足るを知るって難しいよねという話
「でーきたー」
開放感に弾む声が上がる。パソコンと向き合っていた毬子さんの作業が片付いたようだった。
デスクチェアがくるりと回って、ベッドに腰掛けていた私へと毬子さんが向き直った。伸びをしながら満足気に目を細めている。
「おつかれー。時期的にいい夫婦の日の絵?」
「そうそう。予定よりだいぶ早く仕上がったわ」
「毬子さん、ほんと筆早いよね。最後に上げたの三日前だっけ」
11月は記念日がたくさんあるから、TLを追うのが大変だ。七五三に推しの日にポッキーの日に夫婦の日に勤労感謝の日に肉の日……目立った行事が少なくクリスマスに侵食されがちな月なのに、やたら記念日は多い。
毬子さんは記念日イラストを上げるだけではなく、今やってるアニメや推しの配信者のFAもぽんぽん描いている。絵描きさんが1枚にどれだけの時間をかけてるか分からないけど、5日以内に1枚上げている彼女のペースは相当速いと思う。加えてフルタイムで働く社会人だし。
「拡大すると線画も塗りも荒いし、少ない工程でうまくごまかす技法を覚えただけよ」
「私からすれば魔法を使ってるのと同じだよ。描くとこ見てても命が吹き込まれてるようにしか見えないもん。まさにゴッド。神絵師の意味が分かった気がする」
「あら、厳選フォローの方にそこまで褒めていただけるとは光栄だわ」
気を良くした毬子さんから『特別に先行公開してあげるわ』と出来立てほやほやの百合ふーふイラストを見せてもらった。やったね。
ちなみにオリジナルイラストは毎回、私をベースにした女性キャラで描いている。恥ずかしいから最初は抵抗あったんだけど、アイデアが無限に浮かんでくるのよと大量の落書きを見せてもらってからは禁止なんて言えなかった。
私自身、二次元の推しは何人もいて単体やカップリングで妄想したことがあったから。
モチベーションにふたたび火がついてくれたんだもの。大事に見守るのがファンの役目だ。
「今回もすっげー」
「褒めて褒めて。どれくらいすごいか褒め讃えて」
「今すぐ引用リポストして長文ツリーで感想したためたいくらい……って言ってもまだ日数あるからここでフライング感想しておくね」
「最高。結婚して」
「もうしてるでしょ」
褒めると大体口説かれるか求婚されるので、お決まりの突っ込みを返して左手をかざす。
今年のホワイトデーに贈った、白金の指輪。天井のシーリングライトを反射して鈍く光っている。
職場だと機械油を使うので汚れちゃうから、お家にいるときだけにつけようと二人で決めたものだ。左手同士で指を絡めて、互いにはまっている指輪を撫でる。
キスとかハグだと盛り上がっちゃって止まれなくなっちゃうから、プラトニックな愛を伝えるだけに留めておく。まだ平日だからね。腰は労らないと。
ひとしきり撫で撫でしたあと、宣言通りLINEに突発感想を送っておいた。
「ふふ……承認欲求の栄養が染み渡るわ……」
毬子さんはしばらく小躍りしていた。猫ミームの素材とかで流れてそうな軽やかステップだった。
いつ見ても、彼女の作品は丁寧に剪定された花畑を眺めてる気分になる。
髪の透明感とか、服の質感とか、背景の気温まで感じ取れそうな空気感とか、遠近感がくっきり出てる被写界深度の表現とか。
毎回思うけど、どう色を乗せればこう化けるんだろう。すごいとは思っても創作意欲は微塵もわかないから一生描ける気がしない。
「ねえ、この子に名前つけてもいい? キャラデザ気に入ってくれた方がいて、FA描きたいんだって」
「うわお、そこまで認知されてるときたか。別にいいけど」
「本音を言うなら同担拒否したいけど、オリジナルで通してる子を独占するのも怪しまれるから。本名とは一文字も被らないようにするわ」
「ほんとはナマモノジャンルだとは誰も思わないだろうね」
今日のぶんのTLを追って、流れてくる神絵にいいねを押していく。
私の日常はずっとこんな感じだ。仕事とイラストの巡回と毬子さんでできている。
1行で片付けられてしまう人生。それを客観視できるようになったのはいつ頃だろう。
プロ並みのアマチュア絵描きさんがどんどん増えてきたあたりだろうか。
当時の同級生が大企業に勤めたり本を出版したり海外進出したりと『結果』を残し始めたからだろうか。
芸能人で同い年か年下の人を見かけるようになってからだろうか。
「足るを知るって難しいね」
「どうしたのよ突然」
あれだけの大作を仕上げたのに、もう次の制作に取り掛かり始めている毬子さんの背中に話しかける。
「日本に生まれただけでだいぶ恵まれてるほうで、まあまあ初期スペックが高くて、事故や大病を患うことなく生きられてて、仕事があって、すばらしい恋人もいて。それで十分って思えないんだ。贅沢だよね」
「なにが不満なの?」
「周りにすごい人がいっぱいいるからかなあ」
十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人。そんな言葉があるように、自分はあらゆる可能性の枝を伸ばすことなく凡人にしかなれなかった。
そのことに対して焦りも嫉妬心も覚えなくなったことに、少しの安堵と寂しさが胸に去来する。それが、おとなになったということなのだろうか。
高校までの自分は、根拠のない自信で満ち溢れていた。勉強も運動もそこそこ出来て、容姿も多くの人から褒められてきたから。
なんにでもなれると思っていた。大物になった自分の妄想に幾度となく浸った。けれどすべての夢は実を結ぶことなく、持病という現実に敗れ去った。
いや、持病を言い訳にして何も行動しなかった根性なしにか。
「メディアの発展は残酷よね。一部の成功者がいっぱいいるように見えちゃうのだから」
「けど、ネットがなかったらずっと引きこもってたかもしれない。外に出づらくなってから、私の世界はそこだったから」
店に行くことなく通販で欲しいものが買えて、検索をかければいくらでも好みのイラストに出会えて、SNSで好きなことをつぶやけば顔も見えない友達が賛同してくれる。
自分以上の人間だけではなく、自分と同じような人もたくさんいるんだって知ることができた。
ここでなら苦しくないよって、もうひとつの世界が肯定してくれる。
毬子さんと出会うまでの私が生きてこれたのは、間違いなくネットの存在が大きい。
「……忍ちゃんは十分すごいわよ。お世辞じゃなく、本気でわたしは褒めてる」
「え、どこが?」
「忍ちゃんとは逆にね。わたし、ネットなんてなければいいって何度も思った。とてつもなく息苦しい世界だもの。今でもその考えは変わらないわ」
淡々とした声で毬子さんは吐き捨てた。振り向いて、自嘲的に笑いかける。
多くの創作者にとっては、そういう世界らしい。形にするだけで満足という人もいるけど、ネットに上げる以上はいっぱい見てほしいというのが大多数の本心だ。
けれど。ネットが宣伝の場になっている現在ではプロアマ混合の世界選手権が毎日開かれているようなもので、数字は自身の実力を容赦なく突きつける。
プロになる気なんてなかった人も、関係なく競わされてしまう。
作り続けなければ、見てもらえない。
いいものでなければ、評価されない。
作れなくなれば、自分に価値はない。
負のループにはまった人は、どんどん産みの苦しみを味わわされていく。
好きだから作り始めた、楽しいから続けている。歩んだ道はほとんどの人が同じだったはずだ。
他人の反応なんて運やタイミングや需要も大いに絡んでくるのだから、一喜一憂するだけ無駄。求めるなら研究してバズるまで打ち込むしかない。
分かっていても、結果の出ない数字に苦しみ筆を折ってしまう人は後を絶たない。
「あー、病みツイが目立つようになって垢消ししちゃった人とかいたな……万バズ何回かあって数千フォロワーいたのに」
「欲に際限がないのよ。上を見ていたらきりがない。満足の基準が他者依存になってしまったら、きっとどれだけの称賛を得ても少しの変動で病むわ」
「絵描けるだけですごいと思う自分からすると、雲の上の世界に聞こえてくるな……」
「わたし……わたしたちにとっては忍ちゃんこそが神様よ。わたしは他人の作品なんて嫉妬で見られなくて、数字も抜かれたくないから拡散もいいねもためらってしまって。醜いでしょう」
毬子さんはそこで言葉を切って、頭に手を伸ばした。少し潤んだ瞳で、まっすぐにこちらを見つめ返してくる。
「けれど忍ちゃんは純粋な好きって気持ちをぶつけてくれる。褒めて応援してくれる。それだけで次も頑張ろうって思えるくらい、単純だったりするの」
「大したことは言えないけどいいの?」
「一言だけだっていいねや絵文字だけだって、心から伝えてくれるならいいの。言葉だけで奪える命も救える命もあるんだから」
「持ってる人にはその人たちなりの苦しみがあるんだね……」
「あ、もちろん忍ちゃんから褒められたいだけで描いてるわけじゃないから。プレッシャー感じなくていいからね」
けれど、この世界に連れ戻してくれたのはあなたのおかげ。
そう照れくさそうに囁いて、毬子さんは頭を撫で回した。いつもの口説き文句とは違う好意の伝え方に、遅れて熱が吹き上がってくる。
「じゃ、じゃあ。次も楽しみにしててね」
「う、うん。頑張って」
お互い茹で上がった顔つきのまま、それぞれの作業に戻る。撫でる動作から抱きつこうとして留まったのは見ないことにした。
抑えてる顔が可愛かったからちょっと煽りたくなったけど、理性を壊しちゃ明日に響くからね。生かすと殺すは紙一重ってか。
物理的にも精神的にも息苦しいときもある世界で、今日も私は生きている。
けれど最近、そう思う時間が減ったのはともに生きる人が隣にいるからだろう。
言葉で生かし、生かされている。今日ひとつ知ったその繋がりを、これからも大事にして生きていこう。
新たにTLに流れてきた絵へといいねを押して、湧き上がった想いを私は打ち込んでいった。




