16 世界魔力の想い。
火木土日の週4日更新予定です。
次回の投稿時間も午前6時台となっていますので、よろしくお願いします。
あらゆる負の感情の沼に自我が沈み、長い年月をかけて溜まった腐臭と汚泥が、身体の隅々まで満ちていく。
無数の熟成された叫びによって、鼓膜が身体の内側から叩かれ、絶え間ない悲鳴が脳を鷲掴みにして揺らす。
「うっ……」
喉の奥が狭まり、呼吸がしにくい。
身体に取り込んだナニカ。
臓腑から逆流しようとしているナニカ。
粘っこく滞留したそれに、息も絶え絶えになりながら意識を向ける。
恐怖、無念、嫌悪、軽蔑、恨み、苦しみ、嫉妬、懊悩、憎悪、絶望。
知り得る全ての――或いはそれ以上の感情の泥濘が俺を捕らえ、揺さぶり続ける。
……激痛と吐き気が止まらない。
身を内側から引き裂かれ、頭を割られ、心の臓を貫かれる感覚。
膨大な情報量の奔流は訴え続ける。
嫌だ。
助けて。
死にたくない。
自然と涙が零れ、叩きつけられる言葉の嵐に胸が締め付けられる。
「ルング君⁉ 大丈夫?」
隣に居るはずの少女の声は遠く、視界もまた世界魔力によって黒く塗りつぶされていく。
……あっ――
ああぁぁぁぁぁぁ!
視界が暗転したと同時に生じたのは、暴力的なまでの怒りと殺意だ。
憤怒という表現では足りず。
激昂というにはあまりにも濃密な怒り。
どうして?
何で?
何故?
俺が、私が、自分が、僕が?
怨念と妄執の過酷な炎が燃え上がる。
数多の執念の雄叫びは、苛烈極まりない。
許さない。
許さない。
許さない。
それは理不尽に対する、膨大な怒りだった。
降りかかった不幸が許せず、自身の存在毎燃やし尽くす炎だ。
絶望を薪に炎は燃え盛り、投げやりな破壊衝動に身体を預けたくなる。
叩き付けたくなる。
壊したくなる。
生きとし生けるもの全てが憎くて仕方ない。
暗かった視界は真っ赤に染まり、心火を燃やそうとしたところで――
「ルング君、大丈夫ですか⁉ 聞こえますか⁉」
ガッ!
力強く両肩を掴まれる。
白銀の鎧――しかし生の温もりを確かに感じさせる、懐かしい手付き。
その瞬間、目の前の人の――制服姿の少女の――阿部さんの言葉が、ようやく耳に届く。
……良かった、無事だった。
まとまらない思考の中で、少女に対して滑稽な言葉が不意に湧いてきたことで――
「……ふっ」
思わず吹き出す。
……バカか俺は。
自身の姿を顧みる。
涙を流し、身体を引き裂く様な痛みに呻いていた俺が、阿部さんの無事を喜ぶなど。
お門違いもいいところだ。
誰が誰の心配をしているんだという話である。
「なっ、何で笑ってるんですか? ルング君?」
少女はしきりに困惑しながら、不審者を見る様な目つきで、こちらを見つめている。
……しかし――生きている。
この世界に来てしまったが故に、幸せかどうかは分からなかったが。
元気に、彼女は生きているのだ。
その姿が――
ここ最近は見慣れたはずの阿部さんのそんな姿がたまらなく嬉しくて、更に笑いが込み上げてくる。
「ちょっと、ルング君? 聞いてますか?」
……ああ、そうだ。
笑みを浮かべたことで、身体に温もりが戻ってくる。
鉛の様に重かった体――酷く鈍かった四肢の感覚が、帰ってきた。
……俺はルング。
回帰した身体の感覚は、沈みかけていた自我の覚醒を促し、己の存在を強く意識させる。
前世で車に轢かれ、この世界に転生した者。
家族が好きで、故郷の村が好きで、この世界の人たちが好きで。
その人たちの幸せを願い、自身がどうして生まれ変わったのかが気になる、ただの人間だ。
暗幕に支配されていた視界が、徐々に明るさを取り戻す。
阿部さんの白銀の手甲。
漆黒に輝く髪と、こちらを真っ直ぐに見つめる瞳。
少女の隣で父親の回復を願っていた少年は今、こちらを――俺を不安そうに眺めている。
……怖がらなくていい。
説得力のない言葉を胸の内で少年に呟き、彼の父親へと再び向き直る。
……俺は君との契約を果たす。
自身の目的を達成するために、契約を履行するのだ。
彼の父親を治し、情報を手に入れる。
情報を元に魔物増加の原因を特定し、可能ならそれを排除する。
その過程で――存在していたのなら――魔王と会い、俺がこの世界に来られた理由を尋ねる。
明確化された目標がストンと胸に落ちる。
……さあ――再開しよう。
取り込んだ膨大な魔力を改めて解析し、掌握する。
溶岩流の如く体内に流れ込んでいた魔力たちは落ち着き始め、これまでのドロリと重く黒い感情とは打って変わった、虚しい悲哀が溢れ出す。
一緒に居たかった。
幸せになりたかった。
夢を見たかった。
生きて――いたかった。
切実で一途な願い。
儚い魔力から伝わる感情は、悲しく澄んでいる。
……申し訳ない。
前世を無気力に――やり過ごして生きてしまった。
誰かの役に立てたかどうかもわからないまま、この世界に来てしまった。
そんな俺にとっては、先程の負の恩讐よりも、今の魔力の方が痛かった。
……すまない。
魔力に乗っていた想いに、応えることなどできない。
俺はただ、俺の望む様に魔力を扱うことしかできない。
罪悪感が胸を満たす。
この魔力に意志があるわけではない。
感情があるわけではない。
この現象は、もういなくなってしまった誰かの情念が、世界魔力に残っているに過ぎないのだ。
故に無駄なこととは分かっている。
意味のない事だとも理解しているつもりだ。
それでも――
……ごめんなさい。
謝らずには、いられなかった。
……魔力の掌握――完了。
代わりにはならないが――
生きられなかった誰かの願いを糧として、少年の父親を――人を生かそう。
対象の現在の肉体構造――把握。
対象の原型記録――解析終了。
悲しみに満ちていた世界魔力たちが、温かい輝きを放ち始める。
想いは悲嘆の恩讐から解き放たれ、俺を言祝ぐ様に身体を満たしていく。
……原型が見えたのなら。
世界魔力が力を貸してくれるのなら――もう難しいことはない。
後はそこまでの過程を魔術で補助し、牽引するだけだ。
……ありがとう。せめて安らかに。
魔力を導く詠唱を、感謝と共に紡ぐ。
「治癒魔術『世界は記録する』――発動」
次の瞬間――
少年の父親を中心に、巨大な魔法円が咲く。
家を透過し、森全体を覆う巨大な魔法円。
その内部の術式が、屋内の床に白く走る。
術式の記述が終わると、体内の世界魔力が直ぐに魔力の花へと放出され、直ぐに満開となる。
「と……父ちゃん⁉」
巨大な魔法円の輝きは大気――世界へと転写され、少年の父親の身体そのものもまた輝きを帯び始める。
包帯によって覆われていた傷口には魔力が集まり、密度を増していく。
そして――
しん
閃光が屋内を満たした直後――魔力の過密状態が、収まった。
すると父親を見続けていた少年が、震える声を上げる。
「と、父ちゃん……父ちゃあぁぁん!」
「な、何⁉ どうしたの⁉」
少年は悲鳴にも近い声を上げながら、父親に縋りつく。
それに驚いたのか、突っ伏していた母親がガバリと身を起こした。
そんな母子をよそに――
ベッドの上に寝ていた少年の父親は、先刻までの酷い傷が嘘の様に、綺麗な身体で眠りについていたのであった。
――これまでとは異なる世界魔力。
誰かの感情が残っていた世界魔力を、主人公はどうにか制御できたのでした。
さて、少年の父親はどうなったのか。
ルングは予定通り情報を集められるのか。
次回以降のお話をお楽しみに!
本作『どうして異世界に来ることになったのか。』をお読みいただき、誠にありがとうございます!
今後も頑張って投稿していく予定ですので、引き続きお読みいただけると嬉しいです。
ではまた次のお話でお会いしましょう