2.鬼の出る村 ※
朝。
狂暴な猛獣が出るとわかった以上、念のため一睡もせず朝を待った鬼女はあくびをしてから川で身を清め、まだ生乾きの巫女装束に身を包んだ。
「さあて、どこ行ったらええもんやら……」
そして高い木にすいすいと登って周りを見回した。
遠くに薄く立ち上る煙が見える。
「うーん、火を使うのだから村でもあるかの。ちと行てみるかの」
そして木から飛び降り、熊の生毛皮にぶつ切りにして骨を外した肉を載せて包む。切り倒した若木の皮をむいて棒を作り、熊皮を縛り付けて肩にかついだ。毛皮は川で洗ったがまだ獣の臭いが凄いので、直接かつぐ気にはなれないというもの。村は川の下流にあるらしく、川沿いをてくてくと歩いてゆく。
村に近い山林は未整備で雑木林ばかりだった。
「川があるのだから上流から丸太流しして材木を商売にでけるだろうに、商売っ気の無い村じゃの」と余計なことを考える。
木や草も花も、鬼女の知る物とは全く違う。いくら歩いてもその強烈な違和感はぬぐえない。
「うちはいったいどこの国を歩いておるんじゃ?」
自分は神隠しに遭ってこんな異国に飛ばされたのではないか?
そこまで考えた。
幼いころから野山をかけて育った鬼女は自然の気から異質な感覚を肌身で感じていたのだ。なにかこう、空気そのものが違うような……。
そして、違和感だらけの村にたどり着いた。
書かれている文字が違う。まるで南蛮の字のような、漢字もかなも使わないアルファベットが並んだ立札が見える。村は柵で覆われ、村人は金毛、赤毛、栗毛の異人だらけ。
「ここ、日の本ではないんかの!」
柵で取り囲まれた村、木造りの家は少なく石造り、煉瓦造り、漆喰の家が立ち並ぶ。まさに異国のそれであった。
熊皮を棒に背負った、泥を洗ったように薄汚れた巫女装束の大女が街道を歩いてこっちに来たのだから、門番らしい男たちが目を剥いてこちらを見る。
南蛮甲冑を着て槍を持ち剣を下げた兵士の一団である。
「こんな村になんでこんな陣立てをしておるんじゃ?」
これではまるで戦の準備である。兵団は二十人以上いた。
男たちは驚き、大声を上げ、声を掛け合い、まるで村を守るがごとく鬼女に向かって並び立つ。
それぞれに何か叫んでいるが、残念ながら言葉が全く分からない。
「異国語かの。村が異国の襲撃でも受けておるんかのう?」
いすぱにあだの、ぽるとがるだの、古き日本も異国との貿易をしていたが、こんな西洋と戦争にはなっていなかったはずである。攻め入ってくることなどちょっと考えにくかった。村人も見知った日本の人ではなかったし。
男どもの言っていることはわからないが、「オーガ!」、「オーガ×××××」と口々に叫んでいる。まあこういう反応に鬼女は心当たりがないわけではない。昔は人に見られると、「鬼だ!」「鬼女だ!」と言われ田舎者の旅人に恐れおののかれた経験はいくらでもある。それと同じなのだろうというのは表情からわかるというもの。だったらやることはまあ大して変わりない。
「まあまあ、慌てんで。うちは鬼子じゃが敵ではないの。もめごとはかんにんや」
にっこり笑って手を振る。
「わああああ――――!」
一人の兵が恐怖に耐えられなくなったのか諸刃の剣で斬りかかってきた!
「なんじゃ無礼な」
そうは言ってもここで叩き伏せたり殺したりすれば余計話がややこしくなる。
とりあえず鬼女は振り下ろされた剣を見切り、体をずらして男の手を取って諸刃剣をもぎ取って、体を押し出し後ろに下がってもらった。尻もちをつかせるほどの押しではない。
剣を振り上げて地面に向かって突き立てる。
驚くことに剣は地面に柄だけを残して深く突き刺さった!
もう抜くことさえままならないであろう。一振りの兵士の剣が無効化された。
「×××××××!」
兜のてっぺんに羽根の生えた兵長らしき男が叫ぶと全員が一斉に抜刀して襲い掛かる。
「是非もないのう……」
鬼女は担いだ熊皮から棒を引き抜いて、斬りかかってくる集団の一人一人を舞うように避けながら剣を叩き落としていく。
地面に突き刺さった剣は踏みつけ、また柄だけを残して深く突き刺す。
槍が来た。これも手でつかんではひねってもぎ取り、遠くの木の手の届かない高さに投げつけ、突き刺しておく。
しばらく暴れると、もう武器を持っている兵士はいなかった。倒れたり怪我をしている兵士もいない。鬼女の周りには二十本を超える剣の柄だけが地面から飛び出している。兵士たちは茫然と鬼女を囲むだけである。
鬼女は武器にしていた棒を放り投げた。
「敵意は無いちゅうとる。ほれ、手土産じゃ。皆で召し上がってもらえんかの」
もう一度にっこり笑うと、地面に落ちていた熊の毛皮を広げ、肉を見せて頭に鳥の羽根が生えた兵長らしき男に差し出した。
その時、すっと全身に鳥肌が立つような寒気がした。
なんだか全身を触られたかのような異様な感覚だった。それが何なのかは鬼女には全く分からない。瞬間、ぞっとした。
「ちょっとまってください」
見ると、兵士たちの後ろから南蛮の宣教師のような黒服の若い男が声をかけてきた。
「……おぬし、うちの言葉が分かるんかの?」
「まあちょっとした魔法です。不思議だ。どこの国の言葉とも違いましたね。えーと、あなた、オーガではないのですね?」
「オーガってなんなん?」
「魔物です」
「魔物ってなんじゃ? 物の怪のたぐいかの?」
「えーと、その、人を襲って食らう化け物のことで」
「そんなん食わんわ。これでも神社では人とうまくやっておったしの」
鬼の最後の生き残り。それが鬼女である。
滅んだ理由は定かでないが、限界数を下回って自然に絶滅したということになるだろうか。幼少のころから紅葉神社に預けられ、宮司と共に育った鬼女にはかつての昔話の鬼のように人と戦ったことは無いのである。神社や都を襲う野盗山賊、落ち武者の軍団、妖怪や物の怪のたぐいを除いて、だが。
最後の鬼は、自分を育て、養ってくれた神社や古都の人々に感謝もしていたし、好きだったのだ。人を殺すのはやってはいけない。そんなことは物心ついたころからわかっていた。
「みなさん、剣をお納め下さい。この者は魔物ではありません」
「だがこいつにはツノがある。これはオーガで間違いないだろう!」
兵長らしき男が宣教師に食って掛かる。
不思議なことに鬼女にも他の男たちの話す言葉が分かるようになった。
「オーガだったらオスしかいないはずです。この人、どう見ても女性でしょう?」
「いや、それはそうだが……。いや、今まで隠されていただけでオーガにもメスはいるのかもしれないだろ!」
「でもこの方に敵意は無いでしょう。もしあればあなたたち全員殺されているはずです」
「なんだと!」
怒りに目を剥いた兵長だが、実際、手も足も出なかったのは事実である。
周りを見回しても、部下たちはみんなすでに戦意を失っているのは明らかだ。
「剣を納めたくても、剣が無ければしょうがないのう。ほれ、受け取っておくのじゃ」
鬼女はやや強引に兵長に毛皮に包まれた熊肉を渡すと、手近の剣をまず一振り引き抜いた。
「これは誰の剣じゃ?」
「あ……。私です」
「かんにんしてや、ちと汚れたの」
「あ、いえいえ……」
もう一本引き抜く。
「これは誰のかの?」
「すみません、多分俺です」
「ほい」
そうして鬼女は、兵士全員に剣を返してやった。
兵たちの顔からは、もう完全に戦意が無くなっている。鬼姫は、これで信用してもらえたかとのんきに考えていた。
「この方は私がしばらく預かりまして話を聞きます。よろしいですね?」
「いや、このまま詰め所の牢獄に」
「取り押さえられますかね、あなたたちで」
「いや……」
「だったらお任せください」
宣教師が兵長から離れて鬼女に挨拶する。
「教会神父をしておりますストラスと申します。よろしく」
名乗られた。
鬼女はどう答えるか迷ったが、とりあえず本名を名乗るのはやめにした。
宮司につけてもらった名前はあるが、今は言いたくない。なので祠が祀られていたときのお気に入りの呼び名を答えることにした。
「うちは鬼姫と」
「オニヒメ、さんですね」
「よろしゅうの」
「では村の教会までお越しください」
神父は振り返ってニッと笑った。
次回「3.日本のない世界」