第九話 真実
隠されていた過去が、ついに明かされる。
敦子の告白は、哲郎の記憶を根底から揺さぶり、真実と虚構の境界を崩していく。
進化とは、現実を変える魔法なのか。
それとも、罪と赦しを繋ぐ奇跡なのか。
混乱の中で見えたのは、ただ一つの温もり。
二人の絆こそが、揺らぐ世界を支える「真実」だった。
読んで頂けると幸いです。
夜の帳がすっかり降りた頃、僕たちはようやく自宅に戻ってきた。時計の針はすでに十時を回っている。玄関を開けると、室内の静けさが妙に心地よく感じられた。今日一日、あまりにも多くのことが起こりすぎた。
「今日は色々あって、ちょっと疲れたね」
敦子がぽつりと呟く。声には張りがなく、どこか遠くを見ているような目をしていた。
「先にお風呂入ってくるね」
「うん」
僕は頷くだけで、ソファに腰を下ろした。敦子はそのまま浴室へと向かっていった。足取りは重く、背中には沈黙がまとわりついているようだった。
新藤 弥生と再会してから、敦子の様子は明らかに変わった。元気がないというより、何かを抱えているような、そんな気配がある。僕に進化者だと知られたからなのか?それとも、僕に何らかの能力を使ったことが原因なのか?
疑問は次々と浮かんでくる。だが、同時に自分自身にも気づいたことがある。進化してから、精神的な耐性が強くなっている。今日のような出来事があっても、以前の僕ならパニックになっていたはずだ。それが今は、冷静に状況を整理しようとしている。
いや、もしかしたら、日頃から部長に怒鳴られ続けたせいで鍛えられたのかもしれない。そんな冗談めいた思考が頭をよぎる。
敦子がお風呂から出てくるまでに、もう一度頭の中を整理してみよう。
僕は、強盗に襲われて一度死んだ。
そして、進化の世界で三つの能力を得た。
一つ目は、心の音が聞こえること。
二つ目は、身体が強くなること。
三つ目は、怪我や病気を治せること。
身体の力は、ソファを軽々と持ち上げたことで確認済みだ。心の音も、敦子の感情を音として感じ取ることで実感している。だが、治癒の能力だけはまだ試していない。
そして、強盗はまだ近所に潜んでいるらしい。僕を再び狙っている可能性もある。
今日出会った新藤 弥生は、進化者だと断言した。今のところ害はなさそうだが、敦子にとっては何かしらの影響があったようだ。
敦子も進化者——それは確定した。
そして、僕に何らかの能力を使っている可能性がある。
それは、僕が敦子との出会いを曖昧にしか思い出せないことと関係しているのかもしれない。
浴室の扉が開き、湯気とともに敦子が現れた。
「ふ〜、さっぱりした。やっと頭の整理もついた」
彼女の心の音が、少し軽くなっている。お風呂でリフレッシュできたようだ。
「哲郎もお風呂入ってきて」
促されるまま、僕もシャワーを浴びることにした。
湯の温かさが、今日一日の疲れを少しずつ溶かしていく。
頭を乾かし、リビングに戻ると、敦子がソファに座って僕を待っていた。
「哲郎、ちゃんと話そうと思って」
その言葉に、僕はただ静かに頷いた。
彼女の目は真剣で、逃げ場のない光を宿していた。
「私は、あの女が言った通り、進化者」
「そして哲郎に、私の進化した能力を使ったの。でも、どうしようもなかったの」
僕は息を呑む。
敦子は、ゆっくりと過去を語り始めた。
「私は大学で、いじめにあっていたの」
え?
僕の記憶にはない敦子の過去だ。
彼女は僕の目を見つめながら、静かに続ける。
「ある日、耐えられなくなって、車道に飛び出したの」
「そしたら、哲郎が走ってきて、私を突き飛ばしたの」
「私はその姿に、すごく感動した。だって、今までいじめられてた私は、世の中からいらない人間だと思ってた。それなのに、命を投げ出して助けようとしてくれる人がいたんだから」
「でもね、ダメだった」
「ダメだったって……?」
「結局、私はトラックにひかれて死んだの。哲郎は、運よく車が避けて助かったのよ」
あまりに衝撃的な内容に、言葉を失う。
頭が割れるような痛みが走る。
記憶が——よみがえる。
僕は大学生なんてしていない。
高卒で、必死に営業しているただのサラリーマンだった。
そうだ。
あの日、目の前で一人の女性が車道に飛び出した。
僕は、咄嗟に助けようとして彼女を突き飛ばした。
だが、その行動が裏目に出て、彼女は隣のレーンのトラックに衝突して——死んだ。
うわぁぁぁぁぁああああ——
その後、僕は自分を責め続けた。
普段しない行動で人の命を奪い、周囲から非難され、自暴自棄になった。
それが、僕の現実だった。
「哲郎」
敦子が僕を抱きしめる。
その腕は温かく、震えていた。
「すごく嬉しかったんだよ。哲郎が走って私を助けようとした姿が、すごく恰好良かった」
「だから私は、進化の世界で進化して、哲郎と一緒で無傷で帰ってきた」
「なんとか哲郎を見つけた時には、廃人みたいになってた。なんとしても助けたかったから、進化の力——私は記憶を一部変えることができる。その力を使って、哲郎の記憶を変えたの」
「じゃあ……僕たちの結婚は? 本当の僕は? 仕事は?」
言葉にするだけで、胸の奥がざわついた。
頭の中では、断片的な記憶と現実がぶつかり合い、つじつまの合わない風景が次々と浮かび上がる。
大学生活の記憶——それは敦子との出会いのはずだった。
けれど、今やその記憶は靄に包まれ、代わりに浮かび上がるのは、営業職として働いていた日々。
どちらが本当なのか。
どちらも嘘なのか。
その混乱が、波のように押し寄せてくる。
敦子は、静かに僕の手を握った。
その手は温かく、震えていた。
「ちゃんと私たちは結婚してるよ」
「私は本当に、優しい哲郎を好きになったの」
「最初は、助けようとしてくれた人を何とかしたいって思いだった」
「でも、一緒にいる間に、あなたの優しさが本当に心地よかった」
「そして、私を必要だと言ってくれたこと——それが、私の心を救ってくれた」
「だから私は、あなたのそばに一生いると誓ったの」
その言葉は、まるで心の奥に灯をともすようだった。
混乱の中にあっても、敦子の声だけは真っ直ぐに届いてくる。
僕の中で、何かが静かにほどけていく。
少し、落ち着いた。
進化によって精神力が強くなったせいかもしれない。
あるいは、敦子の言葉が、僕の心を支えてくれたのかもしれない。
「仕事は……能力を使って、今の職場で働けるようにしたの。ごめんね」
敦子の声には、申し訳なさと愛情が混ざっていた。
僕は、ゆっくりと首を振った。
「いいんだ。ありがとう」
「僕が不甲斐ないせいで、敦子を……死に追いやってしまった」
その言葉を口にした瞬間、胸が締めつけられた。
罪悪感が、再び波のように押し寄せる。
「何言ってるの。ちゃんと生きてるよ」
「もし死んでるなら、哲郎も死んでるんだから、一緒だよ」
「二人ともゾンビだね」
その冗談めいた言葉に、僕と敦子の顔に、ようやく笑顔が戻った。
それは、ほんのわずかな微笑だったけれど、確かにそこに希望があった。
リビングの照明は柔らかく、二人の影を壁に落としていた。
窓の外では、夜風が木々を揺らし、遠くで犬の鳴き声が聞こえる。
日常の音が、今夜だけは特別に感じられる。
「進化って……何なんだろうね?」
僕がぽつりと呟くと、敦子は少しだけ目を細めて言った。
「私にとっては、哲郎と一緒にいさせてくれる魔法かな」
その言葉は、静かに、しかし確かに僕の心に染み渡った。
魔法——それは現実を変える力。
そして、愛する人と共に生きるための奇跡。
色々なことが、まるで嵐のように急に起こった。
記憶の崩壊、進化の告白、過去の罪と赦し。
わからないことは、まだ山ほどある。
進化の本質も、他の進化者の目的も、そして僕たちの未来も。
それでも——
敦子と二人なら、きっと乗り越えていける。
たとえ世界が歪んでも、記憶が揺らいでも、心が繋がっている限り、僕たちは前に進める。
この手の温もりがある限り、僕はもう迷わない。
夜の静けさの中で、僕はそっと目を閉じた。
そして、心の奥で静かに誓った。
——これからも、君と共に生きていく。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。次回も楽しんでもらえるよう頑張ります!
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