルベルトによる怒涛の「勘違い溺愛」の幕が開いた。
とにかく、ギルベルトの狂いっぷりは凄まじかった。
エルセが「なめられてたまるか」と、悪女本を参考にツンツンした態度を取れば取るほど、ギルベルトは感動に震えてその完璧な顔を甘々に蕩けさせるのだ。
ある日の朝食でのこと。
エルセは、わざとトーストの焼き加減に文句を言って、傲慢さをアピールしようとした。
「ギルベルト様、このトースト、少し焼きすぎて香ばしすぎますわ。私の好みに合わせられないなんて、この邸の料理人は少々怠惰なのではないかしら?」
フフン、これで「我儘な悪女」として嫌われるはず!と胸を張るエルセ。
しかし、向かいに座るギルベルトは、ハッと美しい切れ長の瞳を大きく見開くと、胸を押さえて深く感動し始めた。
「……素晴らしい。君は、わざと私を煽るような物言いをして、料理人の技術向上を促しているんだね。そして、そんな些細なことで私が怒るような器の小さい男かどうか、試してくれているのだろう? ああ、なんて聡明で、私を深く見つめてくれる人なんだ……!」
「はい……?」
「すぐに料理長を呼び、君の好みに合わせた完璧なメニューを再構築させよう。君の望みは、すべて私の望みだ」
「いえ、そこまでしなくても……」
またある日は、社交界から届いたきらびやかな夜会の招待状を前に、エルセはめんどくささ半分、悪女のフリ半分でこう言い放った。
「こんな退屈な夜会、行く価値もありませんわ。私は邸で読書をしていたいのです。社交界の有象無象に愛想を振りまくなんて、私のプライドが許しません」
これで「非協力的で傲慢な婚約者」の出来上がり!……のはずだった。
だが、ギルベルトは「クッ……!」と片手で美形を覆い、今にも感涙しそうなほど潤んだ瞳でエルセを見つめた。
「君という人は、どこまで純粋なんだ……。着飾って社交界の権力争いに加わることを嫌い、ただ静かに、私との家を守るために知識を蓄えようとしてくれている。他の令嬢のように、私の財産や名誉を目当てに着飾りたがる俗物とは格が違う。ああ、愛おしい……私のエルセ……!」
「ちょっと待って、耳元で囁かないでください、顔が良すぎて心臓に悪いです!」
何をしても「健気」「聡明」「高潔」と極上の愛で全肯定され、四六時中ベタベタと甘やされる。
気がつけば、エルセの部屋には、彼女が自室にこもっていた時に「本を読みたい」と言ったのを覚えていたギルベルトによって、世界中の希少な本や、ついでに超一級品の宝石やドレスが、足の踏み場もないほど貢ぎ込まれていた。
さらに、邸の使用人や騎士たちまでが、エルセを「我が領の偉大なる女帝」「聖女様」と崇め奉り、彼女が廊下を通るだけで「エルセ様、本日も気高く美しいです!」と一斉に最敬礼する始末。
(違うの、私はただ、地方の伯爵家だからって舐められたくなくて悪女のフリをしてただけなのに! 追い出されるどころか、外堀がコンクリートで埋められていくんだけど!?)
エルセの脳裏から「最悪、実家に帰ればいいや」という選択肢は消え去った。
なぜなら、地方の実家の両親に「シュヴァルツ伯爵家で頑張っています」と手紙を書いたところ、『あの偉大なギルベルト様から、毎日「エルセがいかに素晴らしい女性か」を便箋十枚に渡って書き連ねた手紙が届くよ。我が娘ながら誇らしい!』と、大喜びの返事が返ってきたからだ。
戻れるわけがない。もし今帰ったら、今度は実家から「あんな素晴らしい旦那様を置いて何事だ!」と追い出される。
(もう逃げられないわ……。だったら、腹を括るしかないじゃない!)
そして、婚約期間を経て、ついに二人の結婚式の日がやってきた。
王都の大聖堂。
そこは、エルセの実家のような地方伯爵では到底手が届かない、皇族や超名門貴族だけが使用を許される、アルカディア帝国最高峰の神聖な場所だった。
大聖堂の周囲は、一目二人の姿を見ようと集まった大勢の領民や貴族たちで埋め尽くされ、まるでお祭りのような大騒ぎになっている。
控え室の大きな鏡の前で、エルセは自分の姿を見て息を呑んだ。
纏っているのは、ギルベルトが帝国最高の仕立て屋を総動員して作らせた、純白のウェディングドレス。シルクの生地には、光の加減で星屑のようにきらめく最高級の魔石の粉が織り込まれ、頭上にはブラウベルト家の家格には到底不釣り合いな、シュヴァルツ家に代々伝わるまばゆいダイヤモンドのティアラが輝いている。
少しクセのあるハニーブラウンの髪は、見事なアップスタイルにまとめられ、ヘーゼル色の瞳は、緊張で少し潤んでいた。
「緊張しているかい、私の可愛い悪女」
背後から、低く甘い、極上の声が響く。
振り返ると、そこには黒を基調とした隙のない完璧な礼服に身を包んだ、ギルベルトが立っていた。
24歳という若さで帝国の最高峰名門を率いる彼の、圧倒的な気品と長身。いつもは冷徹に見えるその美しい切れ長の瞳が、今はエルセだけを映して、完全に蕩けきっている。
「ギルベルト様……。あの、私、やっぱりこんなに華やかな式は、身に余ると言いますか……。本当はもっと、地味に済ませるべきだったのでは……」
思わず本音でおろおろとするエルセの手を、ギルベルトは優しく、けれど強く握りしめた。
「何を言うんだ。これでも抑えた方だよ。屋敷の不正を暴き、領地を災害から救った真の女主人の門出だ、本当は皇帝陛下をお呼びして国を挙げた盛大な式にしたかったくらいだ」
「スケールが大きすぎて意味が分かりません!」
「フフ、その、私を前にしても物怖じせず、毅然とツッコんでくれる君のそういう態度が、本当にたまらなく愛おしい。……さあ、行こうか、我が妻よ。世界中に、君が私のすべてだと自慢させてほしい」
ギルベルトはそう言うと、極上の美形に、見たこともないほど甘く、独占欲に満ちた微笑みを浮かべた。
冷徹な天才政務官の面影などどこにもない、ただ一人の少女に狂わされた男の顔だった。
大聖堂の重厚な扉が開く。
目の前に広がるのは、まばゆいばかりの光と、割れんばかりの拍手と歓声。
バージンロードを歩きながら、エルセは心の中で、トランクの中にそっと隠してきた愛読書に向かって叫んでいた。
(悪女シリーズの作者先生、聞いてください! 地方の伯爵家だからって舐められないために自室にこもって必死に泥縄式の準備をしたら、なぜか帝国一の名門当主に逃げ場がないほど溺愛されて、最高に華やかな結婚式を挙げることになりました! 私の計画、最初から最後まで、全部裏目に出てますーーー!?)
そんなエルセの焦りを知ってか知らずか、ギルベルトは彼女の手の甲に優しくキスを落とし、生涯の愛を誓うのだった。
本人はどこまでも「普通の地味な悪女」なのに、旦那様からは生涯狂おしいほどに甘やかされ続ける、おかしな伯爵夫人の新婚生活は、今ここから始まるのである。




