第三十二話 不安
黒井の記憶改ざんの影が、哲郎の心を曇らせる。
愛する敦子を疑ってしまう――その罪悪感が胸を締めつける。
だが、疑念の先にあるのは決意。
妻を守り、無実を証明するために。
不安に揺れる心は、やがて強さへと変わっていく。
読んで頂けると幸いです。
「はっ……はっ……」
哲郎は息を切らしながら、エヴォルド本部の廊下を駆け抜けていた。
足音が硬い床に響き、通り過ぎる職員たちが驚いたように振り返る。
だが、哲郎にはそれを気にする余裕などなかった。
――敦子が、もし部屋にいなかったら。
――もし、黒井の記憶を改ざんしたとしたら。
その不安が胸を締めつけ、理性を追い越して身体を動かしていた。
自室の前にたどり着くと、勢いよく扉を開ける。
「敦子!」
部屋の中では、敦子と弥生がテーブルを挟んでお茶をしていた。
窓から差し込む柔らかな光が、二人の笑顔を照らしている。
「どうしたの、哲郎?そんなに慌てて」
敦子が驚いたように立ち上がる。
「敦子……」
哲郎は息を整えながら、部屋を見渡す。
確かに敦子はここにいる。
しかも弥生まで一緒にいる。
「ずっと部屋にいたんだよね?」
「何言ってるの? 弥生さんとずっと一緒だよ」
「はい、もう一時間以上この部屋でお話をしていました」
弥生も穏やかに答える。
その言葉に、哲郎はようやく胸を撫で下ろした。
――証人がいる。
――間違いない。
よかった……。
「いや、ちょっと心配になって」
「もう、何言ってるの?」
敦子が苦笑する。
「本部にいれば安全だって、山本さんも言ってたじゃない」
「そうだね……」
安堵のあまり、哲郎はその場にへたり込んでしまった。
全身の力が抜け、床に手をつく。
「大丈夫?」
敦子がすぐに駆け寄る。
「今、お水持ってくるね」
キッチンへ向かう敦子の背中を見送りながら、哲郎は自分の動揺を恥じた。
敦子が戻ってきて、冷たい水を差し出す。
「ありがとう」
グラスを受け取り、喉を潤す。
冷たい水が、火照った胸の奥まで染み渡るようだった。
「それより、弥生さんはなぜここに?」
哲郎はようやく落ち着きを取り戻し、疑問を口にする。
「え!? え~っと……ちょっと敦子さんに相談事があって……」
弥生の声がわずかに揺れる。
哲郎の耳には、その音の変化がはっきりと聞こえた。
――何かを隠している。
「何か隠し事でも?」
思わず問いかける。
「ちょっと、哲郎。さすがにそれはダメだよ」
敦子が珍しく、きっぱりと注意した。
その言葉に、哲郎は驚く。
最近、敦子から叱られることなどなかったからだ。
「敦子さん、いいんです」
弥生が静かに口を開く。
「隠し事というわけではないんですけど……最近ちょっと太ったみたいで」
「運動しなきゃって思うんですけど、一人だとなかなか続かなくて……」
「だから、敦子さんの訓練のときに一緒に運動させてほしいって相談してたんです」
「ああ、なるほど……」
哲郎は納得し、思わず苦笑する。
「もう、若い女性にダイエットのことを“隠し事”なんて言ったらダメだよ」
敦子が呆れたように言う。
「すみません……」
哲郎は素直に頭を下げた。
「いえ、いいんです。場所が場所ですもんね」
弥生が微笑む。
――そうだ。
哲郎にとっては、黒井の件で心がざわついていた。
その不安を払拭するために駆け込んだ部屋で、弥生が何かを隠しているように見えた。
それだけで、疑念が膨らんでしまった。
――ダメだ。
思考がマイナスに引っ張られている。
落ち着こう。
「弥生さん、全然スタイル良いと思うんですけど」
哲郎は話題を変えようと、少し明るく言ってみた。
「そんなことないです。着痩せするだけなんで」
弥生が照れたように笑う。
「もう、女性は色々大変なの。哲郎ももう少しわかってくれないとダメだよ」
敦子が冗談めかして言う。
「はい……」
――話を変えたつもりが、結局怒られるのか……。
だが、心は軽くなっていた。
「一度戻るね」
「頑張ってね」
「うん」
哲郎は部屋を出て、山本たちのもとへ向かう廊下を歩きながら、静かに考えた。
――敦子を疑うなんて、僕はダメだな。
――弥生さんと一緒に一時間もいたんだから、間違いない。
――それに、敦子の“記憶をいじる”能力は……
哲郎の脳裏に、訓練で聞いた能力の制約が浮かぶ。
記憶の改ざんや消去は、相手が眠っているときに行う。
そして、能力者の解除によって記憶は戻る。
――では、起きているときに行ったらどうなる?
――他のことをしながらでも、能力は使えるのか?
哲郎は頭を振った。
「そんなはずない。敦子がそんなことするはずないんだ」
「何を僕は嫌なことを考えているんだ……」
記憶の改ざんではなく、精神攻撃の可能性だってある。
黒井の件が、心を曇らせているだけだ。
――敦子を疑うなんて、僕はなんてダメな夫なんだ。
後でちゃんと謝ろう。
そして、敦子の無実を僕が証明するんだ。
哲郎は拳を握りしめ、歩を進めた。
その背中には、決意の色が宿っていた。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。次回も楽しんでもらえるよう頑張ります!
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