3.日本のない世界 ※
「そもそもおぬしなんでうちの言葉が分かるんじゃ?」
歩きながら鬼姫はストラスと名乗った神父に問いかけた。
古都の紅葉神社にも南蛮の宣教師が来たことがある。
鬼姫が神父を見て「宣教師だ」と思ったのは、その佇まい、雰囲気がよく似ていたからである。
異なる神の使いであるが、八百万の神がいる日本の宮司はそんなこと気にもしない。快く迎え入れ、日本の信仰事情を聞かれるままに答えてやったことがある。
その時の宣教師もやまと言葉を巧みに操っていて驚いたものであるが。
「ああ、これは魔法です。私は元は宣教師ですので、外国で布教を行うこともありまして、どの国の言葉でも話ができるように先ほどオニヒメさんに魔法をかけさせていただきました。言語翻訳魔法ですねえ。この村は国境に近いので他国の言語を使うことも多いので」
しれっと答える神父。
「ただ、あなたの言葉は今までどの国でも聞いたことが無い言語でしたが……。どこか遠くの国の方だとお見受けいたしますが」
「魔法とはなんじゃ?」
「うーん、説明が難しいのです。外国の方にはわかりにくいかもしれませんが、魔力を使ってできる特別な能力と言いますか」
「神通力かの? あるいは霊力か、妖術のたぐいとか」
さっき、ぞわっと背筋が凍ったのはその感覚だったかと思う。
「うちに勝手に術をかけるなど、やめてもらいたいの」
「普通は私自身にかける魔法なのですが、あの場はちょっと兵隊さんともめごとになっていましたので……。申し訳ありません。でも便利な魔法でしょう?」
「しかし、いい気がするもんちゃう。うちにしてみれば呪いをかけられたようなもんじゃ。次やるときは許しをもろてからにしてほしいのう」
「わかりました。お約束します」
「おぬしが約束を守るとどうしてわかるかの」
「神に誓って」
ふーん。鬼姫はちょっと感心した。紅葉神社で巫女の真似事をしていた鬼姫には神に誓うという言葉の重さは十分承知していた。それは異国で、他の宗教であっても変わらぬはずである。ならば信頼してもよいのではないかと思う。
そうして歩きながら、村の小さな教会に着き、奥の神父の書斎に通された。鬼姫にはなにもかもが珍しく、ここが日本ではないと思わせるものばかりだった。
「便利な術じゃ。そのようなもの、他にもいろいろあるんかの?」
「魔物と戦うための攻撃魔法、身を癒すための回復魔法、防御するための防御魔法、その他いろんな魔法がこの世界にはたくさんあります」
「ほう、そら凄いのう!」
「でも、何種類も魔法を使える人はそうはいません。同じような系統の魔法を使えるだけでね」
鬼姫が古都にいたときも似たようなものであった。物の怪、妖怪は妖術を使う。
強敵であったと思う。だが、こんなふうに便利なものではなかった。
「おぬしは何が使えるんじゃ?」
これ以上なにか勝手に使われてはたまらない。神父が正直に言うかどうかは知らないが聞いておきたいものである。
「私は人文に関するものだけですねえ。言語翻訳とか、記憶の魔法とか。だから宣教師になっていたわけですし、あなたとも話せるわけですが」
「なるほどのう……。この術、いつか解けるのかの?」
「私の魔力ですとまあ一年ぐらいは」
「そらお得じゃのう!」
この国、この世界で暮らすには言葉が話せなければ不自由極まりない。今こうして誰とでも話ができるのはありがたい。一年も使っていれば、魔法が解けた後も日常会話ぐらいは不自由しなくなるだろうし。
「礼を申すのじゃ。おおきにありがとう」
「ははは、まあ硬くならずに。あなたは異国から参られたのですか?」
それは間違いないが、正直に言わなければ神父だって答えに困るに決まっていた。観念して真実を話す。
「正直申して、うちは今自分がどこにいるかもわからへんのじゃ。気が付いたらこの村のはずれの森の中じゃ。いったいなにがどうなっとるんかさっぱりじゃ」
「ふーむ……。いわゆる『神隠し』ってやつでしょうか。元いたお国の名前は?」
「日本……。東洋では倭国、西洋ではじゃぽんと呼ばれておったと思うの」
「どういう意味です?」
「日の本、一番東にあって、この世で一番最初にお日いさんが昇る国」
神父は分厚い本をめくって難しい顔をする。
「……極東だと思われますが、そのような国、辞書にもありません。これでも私もほうぼうの国に参りましたが、聞いたこともありませんし」
「うちは魔法など知らんかったし、おぬしらのこともこの国もなんもわからへんわ」
「この国はルントと言います。パールバルト大陸のヨルフ西になりますか」
「ダメじゃ、いっこも分からんの……」
鬼姫は頭を抱えた。
「……王都に行けば、何かわかるかもしれませんね」
「王都? 帝がいはるのかの?」
「王様です。わが国ルントの首都です。大きな都市で歴史もありますから、情報が多いですし、参考になる文献も詳しい学者もいるかもしれません。まだ発見もされていないだけで、もしかしたらそのニッポン国というのもこの世界のどこかに実在するのかもしれませんし、調べてみるのもいいかもしれませんね」
鬼姫の目が見開かれた。
「わかった。行てみるのじゃ」
ストラス神父は微笑んだ。
「何か目標ができるのはいいことだと思います。でもその前に、まずはこの村にご滞在して、旅の準備でもしてください。ご協力できることは致します」
「そないなこと、いつまでもタダで世話になったら申し訳ないの」
「いいんですよ。神隠しであったならそれは神の思し召しでしょうし、だったら保護をするのも教会の役目です。あなたも教会が救うべき民の一人です」
「おおきにありがとうのう……」
急に涙が出そうになるのを必死に耐える。
鬼の子としてずっと忌み嫌われていた自分を受け入れ、育ててくれた紅葉神社の老宮司を思い出してしまった。
今日からお前はここの子だ。
そう言ってまだ幼かった自分の手を握ってくれた老宮司。
右も左もわからないこんな世界で、最初に自分を受け入れてくれた神父に、いまさらのように感謝の念が湧いてきた。本当は何もかも見知らぬ世界で、ずっと心細かったのだ。
なぜ自分は生き返ったのか、なぜ自分はここにいるのか、わからないことはたくさんある。これから一生かけて、鬼姫はその謎を解くために、この世界を歩き回ることになるのかもしれない。そんなことを考えた。
「おぬしは、いえ、神父殿は、うちが信用でけるのかの……」
「あなたはお強い。でも、兵士の誰も傷つけなかった。だからです」
違う。自分はただ、厄介事を避けたかっただけのことで……。
しかしこの世界でも、やっぱり、頼れるのは人間だけだろう。それは間違いなかった。
「とりあえず、うちにお役に立てることがあればお手伝いしたいの。なんでもよろし。なんぞないかの?」
ストラス神父の顔が難しくなる。
「あるにはあるのですが、頼んでよいものかどうか」
「なんでも」
「村に兵士が大勢いたでしょう」
「おったのう」
「実は村に大変な危機が迫っていまして」
「聞かせてくれぬかのう」
次回「4.異世界の悪鬼 上」