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昨夜の犯行

作者: 長谷川誠
掲載日:2026/05/02

その酒屋は、帰り道に突然現れた。

見慣れた道のはずなのに、こんな店があった記憶はない。古びた看板に、ただ「酒」とだけ書かれている。

扉を開けると、鈴が小さく鳴った。

店内は薄暗く、棚には見たことのない瓶が並んでいる。奥に立つ店主は、顔が影に隠れてよく見えない。

「その酒は、強いですよ」

低い声で、それだけ言った。

グラスに注がれた透明な酒を口に含む。

舌が焼けるように痛い。

だが、妙にうまい。

二杯、三杯と飲んでいくうちに、視界が揺れ始めた。輪郭がにじみ、足元が曖昧になる。

気づくと、知らない場所に立っていた。

暗い路地。

夜。

湿った空気と、遠くのかすかな物音。

目の前に、男女がいる。

男が女を見ている。

次の瞬間、男の腕が動いた。

——鈍い音がした。

女の体が折れる。

何が起きたのか理解するより先に、血が広がっていくのが見えた。

息が詰まる。

足がすくむ。

逃げなければ、と思うのに動けない。

男がゆっくりとこちらを見る。

顔はよく見えない。

だが、目だけがはっきりと分かった。

冷たい目だった。

男が、一歩こちらに近づく。

そのとき、不意に違和感がよぎった。

——距離が、妙に近い。

まるで、その場にいるのではなく、

“同じ場所に立っている”ような感覚。

もう一歩、男が近づく。

呼吸の音が聞こえる。

誰のものか分からない。

視界がわずかに揺れる。

その瞬間、足元に何かが落ちた。

金属の音。

反射的に目を落とす。

ナイフだった。

——なぜ、ここにある。

考えるより先に、視界が暗転した。

 

目を開けると、自分の部屋だった。

朝。

カーテンの隙間から光が差し込んでいる。

頭が痛い。喉がひどく乾いている。

二日酔いだ。

ゆっくりと起き上がり、周囲を見回す。

見慣れた部屋。

昨夜のことは、ぼんやりとしか思い出せない。

酒屋。

強い酒。

そして——

あの路地。

首を振る。

夢だ。

あんなもの、現実のはずがない。

そう思いながら、手を見る。

指の間に、黒く乾いたものがこびりついている。

息が止まる。

こすっても、落ちない。

爪の間にも入り込んでいる。

喉の奥がひくつく。

ポケットに触れたまま、手が止まった。

そのとき、部屋の奥から音が聞こえた。

テレビだ。

消したはずなのに、ついている。

誰もいないはずの部屋に、アナウンサーの声が響く。

「昨夜未明、市内の路地で女性が刺され、死亡しました——」

体が固まる。

ゆっくりと振り向く。

画面には、見覚えのある路地が映っていた。

あの場所だ。

間違いない。

続いて、ぼやけた映像が流れる。

街灯の下。

立っている男の影。

「犯人は現在も逃走中で——」

映像が一瞬、止まる。

その瞬間、全身の血が引いた。

画面の中の男が着ている服が、

今、自分が着ているものと同じだった。

テレビの音量は、誰も触っていないのに上がっていった。(終)

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