昨夜の犯行
その酒屋は、帰り道に突然現れた。
見慣れた道のはずなのに、こんな店があった記憶はない。古びた看板に、ただ「酒」とだけ書かれている。
扉を開けると、鈴が小さく鳴った。
店内は薄暗く、棚には見たことのない瓶が並んでいる。奥に立つ店主は、顔が影に隠れてよく見えない。
「その酒は、強いですよ」
低い声で、それだけ言った。
グラスに注がれた透明な酒を口に含む。
舌が焼けるように痛い。
だが、妙にうまい。
二杯、三杯と飲んでいくうちに、視界が揺れ始めた。輪郭がにじみ、足元が曖昧になる。
気づくと、知らない場所に立っていた。
暗い路地。
夜。
湿った空気と、遠くのかすかな物音。
目の前に、男女がいる。
男が女を見ている。
次の瞬間、男の腕が動いた。
——鈍い音がした。
女の体が折れる。
何が起きたのか理解するより先に、血が広がっていくのが見えた。
息が詰まる。
足がすくむ。
逃げなければ、と思うのに動けない。
男がゆっくりとこちらを見る。
顔はよく見えない。
だが、目だけがはっきりと分かった。
冷たい目だった。
男が、一歩こちらに近づく。
そのとき、不意に違和感がよぎった。
——距離が、妙に近い。
まるで、その場にいるのではなく、
“同じ場所に立っている”ような感覚。
もう一歩、男が近づく。
呼吸の音が聞こえる。
誰のものか分からない。
視界がわずかに揺れる。
その瞬間、足元に何かが落ちた。
金属の音。
反射的に目を落とす。
ナイフだった。
——なぜ、ここにある。
考えるより先に、視界が暗転した。
目を開けると、自分の部屋だった。
朝。
カーテンの隙間から光が差し込んでいる。
頭が痛い。喉がひどく乾いている。
二日酔いだ。
ゆっくりと起き上がり、周囲を見回す。
見慣れた部屋。
昨夜のことは、ぼんやりとしか思い出せない。
酒屋。
強い酒。
そして——
あの路地。
首を振る。
夢だ。
あんなもの、現実のはずがない。
そう思いながら、手を見る。
指の間に、黒く乾いたものがこびりついている。
息が止まる。
こすっても、落ちない。
爪の間にも入り込んでいる。
喉の奥がひくつく。
ポケットに触れたまま、手が止まった。
そのとき、部屋の奥から音が聞こえた。
テレビだ。
消したはずなのに、ついている。
誰もいないはずの部屋に、アナウンサーの声が響く。
「昨夜未明、市内の路地で女性が刺され、死亡しました——」
体が固まる。
ゆっくりと振り向く。
画面には、見覚えのある路地が映っていた。
あの場所だ。
間違いない。
続いて、ぼやけた映像が流れる。
街灯の下。
立っている男の影。
「犯人は現在も逃走中で——」
映像が一瞬、止まる。
その瞬間、全身の血が引いた。
画面の中の男が着ている服が、
今、自分が着ているものと同じだった。
テレビの音量は、誰も触っていないのに上がっていった。(終)




