第三十五話 不意打ち
穏やかな散歩の時間は、一瞬で凍りついた。
黒髪の女性――映像に映っていた存在が、現実に姿を現す。
護衛も、街も、時間さえも止まる中で、動けるのは哲郎と敦子だけ。
不意打ちの邂逅は、進化の世界の謎をさらに深め、物語を新たな局面へと導いていく。
読んで頂けると幸いです。
第三十五話:不意打ち
話し合いが終わり、特別室に残されたのは田辺夫妻、梨音、山本の四人だけだった。
部屋の空気は少し緩み、緊張の余韻が静かに溶けていく。
「なんか~よくわかんない話だったな~」
梨音が椅子に深く腰掛けながら、敦子に問いかける。
「あつっち、理解できた?」
「え、え~……なんとなく……」
敦子は曖昧に笑う。
「まぁ河合さんにはあとでしっかり説明しますよ」
山本が不気味な笑みを浮かべて言う。
「え、えぇぇぇ……嫌だなぁ」
梨音が肩をすくめる。
「さて、我々も戻りましょう」
山本が立ち上がる。
「窮屈かもしれませんが、哲郎さんたちは当面、本部で生活していただけますか?」
「いえ、食事の用意とかしなくていいので助かります」
敦子が笑顔で答える。
「服なんかもクリーニングが無料であるので助かってます」
哲郎も利便性に感謝を述べる。
「それならよかった」
山本は満足げに頷いた。
全員が部屋を出るが、梨音は山本に連れられて別の場所へ向かった。
部屋に戻った哲郎と敦子。
窓から差し込む夕陽が、部屋の壁を柔らかく染めていた。
「コーヒー入れようか?」
「うん。ありがとう」
コーヒーの香りが、張り詰めていた空気を少しだけ和らげる。
カップから立ちのぼる湯気が、二人の間に静かな時間を作った。
「哲郎……なんか、大変なことになってきてない?」
敦子がカップを両手で包みながら、ぽつりと呟く。
哲郎は少し考えてから答えた。
「確かに、僕たちはこの“進化”というものに、かなり翻弄されているかもしれない」
「そして、なんとなくだけど……僕たちがその中心にいるような気がする」
「だんだん怖くなってきた……」
敦子の声は震えていた。
「大丈夫。僕が必ず守る」
哲郎は真っ直ぐに敦子を見つめる。
「うん……でも、無理しないで」
「哲郎は、確かに昔と比べてすごく変わったと思う」
「え?僕が変わった?」
「なんていうか、自信にあふれてるような……」
「そんなことないよ。僕は昔のまま臆病だし」
「ただ……」
敦子は、哲郎の次の言葉を静かに待った。
「好きな人を守ることだけ考えてたら、こんな感じになったのかな」
その言葉に、敦子はコーヒーを机に置き、哲郎に駆け寄って抱きついた。
「ちょ、ちょっと危ないよ。あ、コーヒーこぼれ……」
驚きながらも、哲郎は敦子の気持ちを受け止め、そっと抱きしめ返した。
翌朝。
窓から差し込む朝日が部屋を明るく照らす。
本部は地下にあるが、宿泊施設は上層階に設けられており、外の光が届くようになっていた。
「あ、おはよう」
敦子が笑顔で挨拶する。
「おはよう」
哲郎はコーヒーを飲みながら、昨日の映像を思い出していた。
――黒髪の女性。
赤い髪の女性に似ているようで、どこか違う。
あの明るさ、柔らかさがない。
代わりに、暗く重たい雰囲気が漂っていた。
「今日は訓練も休みだから、少し外を散歩しようか」
「うん」
二人は着替えを済ませ、地下の本部へ向かう。
ちょうど山本がいた。
「山本さん」
「おはようございます、哲郎さん、敦子さん」
「今日は訓練もないので、少し外へ出たいのですが」
「わかりました。護衛無はできませんので、河合さんと私が後方より同行させていただきます」
「大丈夫ですよ。二人の行動自体には干渉しませんので」
「ありがとうございます」
「では、十分ほどお待ちいただけますか」
哲郎と敦子は山本と梨音と合流し、本部を出た。
「ここからは自由で構いません」
「では、お願いします」
「お任せください」
哲郎と敦子は二人で歩き出す。
街並みは穏やかで、都会の喧騒の中にも静けさがあった。
「こうやって昼間散歩するのって、いつぶりだろうね」
「そうだね。なんか何年も散歩してなかったみたいな気持ちだね」
「三重県で散歩してた時に、弥生さんがちょっかいかけてきたとき以来かな」
そんな思い出話をしながら、二人は新宿中央公園へ向かった。
山本は無線で指示を出す。
「前回のこともある。田辺夫妻から目を離すな」
表向きは山本と梨音の同行だったが、実際には十数名の戦闘特化型進化者が護衛にあたっていた。
公園の至る所に、エヴォルドの護衛が配置されている。
哲郎と敦子はそれを知らず、都会の中の自然を満喫していた。
「都庁のそばに、こんなに大きな公園があるんだね」
「そうだね。木々もあって、なんか都会じゃないみたい」
二人は久々のリフレッシュを楽しんでいた。
その時――何の前触れもなく、それは現れた。
「ごきげんよう」
黒髪の女性。
映像に映っていた、あの存在。
誰もが不意を突かれた。
護衛たちが一斉に走り出す。
山本も走る。
だが――まったく哲郎たちに近づけない。
そう、哲郎と敦子、そして黒髪の女性以外、誰も動けないのだ。
まるで時間が止まったかのように。
風も止まり、音も消えた。
公園のざわめきが、まるで映像の一時停止のように静止している。
哲郎は敦子の手を握りしめながら、目の前の女性を見つめた。
――この存在は、何者なのか。
――進化の世界から来た者なのか。
――それとも、もっと別の“何か”なのか。
物語は、次なる局面へと突入していた。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。次回も楽しんでもらえるよう頑張ります!
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