第二十話 力
進化によって得たのは、ただの能力ではなかった。
心の音、身体強化、癒し──常識を覆す力が、確かに彼の中に宿っている。
それは自信を与え、性格さえ変えてしまう。
だが同時に、穏やかな日常を遠ざけるものでもあった。
哲郎は問いかける。
この「力」を、どう生きるために使えばいいのか。
読んで頂けると幸いです。
午後の陽射しが柔らかく部屋に差し込む。
窓辺のカーテンが微かに揺れ、空気に静かな温もりを添えていた。
敦子は鏡の前で髪を整えながら、どこか浮き立つような表情をしている。
珍しくウキウキしている様子に、哲郎は思わず微笑んだ。
梨音とこれからスタバでお茶をするらしい。
敦子が楽しそうにしている姿を見るだけで、哲郎の胸は穏やかに満たされる。
「気を付けて行ってきなよ」
「うん♪」
「……あんまり遅くならないようにね」
「わかってるってば」
軽やかな足取りで玄関を出ていく敦子の背中を見送りながら、哲郎は静かにドアを閉めた。
部屋に戻ると、ソファーに深く腰を下ろす。
その瞬間、ふっと肩の力が抜けた。
静寂が広がる。
時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
この一ヶ月――あまりにも多くのことが起きすぎた。
進化、能力の覚醒、そしてエヴォルドという組織への加入。
心の音を聞く能力のおかげで、誰も嘘をついていないことはわかっている。
それでも、精神的な疲労は確実に蓄積していた。
「もう少し、しっかり考えた方がよかったかもしれないな……」
哲郎は独り言のように呟いた。
エヴォルドという組織の全容は、いまだに霧の中だ。
表向きは善意と秩序を掲げているが、その実態は見えてこない。
だからこそ、報告すべき能力のうち二つを隠している。
心の音を聞く能力は、すでに知られている可能性が高いため報告した。
だが、身体強化と癒しの力――この二つはまだ伏せている。
それは、単に隠したいからではない。
自分自身がその力を完全に理解しきれていないからだ。
時間もタイミングも足りなかった。
そして何より、その力の本質があまりにも常識外れだった。
哲郎は立ち上がり、キッチンへ向かう。
コーヒーメーカーに水を注ぎ、豆をセットする。
機械の音が静かに響き、部屋に香ばしい香りが広がる。
湯気と共に立ち昇るその香りが、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
マグカップを手に取り、ソファーに戻る。
一口、コーヒーを含む。
苦味が舌に広がり、思考が少しずつ整理されていく。
「なぜ、こんなにも堂々としていられるんだろう……」
以前の自分は、もっと人の顔色をうかがっていた。
誰かの機嫌を気にし、言葉を選び、怯えるように生きていた。
敦子に対しても、どこか遠慮があった。
それが今では、敦子が自分についてくるような感覚すらある。
性格が変わった――そうとしか思えない。
進化によって得たのは、能力だけではなかったのかもしれない。
心の奥底にあった何かが、根本から変化している。
哲郎は静かに目を閉じ、自分の能力を改めて思い返す。
心の音――相手の感情を音として捉える力。
今では、細かな音の違いも聞き分けられるようになった。
複数の対象を瞬時に切り替えることもできる。
それは、もはや“能力”というより“感覚”に近い。
そして、もう一つ。
身体強化の力。
自分の中に、段階があるのがわかる。
今、認識できるのは五段階。
試してみよう――そう思った。
「……五」
心の中でそう念じると、身体に力が満ちる感覚が走る。
ソファーが綿あめのように軽く感じる。
まるで自分の筋力が常識を超えてしまったかのようだ。
恐る恐るソファーを床に置く。
その軽さに、背筋がぞくりと震えた。
ふと、自分の腕に目を向ける。
キッチンへ戻り、果物ナイフを手に取る。
以前の僕なら絶対にしないことだ。
軽く腕を切りつける。
「うっ……」
鋭い痛みと共に、血が滲む。
その傷口に、もう片方の手を重ねる。
「治れ……」
心の中で強く念じる。
すると、傷のあたりがじんわりと温かくなる。
手をどけると、そこには傷一つ残っていなかった。
皮膚は滑らかで、まるで何もなかったかのようだ。
「こ、これは……」
哲郎は息を呑む。
この二つの力――心の音と、身体強化、そして癒し。
どれもが、世界の常識を覆すほどの力だ。
マグカップを手に取り、再びソファーに腰を下ろす。
手が震えている。
コーヒーを口に含むが、いつもよりも苦く感じた。
天井を見上げながら、哲郎は考える。
どうすればいいのか。
この力を、どう扱えばいいのか。
僕はただ、敦子と二人でのんびりとした生活がしたいだけなのに――
それすらも、許されないのだろうか。
窓の外では、冬の風が木々を揺らしていた。
その音が、哲郎の胸に静かに染み込んでいく。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。次回も楽しんでもらえるよう頑張ります!
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