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ナイトクラブのおばちゃん

作者: ヘルベチカベチベチ

 ずっとまえにナイトクラブで小汚いおばちゃんを見たことがある。今となっては大した話ではないのだが、なにせその日が、僕の初めてクラブへ行った日であったから、異常なまでに、この小汚いおばちゃんの記憶が残ってしまっているのである。

 そのおばちゃんの恰好は、上下を子供が着るようなピンクのパジャマで揃え、ペシャンコに潰れたショルダーバックを引っさげており、極めつけは、服が全体的に茶色がかって汚かった。当時の僕は十六の年で、特別オシャレなやつでもヤンチャなやつでもなかった。そのため初のクラブでは周囲の恰好に圧倒されてしまい、中でもこのおばちゃんには圧倒され、決して近づくまいと思いつつも、また反対に変な魅力を感じてしまっていたのも事実だった。

 おばちゃんはこの日、クラブで唯一踊った。僕があのとき行ったクラブは、イベントとの兼ね合いもあり、DJブースの置かれた場所がとても狭かった。それに原因があったのかなかったのか、DJの音楽を聴いて踊る人は誰もおらず、それはよしとしても集まった人らはみな酒を持って、DJブースを囲むのみ、そのガランとした円内へ入ることはなく、自分の体すら揺らさずただ喋るのに夢中になっていた。DJのやっている音楽は結構よかったように思うが、僕も周りの雰囲気に流され、円の線上の一員として首を揺らすことすら許されないような心地だった。そこに現れたのが小汚いおばちゃんだった。おばちゃんはDJを囲む歪な輪の中に割って入ると、とつぜん音に乗って踊り出したのだ。正直にいって、カッコいいダンスではなかったのだが、おばちゃんが全力で腕や脚を動かすその様に、僕は釘付けとなったのを覚えている。またこの一人だけで踊るおばちゃんに気が付いていたのは僕だけではなかった。DJはおばちゃんに対し好意的な目を向けていたし、僕の隣にいた女は面白がっておばちゃんをスマホのカメラに収めていた。もしかすれば、今も探せばその動画はどこかのサイトに残っているのかもしれない。

 そんなようにして時間を潰していると、そろそろライブの始まる時間になっていた。ライブというのは、この日のメインイベントである対バンライブのことであり、その一つ目のバンドの演奏が始まる時刻に近づいていたのだ。すると、他の客も同じようにして時間に気づき始め、僕らは一斉に、ステージのあるライブスペースへと流れていった。

 ちなみに、僕が未成年でクラブに入れたのはこれが理由だったはずだ。ライブがあるために、クラブへは夕方から入場したのを覚えている。

 対バンの二バンドはどちらもサイケバンドであり、一つ目のバンドはメンバー全員ロン毛で内の数人は髭を生やしているといういかにもな見た目をしていた。しかし見た目だましということはなく、彼らがステージに立ち、演奏が始まると、さっきまで場の空気に委縮していた僕は瞬時にほぐされてしまった。まったく気持ちのいい音だった。

 サイケロックの気持ちよさは、プールや海で長時間遊んだあとの、あの水から上がっても波の揺れが収まらない感じに似ている。それに加えて頭が空っぽになり、しっかり目を開けている力すらなくなってくる。これはあくまで僕がそう感じるというだけであり、またサイケも色々あるので聞く曲によってこの感覚も変わってくるが、サイケロックを聴いたことのない方の参考になればと書いておく。

 意識が明瞭でないまま音に乗っていると、バンドが上がっているステージのすぐ近くに、あのおばちゃんを見つけた。相変わらず変な踊りをしていた。

これ以降おばちゃんを見かけたのが、二つ目のサイケバンドが演奏をしている最中だったため、もうおばちゃんについては語り尽くしたといえる。

 ライブも終わり、帰ろう帰ろうという周りの流れとともにクラブから出て行くと、外はすっかり夜で眩しく、田舎からやってきた僕はこれが都会かぁなどと思っていた。それにしても、あの日は夏の夜だったせいかぬるかった。都会の熱を、酒を飲み歩く若者の熱を、肌に感じてぬるかった。僕はぬるすぎて、帰りの電車で一時間経っても死にたいままだった。死にたいというのは、これはライブの副作用、センチメンタルである。

 あのおばちゃんも死にたいなどと思うのだろうか。それとも死にたいなどと思わぬように踊るのだろうか。というかまだ生きているのだろうか。僕はときどき、あの小汚いおばちゃんを街で見かけたような気になることがある。あの恰好ならば、僕の地元でたむろする浮浪者の中に紛れていてもおかしな話ではない。とはいえ見かけた気がするというだけで、その全部が勘違いであるのだろうし、原因もきっと、僕にときどきふっと現れる、思い出を懐かしむ気持ちがその幻覚を見せているに過ぎないのだろう。そして昨日、僕はまたもや、おばちゃんを見かけたような気がした。いつもならば何事もなくスルーするところであるが、なぜかあのときの僕は、そのおばちゃんの真相を確かめるという愚行に走ったのだった。

 そのおばちゃんらしきものを見たのは、駅のすぐ目の前にあるコンビニ、そこのゴミ箱前である。灰色の歩道と橙色のタイルとの段差をまたぐように、おばちゃんがうつ伏せになって転がっているのを見かけた。このコンビニではよく、朝に数人の浮浪者がたむろしているのを見かけるのだが、昨日の朝はおばちゃんの体が占有してしまっているせいか、他の浮浪者の姿はなかった。

そして僕がおばちゃんの真相を確かめようと試みたのは、ただ好奇心が止められなかったなどという理由だけではない。というのもこの、コンビニの前にいつもの浮浪者がいないというのを皮切りに、そもそも駅前全体に人の姿がないことに気が付いたのだ。これはまったく奇妙なことで、昨日の朝は朝でも、平日の朝であった。僕の住む街は、労働者から浮浪者までもが引きこもりへ鞍替えする街となったのだろうか。

 しかしこのときの僕の興味は、ゴミ箱前に転がるおばちゃんの真相にしかなかった。周囲の視線もないとなれば、さっそく僕はおばちゃんに近寄って行った。おばちゃんの着ている服はクラブの記憶と変わらず、子供みたいなピンクのパジャマ、背中を斜めに横断するショルダーストラップ、そしてその服装は全体的に茶色がかって汚れている。おばちゃんはうつ伏せのため顔こそ確認できないが、そもそも彼女の顔など覚えていないので、この際それは関係がなかった。

 また太陽の下であるからこそ分かったこともあった。まずおばちゃんの服は実際には思っていたよりも汚かった。明るいからこそ不潔なのがなお目立ってみえたのだろう。加えてにおいもひどく、一度は隣のゴミ箱からのものだとも考えたが、明らかに臭いのはこのおばちゃんの体であり、このにおいはクラブでは気にもならなかったことだった。

 しかしこのときは周りに人が誰もおらず静かで、却って静かである方が、普段ならば耳にも入ってこないような音が際立って気になるものだった。まず風と鳥の音が聞こえ、聴覚は研ぎ澄まされ室外機のモーター、やがてどこかの電圧のゼロイチ、行き着けばじゃりじゃりと鳴るドラムの振動と、thを歯と歯のすきまから発する誰かの鋭い気流だった。そしてそれは紛れもなく音楽であり、その音楽はどうやら、おばちゃんのパジャマの尻ポケットから流れているようだった。音量は小さいが音質はやかましいため、イヤホンから音漏れしているのだと考えられた。

 僕にはその音漏れが、一体なんの音楽なのか見当もつかなかった。とうぜん確かめてみたくなりはしたが、いくら周囲に人がいないからといって、道に転がった人のポケットをまさぐるなんてマネはしてはいけない。社会的にも、単に人としてもやってはいけないのである。倫理に基づき我に返った僕は、すると、意外にも避けてしまっていた至極当たり前の疑問が浮かんできた。つまりこの倒れたおばちゃんは、生きているのか、死んでいるのかということである。しかしその程度の疑問はすぐに解決し、それはおばちゃんの胴体が一定のペースで微かに浮き沈みを繰り返しているのをみるに明らかであった。

 死んでいなかったのだと、僕は今更になって安堵し、改めて駅へ向かおうとした。そのとき、なにやらおばちゃんの尻ポケットがもぞもぞうごめいているのを見た。気の抜けていた僕は驚いて尻ポケットを注視するが、尻ポケットから顔を出したのは、一匹のカナヘビであった。カナヘビのしっぽは健在であり、そのしっぽに引っかかって続いて顔を出したのは、赤いコードの有線イヤホンだった。漏れている音が少しだけハッキリとしたが、ポケットから出ても、分からないものは分からないままであった。

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