イタズラ好きの才色兼備
午後の授業が始まっている。
他の生徒とは違って、索理の手元に教科書は広がっていない。家に忘れてきてしまったわけではなく、単に机に頬をつけるのがひんやりとして気持ちがいい、というのが理由だ。
普段から教師の声は驚くほど滑らかに索理の耳を通り抜けていくのだが、藍の特製弁当をしこたま食べたあとの五限目というのは特に絶望的。食べたものがそのまま睡魔への魔力供給になったかのように、夢の世界から差し伸べられた手が索理を誘惑してくる。周囲が教科書の問題と格闘している間、索理は一人だけ襲い来る眠気との戦いを繰り広げ──戦闘開始から十分、既に敗色濃厚といった戦況だ。
「んじゃあこの問題を、夕木……は完全に寝てるから、伊澄」
「はい」
すぐ後ろの席からはきはきとした返事が聞こえ、索理は僅かに意識を取り戻した。
椅子の脚が床に擦れる音がしたあとで、索理の横を風を切って歩く気配がある。索理の鼻腔に金木犀の華やかな香りが届いた。
「……まずは公式が使える形に無理やり変形します。すると元の式の部分が二乗の形になり、つじつま合わせのために出てきた部分も二乗の形になるので、因数分解ができます。あとは解の範囲を確認すれば……」
チョークと黒板がぶつかり合う音が続く。教師からのお呼びがかかった伊澄真宵は、まるで教える側に立っているかのような解説を交えながら回答を書き進めているらしい。索理が寝そべった体勢のままで薄目を開けてみれば、慣れた様子で透き通った水色のポニーテールを小刻みに揺らしている姿が目に入った。
黒板に文字を書くとなると、上下に曲がってしまったり、慣れない書き方になるので字が汚くなってしまいがちだが、真宵の書く文字にそんな乱れは一切存在していない。まるで歴年の教師がチョークを走らせているかのように、きっちりとした字が整然と並んでいく。
そうして紡ぎ出される文字列は回答というか、もはや解答そのものだった。
やがてチョークを使う乾いた音が止むと、教師は満足げな声で「正解だ」と真宵をねぎらった。
「さて、伊澄がほとんど完璧な解説をしてくれたわけだが、一応ゆっくり確認していくぞ。まずは式変形に気付くことが重要で──」
教師が真宵の書いた式を元に詳細な解説を始めたところで、金木犀の匂いが戻って来る。
すれ違いざま、寝そべって上向きになっている索理の耳にささやき声が降ってきた。
「索理。起きているんだろう?」
「んにゃ、寝てる」
「寝言で返事をするとは器用なことだ」
一瞬のやり取りの後、真宵は自分の席に戻る。
ちょっかいがそこで終わるかと思いきや、教師がこちらに背を向けているのをいいことに、真宵の手が伸びてきた。
「うひゃ」
索理の背にそっと触れた指は、くすぐるような感触で背筋を滑り降りていったあと、脇腹に狙いを定めてくすぐりにかかってくる。
「やめっ、やめてよ真宵、声出るっ」
「出したら先生の注意が飛んでくるぞ」
「真宵が辞めてくれたら、ひひっ、済む話だよ、ねぇっ」
索理の小さな声での抗議にも耳を貸さず、真宵の手が索理の弱点をごそごそとまさぐってくる。
「てかその手、チョークの粉が制服にっ、ついちゃうでしょっ」
「心配するな、左手を使っている」
確かに片手しか使われていないし、くすぐられているのは左わき腹だ。利き手ではない方でくすぐっている割には、指先がしなやかに蠢いている。
こそばゆさというものは、くすぐられた箇所に重複して蓄積していく。制止の声も聞き入れられず、むずむずとした感触に耐えきれなくなった索理は──
「っ~~~」
ガタッ。思わずびくりと身を震わせた拍子に、索理は膝を机の裏側に打ち付けた。
恐る恐る前を見てみれば、流石に教師の耳をごまかすことはできなかったらしく、静かな怒りの炎を宿した目と視線が合った。
「夕木、ようやくお目覚めか? 授業中に寝てるとは、俺の話を聞くまでもなく問題が解けるということでいいんだよな?」
「え、ええと……あはは」
「次の問題、前に出てやってみろ」
「……はあい」
とぼとぼと教壇に上がりながら、索理はがっくりと肩を落とす。
(公開処刑だなあ……あんまり目立ちたくないんだけど)
さりげなく時計を見上げてみるが、チャイムが鳴るまではまだかなり時間がある。それらしいことを書き連ねて時間を稼ぐといった手は使えそうにない。というかそもそも索理は、どの問題を任せられているのかすらよくわかっていなかった。
かと言って、ここで何も書けずに降参してしまっては、公衆の面前で叱られる未来は誰の目にも明らかだった。
一応はチョークを握りつつも、さてここからどうしたものか、と索理は黒板の前で立ち往生する。手持無沙汰になった手で偶然スカートのポケットに触れると、触り慣れない感触があった。
(これは……メモ帳?)
教師に見つからないよう、少しだけ引っ張り出してみると、リングにまとめられているタイプのメモ帳が顔を出した。そこには何らかの数式が、まるで印刷したかのような整った文字で書かれている。
ちらりと真宵を振り返ると、彼女はにんまりとした表情をして、人差し指で空中に何かを描いてみせた。
(まあ、他に信じるものもないし……)
一字一句間違えないよう、索理はこまめにメモを確認しながら問題を解いていった。いや、解いていったという表現は正しくない。索理は自分が何を書いているのかも分からないまま、メモの内容を書き写しているだけだ。使うべき公式も理解していない索理は、解き進める途中で突然閃くようなこともなく、結局最後の最後までメモに頼りきりで回答を終えた。
おっかなびっくり教師の顔を見上げてみれば、苦虫を噛み潰したような表情がそこにはあった。
「……正解だ」
今しがた真宵にかけたのと同じ言葉ながら、ニュアンスは大きく違っている。納得していない様子だが、間違いはないので厳しく指摘することができない。そんなジレンマの末に絞り出した一言だった。
索理は全面的に助けてくれたメモの存在に気付かれる前に、逃げるようにして教壇を降りた。




