19.老婆の小屋 下 ※
「……ふう」
山姥を倒した鬼姫は外にあった井戸から水を汲み、薬草で嫌な味がする口をすすいで、何度も井戸水をかぶって禊をして身を清めた。
「うう、さすがに寒いのう……」
山姥がどうやって鬼姫の真名を知ったのかは知らないが、鬼や妖怪は、陰陽師に真名を知られるとそのことを畏れ、式神として使役されるようになるという話がある。そうした操りごとの一種なのだろう。鬼姫には安倍の何とかの子孫とかいうクソガキがそうして式神を使役していた覚えがあった。
鬼姫さえも使役しようとかかってきたことがある。まあお互い子供だったのでただの喧嘩にしかならなかったが。
鬼姫は物心ついた時には、もう天涯孤独の身。
紅葉神社に引き取られたときに宮司に与えられた名前さえ、本名ではなかった。
鬼子になる前、本当の親がつけてくれた真名は、もう鬼姫自身にもわからない……。
楓。
今日からお前は楓だよ。
それが鬼姫が紅葉神社の宮司につけてもらった名だった。
妖怪。それは生き物とは少し違う。
人、獣、あるいは神が化けたもの。
鬼姫は孤児だった。おそらく親に捨てられたか、村が野盗、落ち武者に襲われたか、気狂いにかどわかされたか、碌な生まれではなかったためにその怨念が鬼姫を鬼に化けさせた。
だが鬼姫は物心つく前に神社に預けられ、人に育てられた。だから人として成長することができたのだろうと思う。もう今の鬼姫には人間を恨むことがなかった。
かえで……。
久しく呼ばれたことのない名前であった。
魔女はよくそれを見破ったと思う。
魔女のように名前を奪う妖術がこの世界にあるとわかった以上、名前には用心したほうがいいだろう。今は誰にでも鬼姫と名乗っているが、この先も真名は明かさないほうがいいと思った。
巫女装束を着て旅の身なりを整えていると、山のすそ野の道をたどって、いくつもの松明が見えた。どんどん山を登ってくる。
その物言わぬ十数人の男たちが鬼姫の姿を松明に照らしてぎょっとした。
全員、手に手に、剣や棒、鉈につるはしに槌と、武器になるものを構えている。
「お、お、お、お前誰だ!」
「旅の者じゃ。ハンターをしておる」
「ハンターだと?」
「ほれ」
ハンターカードを出す。そうすると、恐る恐るランタンを下げた初老の男が前に出てきてそれを見た。
「……ハンターだ。女のハンターなんて珍しいな。なんでここにいる?」
「山姥がおってのう、退治しておったんじゃ」
「ヤマンバ? 魔女だろ?」
「こちらでは魔女と言うのかの」
男はカードを返してくれた。
「魔女を見なかったか?」
「中で死んでおる」
「倒したのか!?」
「なりゆきでそうなったが、まあそうなるのう……」
小屋の中を男たちが探るが、みな飛び出してきてその異様な臭気にげーと汚物を吐き出していた。
「うげげげげ……、た、確かに。と、とにかく倒してくれてありがたかった……。礼を言う」
「さよかの。この者、下の集落になんぞ悪さでもしておったかの? そもそもおぬしら何者じゃ?」
「魔女狩りだ。俺たちは下の村の住人さ。俺は村長。山に魔女に住み着かれちまって、山に仕掛けた罠の獲物はかすめ取られ、収穫する前に作物は盗まれ、若い女はみんな魔女を恐れて村を出ていっちまうし、さんざんな目にあってたよ。今夜こそは討伐してやろうと決起したんだが、あんたに先を越されちまったな」
しょぼい。実にしょっぱい。殺すほどの事かと鬼姫は正直思った。
「そんなしょうもないことでこないに徒党を組んで殺しに来よったのかの?」
「出て行けと言いに行った男どもは、何人も強力な魔法で返り討ちになって殺されたんでね」
「……ほんならしゃあないのう」
「あんただってあいつを殺しただろうが」
どの口が言うという感じで村長が怒る。
「若がえりの術をやるつもりでうちを食おうとしたんでの、致し方あるまい」
「あー……。なるほど……」
村長は若い娘に見える鬼姫を上から下まで十分に眺めまわした上で、納得したようにうなずいた。
「この小屋、火をつけて燃やしていいか?」と村長が聞く。
「山火事にならぬように火の始末をちゃんとするんじゃぞ」
「すまんな」
鬼姫が小屋になんの執着も見せずにあっさりと火付けを許したので、これで村長と村民は完全に鬼姫を信用することとなった。魔女か、魔女の一味だったら、価値があるものがいっぱいあるはずの小屋を焼き払うことなど、許すわけが無い。
男どもが松明を持って小屋のあちこちに火をつける。
小屋はたちまち燃え上がった。
「……なにする気だ?」
「お清めじゃ。もう魔女が復活したりせんようにの」
リーン、リーン。
鈴が鳴らされ、鬼姫の祝詞が静かに響き渡る。
掛けまくも畏き
伊邪那岐の大神
筑紫の日向の橘の
小門の阿波岐原に
禊ぎ祓へ給ひし時に
生りませる祓戸の大神たち
赤々と燃え上がる小屋の前で祓串を振る鬼姫に、村の男たちはいったい何をやっているのかと理解ができずに戸惑った。
諸々の禍事、罪、穢、有らむをば
祓え給い
清め給へと白す事を
聞こし食せと
恐み恐みも白す
静かに頭をたれ、鈴を鳴らす。
リーン、リーン、リーン。
炎に照らされるそのシルエットは、荘厳で、美しい。
村の男たちは、文句も言わず、それを静かに見守った。
「えーと、どこだったかな……」
招き入れられた村長の家で、村長が家探ししている。
その間、鬼姫はお茶をふるまわれて、テーブル席に座っていた。
「あったあった、これだ!」
ハンターギルドの紋章が入った古い箱を出してきた。
「ハンターに仕事を頼むなんて十数年ぶりだよ、この村じゃ」
「手間をかけるのう」
「いやいや、こんな貧乏村、できるお返しがこれぐらいしかないよ」
そう言ってハンターギルドへの討伐証明を書いてくれる。ギルドから市町村の当主、領主に渡されている偽造防止の証書とインクだ。
この村にはハンターギルドの支部が無いので、カードに討伐した魔物の裏書きをする権限が無い。だからこのように連絡票を持たせるわけだ。
「一応もう一回カードを見せてくれ」
素直に出す。
「……オーガ、マンティコラ、マーマン! えええええ! 凄いじゃないか! 一流のハンターだよ! その若さでとんでもねえな!」
まあ他にも成り行きでいろいろ退治したが、面倒なのでそれは言わない。
「惜しいなあ……。オニヒメさん、このまま村にいてもらいたいよ。よかったら誰か若いもんの嫁になってくれれば最高だが……」
「お断りじゃ」
「だよなあ……」
惜しそうにカードを返してくれる。それに討伐証明を書いた封書も。
「少ないが礼金だ。受け取ってほしい」
革袋も渡してくれる。
「おおきに頂戴するの」
「ほんっとーに少ないからな! いやホント貧乏で申し訳ない!」
「かまへん。こっちとて成り行きじゃからの」
「……魔女は強力な魔法を使っていた。男どもが黒焦げになって炭になるような……。まったくどうやってやり返したのか想像もつかんよ。あんた腕が立つんだねえ」
こちらの魔法とやらも妖術、呪いのたぐいであろう。それが鬼姫の術で返せるということが分かっただけでも十分有益であったと言える。
「それとは別に、なんぞ食い物を恵んでほしいのう。次の町まで数日かかるじゃろ。それで十分じゃ」
「はっはっは! 出す、出すよ! もう何でも取って置きをさ!」
パンやら干し肉やら豆に干し川魚に小麦粉やらワイン瓶やら、いろいろもらってつづらがいっぱいになった鬼姫は、元気に村を離れる坂道を下りて行った。
村長にもらった手書きの地図を見る。
「あーあーあー……。まるっきり方向、間違っとるがの!」
おそらくどこかの道しるべを見逃したのであろう。本当に無駄な遠回りであった。
「旅をするのは昼間に限るのう……」
次からは道しるべをきちんと見ようと思い切り反省した鬼姫であった……。
次回「20.ぬりかべのとおせんぼ 上」




