第三話 事件
平凡な暮らし。
小さな喜びと、大きな疲労。
そんな日常は、突然の衝撃で破られる。
暗闇に沈む直前、聞こえたのは──卵が砕ける音。
それは、哲郎の人生が「事件」へと踏み込む合図だった。
読んで頂けると幸いです。
「哲郎、こっち手伝って」
敦子の声が、リビングの奥から響く。
僕は返事をしながら、重たいソファーの端を持ち上げた。
「う、重い……」
腕に力を込めるが、ソファーはびくともしない。
木製のフレームに分厚いクッション。見た目以上に重い。
「ちゃんと持ってよ。さすがにソファーを一人で動かせないんだから。男だったら力出してよ」
敦子は腰に手を当て、呆れたように僕を睨む。
その姿は、どこか凛々しくて美しい。
僕、田辺哲郎は、妻・敦子との二人暮らしだ。
敦子は僕とは正反対の性格で、はきはきと物を言う。
芯が強く、感情表現も豊かで、何事にも迷いがない。
かたや僕はというと、小心者で、体力もない。
ひょろっとした体型で、運動は昔から苦手だった。
そんな僕が、どうして敦子のような女性と結婚できたのか──今でも不思議だ。
もしかすると、敦子にとって僕はペットのような存在なのかもしれない。
言うことを聞いて、従順で、時々面白いことをする。
そんな生き物。
「はぁ、はぁ……もう無理だよ」
ソファーを少し動かしただけで息が上がる。
額には汗が滲み、背中にじっとりと湿り気を感じる。
「情けない!しゃきっとしてよ。まだ模様替え終わってないんだから」
敦子の叱責は、いつものことだ。
でも、どこか愛情がこもっている気もする。
僕は休みの日になると、こうして敦子の要望に応えることにしている。
自己満足かもしれないが、少しでも役に立ちたいと思っている。
それでも、敦子からすれば「足りない」のだろう。
僕の趣味はゲームだ。
といっても、特別うまいわけではない。
クリアできるゲームはきちんと最後までやる──それだけだ。
敦子からは「下手の横好き」と言われている。
でも、僕がゲームに夢中になっている姿を、どこか微笑ましく見てくれている。
その視線が、僕には嬉しい。
平日は、平凡なサラリーマン生活。
得意でもない営業職に就き、毎日数字に追われている。
「田辺君、今月もこんな成績で終わるつもりかい?」
部長の声は、いつも通り冷たい。
「すみません、部長」
「いや、僕に謝られてもね」
「謝るぐらいなら、どうやったら結果を出せるか研究すべきではないか?」
「おっしゃる通りですが、どのような研究をすれば……」
「それは自分で考えることだろう」
「君と話していると、私がパワハラしてるみたいになるから嫌なんだよ」
「申し訳ありません」
こんな毎日だ。
淡々とした日々。
小さな喜びと、大きな疲労。
そんなある日のことだった。
仕事帰り、敦子からメッセージが届いた。
「帰りに卵買ってきて」
「わかった」
短いやりとり。
謝ることにも慣れてしまった。
本当は慣れてはいけないのに。
スーパーに寄り、特売の卵を手に取る。
パックの中で、白くて丸い卵が静かに並んでいる。
それをレジに通し、袋に入れて家路を急ぐ。
夜の街は、少し肌寒い。
街灯が点々と並び、アスファルトに長い影を落としている。
前方から、誰かが走ってくる。
パーカーを深く被り、顔は見えない。
僕は反射的に道の端へと寄る。
ぶつかるのは嫌だ。
昔から、人と接触するのが苦手だった。
だが、その男は一直線に僕の方へ向かってくる。
まるで狙いを定めたかのように。
え?知り合い?
違う。顔も見えない。
「──っ!」
男は、何の前触れもなく僕にタックルしてきた。
衝撃で身体が浮き、壁際に吹き飛ばされる。
ガンッ!
頭が、コンクリートの壁に激しくぶつかる。
鈍い音が響き、視界がぐらぐらと揺れる。
地面に崩れ落ちる。
袋から卵が転がり、アスファルトに散らばる。
「金をよこせ」
男の声は低く、冷たい。
感情のない、機械のような声。
グシャッ──
足元で、卵が踏み潰される音がした。
白身が地面に広がり、黄身が潰れて光を反射する。
その音が、僕の意識を引き裂く最後の音だった。
──暗闇が、すべてを飲み込んだ。
ここまで読んで頂き誠にありがとうございます。
更新頻度はゆっくりですが、今後も書いていく予定です。
次を楽しみにして頂けると幸いです。




