奥まで触れて◆
みんなちがってみんないい。
遠い昔に国語の授業で耳にしたフレーズが、今になって記憶の引き出しから浮上する。
毬子さんから放たれたただ一言で。抜け出せなかった深く暗い沼に光が差した。そんな錯覚すら感じた。
きっと、似たような言葉はこれまでも耳にしてきたはずなのに。
大切な人が掛けてくれた。ただそれだけで、こんなにも心に響きわたるものなんだって。
帰宅後。夕飯を済ませてお風呂へと入って、いよいよ恋人らしき営みになだれ込むかと思いきや。
毬子さんに呼ばれて、私はマッサージを受けていた。
手慣れているのか、力の強弱の付け方が絶妙だ。
揉まれた端からはへぇぇ、なんて年寄りくさいため息が漏れそうになる。
「凝ってますねぇ、お客さん」
「ちょっと前までデスクワークだったもので」
「こーら、それだけじゃないでしょ」
「あてっ」
リズムよくほぐされていた肩へと、急に指圧がかかる。痛みを感じるほどに。
毬子さん、握力どんだけあるんだろう。
「スマホ。ずーっと下向いていれば、ストレートネックになるわよ? 休憩時間のときやおうちで自由にしているとき、けっこう長い時間いじってるでしょ。あんまり他人のプライベートに口を出したくはないけど、呼吸がしづらい原因は肩こりや首こりが関係しているって症例もあったわ」
体の歪みにより呼吸が浅くなり、慢性的な苦しさから結果的にストレスを引き起こす。その不安で筋肉が硬化することにより、さらなる悪化につながるのだという。
まじか。ずっと心の問題だと思っていたよ。
もし肩こりが原因だとすれば、PCゲーマーでイラストスコッパーって数え役満じゃん。
「……心当たりがありすぎます」
「気づいたら直していけばいいの。それで得するのも自分なのだし。ちなみに胸式呼吸はできる? その時に肩が上がったり、肋骨や背中に違和感はない?」
言われるがまま実行に移す。腹式呼吸にならないよう、お腹を凹ませて。
肩は上がってはいない。いないんだけど……
「なんか背中がくっついているというか……窮屈な感じはありますね」
「だとすると。胸郭の柔軟性低下による浅い呼吸も考えられるわね。それが主要因とは限らないけど、気をつけるに越したことはないわ」
「わ、わかりました。なるべく目の高さに合わせて使うことを心がけます」
薬物療法や行動療法、認知療法は主な治療法ではあるけど、ストレス以外の根本原因に注目したこの説は初めて聞いた。
ここまで真剣に考えてくれる人がいるって、幸せなことだな。
「忍ちゃんは初めてだっけ」
「ええ……この歳でですが」
「普段アダルトゲームで生娘食いまくってる人が何を言っているの」
「二次元の常識は三次元の非常識ですよ」
「お手つきがなかったなんて信じられない。わたしが初めての人になれるだなんて、なお嬉しいわね」
初めて。具体的な言葉を口にされたことで、一気に頬に熱が走る。
そっか、そっかあ。するのか、とうとう。
恋人同士だし、いい歳した大人だし。セクも一致してるし。そりゃあ、我慢する理由なんてない。
しかし緊張するな。
やっぱ痛いよね、指でも。何回かに分けて開発していく必要もあるっぽいし。
「怖い?」
頬に手が添えられて、怖いくらい整った顔が見据えてくる。
「……包み隠さず言えば、そうなります」
こんなときまで、年下にリードされるのか。経験値の差は埋められないとはいえ、情けなくなってくる。
「そう思って当たり前よ。最初から感じて当然じゃないんだから」
だから、いきなり最後まではしないわ。安心させるようにささやかれて、軽くリップ音が鳴った。
「挿れるのは、こっちだけね」
言い終わらないうちに唇が重ねられる。もう待てないと言うように。
そのまま私の身体はソファーへと倒れ込んで、人の体温に抑え込まれた。
寝巻きという薄い布地だからこそわかってしまう。毬子さんの熱さを。感触を。
「っ……」
肉厚のぽってりとした感触が、優しく私の口唇を捕らえていく。
甘噛みみたいなものなのか。あむあむと唇が動いて、あますとこなくこちらの緊張と抵抗をほどいていく。
うっすらとひらいた、切れ長の瞳は爛々と輝いていた。まずは下準備からと、獲物をじらすように。
挟んで、すり合わせて。ときおり吸って。
たっぷり時間をかけた接吻は、私の理性をぐずぐずに溶かしていく。
下品な話ではあるけど、恋人から激しく求められているということに止まらない興奮を覚えていた。
怖い。さっきとはべつの意味で怖い。自分が自分じゃなくなりそうで。
なんでキスこんなに上手いのこの人。
「んん……」
舌が口内へ潜り込んでくると同時に。首から下に涼しさを覚える。パジャマのボタンが外されていったのだ。
そのまま薄い肌着越しに、胸元に人の手のひらが滑り込んできた。
「っく、」
収まっていた。すっぽりと。
予想していなかった刺激に、口を塞がれているというのに大きい声が出てしまう。
もともとそんなに大きいわけでもないから、揉まれるというよりは包み込まれるように手のひらへと捕らえられてしまった。
そっすよね。最後までしないとはいえ、ここまではしたっておかしくないですよね。
「ん、く……は、……っ」
深く潜り込んだ舌の熱さと柔らかさに翻弄されて、苦しさよりも混乱のほうが上回った。
淫らな水音が耳の奥で響くたびに、頭の中にぷちぷちと何かが引きちぎられていく。
溺れるどころか、深く沈めて帰さない気だ。
「んんう……」
なに。なんだ。なんなのこれ。
まともな思考回路なんて吹っ飛びお人形と化した私は、優しく容赦のない責めを受け止め続ける。
経験した友人からは、期待するほど気持ちよかねえよと報告を受けた。
アダルトな漫画とか映像とか、あれ全部クスリキメてるか演技だかんなと。
そんなの、上手い人を知らないだけだぜと言ってやりたい。
だって現に私は、キスの段階で意識が薄れかけているのだから。
「じゃあ、今日はここまでね」
「はい……」
呂律すらもうまく回らない。
気づけば涼しい顔をした毬子さんから、慣れた手付きで頭を撫でられていた。
……え、本番ってこれよりすごいの?
この先待つ未知なる感覚に、怖さと期待からぶるっと肩が震えた。