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私は普通の恋人になれない  作者: 中の人
副業編

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諦めるものか

 静かな車内には、黙ってハンドルを切る本庄さんと横ですすり泣く私といった、なんとも言えない空気が流れている。


 どれだけハンカチで目元を抑えていても、乾くことなくまなじりには熱い涙が満ちていく。


 この抑えきれない感情の正体はどこから来ているんだろう。

 軽率な発言をした自分への怒り? 言われっぱなしだった悔しさ? 厳しい言葉に傷ついている?

 いずれにも当てはまっているのに、しっくり行く答えが見つからない。


「あの社長、言い方がきついのよねえ。なにくそって奮い立たせるプラスにも働いたから、言われているうちが華なのだけど。わたしも去年、ぼろくそ言われて車でこっそり泣いたわ。内容も全部正論だからぐうの音も出なくてね」


 怒られているのはみんな一緒よ、といったニュアンスをこめて。

 赤信号で停まったタイミングで、そっと背中に手が置かれる。


 違うんです。失敗しても次があるとかそういった次元ではないのです。

 きっと誰がどう擁護しても、社長の決定は覆らないだろう。



「私、もうここには居られないかもしれません」

「…………え?」


 もしかしたら、社員登用の打診に話が動いてくれるかもしれない。

 面談前はそんな甘い期待を抱いていた。現実は非情である。それ以前の問題であった。


 口頭でつまびらかに説明しても、感情が高ぶっている間は私の主観が色濃く反映されて意見が偏ってしまう危険性がある。


「この後、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「ふふ、急いでいたらこんな時間まであなたを出待ちしていないわ」


 それもそうか。

 もう残された時間は少ないはずなのに、これじゃあますます未練が残ってしまう。


「詳細はこれでお聞かせいたします。お貸しいただき、まことにありがとうございました」


 胸ポケットから、刺さったままだったひとつのペンを寄り出す。ボイスレコーダーにもなるすぐれものだ。

 これがあったからこそ、私は人前で発作を起こしかけても乗り切れた。


 もちろん、録音してるからってなんでもパワハラだとかこつけて揺さぶる気はさらさらない。

 全部正論だからぐうの音も出ない。さっき本庄さんが言ったとおりだ。

 ただ、他者の冷静な視点から基づく意見が聞きたかった。


「ええ、分かったわ。拝聴いたします」


 自宅に着いて、ひとまず熱いお茶を淹れて。一息ついたタイミングで、私は再生ボタンを押した。


 もう二度とは聴きたくない、容赦のない鋭利な指摘の数々。

 枯れたはずの涙腺に負の感情という名の水源が宿り、またあふれてきそうになる。


 震える私の手の甲に、そっと本庄さんの手が重ねられる。

 嗚咽を噛み殺して、必死に言葉ひとつひとつを糧にするため呑み込んでいく。


 社長だって好きで嫌われ役を演じてるのではない。未熟な一面は早い段階で是正しなければ、成長が見込めないからだ。



「……なるほど、ね」

 すべての会話が終わって、本庄さんが複雑な面持ちで腕を組む。


「誰にでもヒューマンエラーはあるとはいえ。狭山さんから社長に苦言がいくほど、書面でのミスが目立っている。その情報を予め知っている段階で、仕事が少なくて暇だからもっと回して欲しいと思い上がった発言をした。これが社長の逆鱗に触れたわけね」


 痛いところをついた総括に、苦々しく頭を下げる。

 こうしてまとめられると、そりゃ、無能な働き者がってキレられても仕方ないよな。


「だから、まず上里がすべきは徹底した書類の見直し。信頼の回復のためにも、そこをクリアしていかないと次へのステップは進めない」

「はい。肝に銘じます」


 でも、と本庄さんは眉をひそめると、意外な箇所へメスを入れた。


「いくら口がきつい人でも、ここまで棘のある発言はどうかと思うの。少なくとも部下の成長を願って伝えるのであれば、改善に向かう道標を提示するはず。それが育てるってことだもの」


 例えば、漫画ばかり描いていて日常の業務をまともにこなせていなかった金子さんの場合。

 社長は1円にもならないweb漫画にかまけてと否定することはせず、むしろ長所であると肯定。その道を活かせる業務を一緒に考えたという。

 その結果が、今のSNS求人の成功だ。


「こんなに突き放すような言い方は、よっぽど相手に悪印象を抱いてないとできない」

「悪印象、ですか」


「ひとつ疑問なのは、もともと社長は県外にいるわけだし、気軽に視察に行ける距離でもない。ここの社員の素行は誰かから聞くしか判断できないの。それは本来、工場長の役目だけど。あの人はちょっと甘いところもあるから、上里を嫌いに仕向けるまでの言い方はできないと思うのよね」


 じゃあ、他の誰かが伝えたってこと?

 だが、人は1で10を判断してしまう生き物だ。


 些細な一面が、その人にとっては許しがたい一面だとしたら。いくらいいところはあると誰かがフォローしても、刷り込まれたイメージはなかなか払拭できない。

 人の感情までは、どうこう意見はできないのだ。


「さて、上里。あなたはどうしたい?」


 しがみつくか、諦めて次の職場を探すか。その意向を聞いてからではないと、この先の話はできない。


 シビアな視点で考えれば、私は辞めるべきなのだと思う。

 どう希望的観測で分析しても、あの会社の未来はさほど明るくない。

 定年間近の社員が数名ひしめいていて、新人は一向に来ないから。数年後はお察しだ。


 普段から仕事が少ない職場に甘んじていては、当然キャリアアップやスキルアップは望めない。


 20代も半ばであることを考えると、事務員にこだわらず別業種の食いっぱぐれしない仕事に飛び込むのが無難である。

 30になれば未経験での採用はぐっと厳しくなるのだから。


 それに、お金でつながっている関係は不純極まりない。

 これを機に一種の気の迷いだったと切り捨てて、依存せず普通に生きるべきなのだ。

 私がいなくても、本庄さんにはいくらでも代わりとなる女性がいるのだから。


 そう、理屈では結論が出ているはずなのに。

 はず、なのに。



「このままでは、嫌です」



 決意の声はきっぱりと、迷いを断ち切り本音を吐き出した。


「社長には何を言っても響かないことは分かっております。ですが、ここで終わりたくはありません。諦めを受け入れるだけの努力をまだ、積んでないからです」


 にじんだ視界をしばたいて、邪魔な雫を振り払う。

 胸の痛みがどんどん強くなっていく。つぶれそうなほどに、締め付けられていく。

 はやる鼓動を刻む胸に拳を落として、奥歯を砕けそうなほど噛みしめた。


 やっと分かった、抑えきれない感情の正体を。

 私は、認めたくないのだ。

 決まっているであろう処遇を、受け入れたくないのだ。


 だって、私は。


「何よりも、本庄さんと……離れたくありません」


 突き動かす、ただひとつの想いを口にする。


「重いのは分かっております。それでも……嘘はつけません。あなたのいない休日がもう、考えられないのです」


 こんなものは、一方的な好意の押し付けにすぎない。

 極端な話、遊びであっても構わないと思っていた。

 週末に彼女と過ごせればそれで良かった。


 あるいは、突っぱねられる覚悟もできていた。

 そんな深い関係は求めていないときっぱり拒絶されれば、会社を未練なく離れることができるから。


「それは、本気で言っているの?」


 だけど、本庄さんは。

 真正面から、ぶつけてくれた。

 自分を理由に、他に逃げないように。


「今の仕事以上に毬子さんを、諦めたくありません」


 誰かを下の名前で呼ぶのは、いったい何年ぶりだろう。

 許可なく言ってしまったけど、いずれはそういった関係になりたかった。その想いから先走った気持ちが声となる。


「忍ちゃん」

 返事は、抱擁とかすれた声だった。


「本気にしちゃうから、止められないわよ」

「構いません」


 わたしも、離れたくない。

 つぶやいて、指を絡めて。さらに近づきたくなって、私たちはもっと深い場所まで距離を詰める。


 重なった唇は、震えていた。

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