第七話 不安
進化の力は確かに宿っている。
だが、それは新たな可能性と同時に、過去への疑念を呼び起こした。
出会った謎の女性、揺れる敦子の心、そして曖昧になる記憶。
自分の過去は本当に自分のものなのか──。
静かな海辺に立ちながら、哲郎の胸には消えぬ「不安」が膨らんでいく。
読んで頂けると幸いです。
「哲郎〜どうしたの?」
敦子の声が、駅の雑踏の中でもはっきりと耳に届いた。彼女は心配そうに駆け寄ってくる。だが、今の僕の姿は、地面に横たわる女性の傍らに膝をついて寄り添っているように見える。状況だけ見れば、誤解されても仕方がない。
「ちょっと!どういうこと?」
敦子の声が一段と鋭くなる。眉間にしわを寄せ、目は怒りと不安で揺れていた。
「トイレ行ったんじゃなくて、女と会ってたってこと?」
「ち、違うよ。この人が倒れてたから、心配で声かけただけだよ」
「本当に?」
彼女の視線は僕を刺すように見つめている。疑念と怒りが混ざった音が、耳に響く。進化した僕には、彼女の感情が音として聞こえる。今は、まるで金属が軋むような不快な音だ。
「あなたからもちゃんと説明してくださいよ」
僕の言葉に促され、女性は僕の腕を離し、すっと立ち上がった。
その動きは滑らかで、まるで風が形を取ったようだった。細身でしなやかな体つき。背は高くない。150cmほどだろうか。だが、その目には不思議な力が宿っていた。まるで僕の内面を見透かしているような、冷静で鋭い光。
「なるほど、面白いわね」
彼女は口元に微笑を浮かべながら言った。
「いいわ、どうせまた近いうちに会うと思うから」
その言葉を残し、彼女は人混みの中へと消えていった。まるで最初からそこにいなかったかのように、周囲の人々も忽然と姿を消していた。
僕は呆然と立ち尽くす。何が起きたのか、頭が追いつかない。
ふと横を見ると、敦子が鬼の形相で僕を睨んでいた。音を聞かなくても、彼女の怒りは肌を刺すように伝わってくる。
彼女は誰だったのか?
あの人だかりはどこへ消えた?
そして、彼女の言葉——「進化した人」
まさか、彼女も僕と同じ進化を遂げた存在なのか?
疑問が次々と浮かび、頭の中が混乱する。
それにしても、敦子の機嫌を直すのには本当に苦労した。
「浮気なんてしないってわかってるよ」と言ってくれたが、他の女性と僕が一緒にいる姿を初めて見たことで、無性に腹が立ったらしい。
その言葉を聞いたとき、僕は少し悲しくなった。
敦子は僕にとって、初めて付き合い、初めて結婚した相手だ。
彼女との絆は、何よりも大切なものだと思っていた。
——なのに、ふとした瞬間、僕は疑問を抱いた。
「そういえば、敦子とどこで出会ったんだったかな?」
口にした瞬間、敦子の顔が驚きに変わった。
「え〜うそでしょ。忘れたの?」
「大学で哲郎が私に告白してきたんだよ」
「あ、うん、そうだったね。ごめんね」
自分でも驚くほど、記憶が曖昧だった。
大学に通っていた?何を勉強していた?
高校までははっきり思い出せるのに、それ以降が靄に包まれている。
記憶の断片が、まるで誰かが意図的に削ったかのように抜け落ちている。
「うぅ」記憶を探ろうとするとこめかみの奥が鈍く痛んだ。
「まだ、ちょっと頭打ったときの影響が残ってるんじゃないの?」
敦子の声には心配と苛立ちが混ざっていた。
「そうかもしれないね。なんだか昔の記憶がところどころ思い出せないんだ」
「もう一度病院で見てもらう?」
「大丈夫。記憶って時間で戻るってテレビでもよく見るし」
「それってドラマの話でしょ。心配だよ」
敦子からは、軋むような苛立ちの音が聞こえる。
それも当然だ。出会いの記憶を忘れるなんて、僕はなんて失礼なんだろう。
だが、心の奥にあるひっかかりは、どうしても無視できなかった。
僕は本当に大学に通っていたのか?
その記憶は本物なのか?
進化したことで、何かが書き換えられてしまったのではないか?
無性に不安がよぎる。
僕の過去は、本当に僕のものなのか?
その後、二人で気分を切り替え、食事をすることにした。
伊勢海老のぷりぷりとした身は、口の中で甘くとろける。
アコヤガイの貝柱は、噛むほどに旨味が広がり、青さの味噌汁は磯の香りが心を落ち着かせてくれる。
どれも絶品だった。
食後、二人で海辺を散歩する。
潮風が頬を撫で、遠くでカモメが鳴いている。
普段と違う景色が、心を少しだけ軽くしてくれる。
だが、記憶の靄は晴れることなく、心の奥に静かに残り続けていた。
——僕は、誰なのか。
——僕の過去は、本当に僕のものなのか。
その問いが、静かに、しかし確かに、僕の中で膨らんでいく。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。次回も楽しんでもらえるよう頑張ります!
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