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私は普通の恋人になれない  作者: 中の人
副業編
33/72

握れない主導権

 どうしてこうなったんだっけ。


 いつものおデートから私がゴネて時間延長、つまりお泊りプランになって。

 本庄さんのお絵描きへの情熱が燃え上がったのはいいことなんだけど、情欲の火もたぎってしまったらしく。いや焚き付けたのは私だけど。


 会社の先輩、今は雇い主の両手をネクタイで拘束してソファーに押し倒しているわけです。ご飯よりもお風呂よりも前に私を補給したいからと。


 こんなん、外部に漏れたら社会的に抹殺されるわ。



「ネコやるのってすごい久しぶり」

 動きを封じられているにもかかわらず、本庄さんは呑気に私を見上げている。足をぷらぷらと揺らしながら。


 経験豊富なことをうかがわせる、余裕に満ちた女の顔。

 経験値がほぼ0の私はきっと、キョドり面をさらしているのだろう。


「あらかじめ言っておきますが」

 私、ど素人なので。満足させられる自信はありません。

 なので次なる指示を仰ぎたいと、それとなく促す。


「上里、したことないの?」

「ソフトSMプレイはさすがに」

「プレイ、は?」


 たっぷりと含みを持たせて復唱される。

 そこ追求しなくてもいいじゃんかよ。浮気の疑いをかけた妻が探りを入れているような心境だ。


 違いは激おこ着火寸前の問い詰め彼女とは違って、にまにまと目を輝かせているかだ。


「……あの、本当です。恥ずかしながらヴァージンなんです」

 女の子相手でもタチしかやらされなかったから、触られる側の経験がない感じか。


「みんな見る目ないわねぇ」

 子供っぽく頬を膨らませると、いきなり抱いてだなんて無茶振りするわけないじゃないと本庄さんはまだ健全寄りらしいプランを告げた。


 相手の動きを物理的に封じ込めている時点で、じゅうぶん不健全だとは思うんだけどな。


「美少女ゲームとかであるじゃない。初めてなりに精一杯頑張るってシチュエーション」

「ああ……ロリ枠に多いですね。健気さをそそられるってことで」


 非抜きゲーでも実用性は求められてきているから、おい本当に初めてかよってくらいのお乱れっぷりを披露する傾向が強まってきているけどね。


「あれと同じよ。わたしは上里のかわいい姿をもっと見せてほしいだけ」

「…………」


 返そうとしていた言葉が喉から霧散していく。代わりにじわーっと熱となって頬に燃え広がっていった。


 どっちがリードする側でされる側かわかんねえなこれ。


 かわいい、か。

 人によっては期待されてないのかって自信をくじかれる言葉になりそうだけど、私にとっては緊張をほどくおまじないとなって響いた。かっこつけなくていいんだよって。



「そっとね。女の扱いは慎重に」

 指示に従い、膝立ちの体勢で本庄さんに覆いかぶさった。

 ゆっくりと背中に手を回す。


 あったかい、から熱いと体が認識するまでそんなに時間はかからなかった。

 ハグなんて誰かにするの、いったい何年ぶりだろう。

 すげー美人に抱きついて、むせ返るほどの典雅な甘い香りを胸いっぱいに取り込んで。


 こんなことを許せるくらい感覚が参ってきたのかなという己のちょろさと、独占しているんだという優越感に脳みそがぐるぐる煮えていく。


 私がリードしているはずなのに、本庄さんに見えない糸で手繰り寄せられているようで。

 自分の耳にも届くくらい、鼓動を刻む音に力強さが増してくる。


「上里、意外と着痩せする子なの?」

 胸のそばからくぐもった声がした。上になっているということは、位置的に胸元に顔をうずめているということ。


 本庄さんは手が使えないかわりに、ふふんと鼻息をもらして頭を擦り付けてきた。


「む、わたしよりあるな」

「……あの、それセクハラです」


 もとから売春みたいなことをやってるくせに何言うかって話だが。

 こうしてはっきり身体について言及されたのは初めてで、露骨に性を意識してしまう。


 てか私もそこまで胸あるほうじゃないんだけど。これより小さいって、その。うん。


 確かに今思い返せば、密着したときとかあるはずのものがなかったなー、と考えなくていいことを考えてしまう。


「それにしても速いわね。耳元で祭り囃子鳴ってるみたい」

「……誰だって本庄さんみたいな綺麗な人にハグしたらこうなりますよ」

「ありがと。もっと聞かせてほしいなー」


 綺麗と口説かれてもなんら取り乱すこともなく、腕の中で本庄さんの小さい顔が甘える子猫みたいにすりすりとこすりつけられる。ネコだしな今。


 そいや猫が飼い主に自分の匂いをつけるのは『自分のものだ』ってマーキングするためなんだっけ?

 ……まさか意識してやってる? そう考えると、ますます頬に熱が増していく。


 たっぷり互いの香りと体温を溶け合って、そろそろ次の段階に行きたいわと本庄さんから要望を受けた。


「追加料金は上乗せするわ」


 鞄が置いてあるリビングの隅へと、本庄さんは首を向ける。手が使えないので。


 べつにそこまでしなくてもいいんだけど、ちょっと最近模様替えにお金使っていたからありがたい。

 ってナチュラルにヒモ思考だったよ今。自力でもっと稼げる女にならんとですね、私も。


「わたし、今すごくぜいたくな時間を過ごしてる」

 口づけを命じられて、本庄さんの両頬をそっと挟むと。

 頬紅を施したみたいにわずかに赤みが差した。口元がくしゃっとゆるんで、独り言のような声をかけられる。


「こんな顔のいい子にキスしてって命じられるなんて。人生捨てたもんじゃないわね」

「それは、どうも……」


 面と向かって容姿のお世辞を述べられたことに照れが入ってしまい、しどろもどろに目線をずらしてしまう。

 私もこれくらい、すらすらと口説き文句がひねった蛇口みたいに出て来ないかねえ。


 前回ディープキスみたいなものをされたときに驚いて中断してしまったから、今日は最後までしてあげたい。


 恋人でもない人とするって今さらおかしいとか、まっとうな倫理観は吹っ飛んでいた。


 ただ、今度はしくじってがっかりされたくない。そんな執着心みたいなものから、キスへのためらいは抜けていく。


 最初は重ねるだけでいいわとアドバイスを受けて、そのまま私は距離を詰めた。



「ん…………」


 受け止めてくれた口唇はどこまでも柔らかくて、弾力があって。ときおり漏れる吐息が熱い。


 本当に、これだけでいいのかなと。ただ唇をくっつけあっているうちに。

 ふと、遠い昔に放たれた声が脳へ反響していった。



『……え、もしかして経験ないんですか。先輩』

 苦い記憶からこぼれ落ちる、重い感情が臓腑へ滴り落ちていく。


 あれは初めて付き合った女の子とキスした日のことか。

 それまで演劇の舞台では、リードする男役としてキスシーンがあることも珍しくなかった。

 なので役者感覚でいけるとか思っていたのだ。直前までは。


『いきなり無言にならないでください。真顔もやめてください。それでキスの流れとか、察せるわけないじゃないですか。ちゃんと目を見てからにしてくださいよ』


 い、痛い。痛いぜ。ぐさぐさ来る。

 口づけ中に昔の女の記憶がフラッシュバックするなんて失礼にもほどがあるけど、それは心に深く根ざしていた”失望への恐怖”だった。


 久しく忘れていた黒歴史が、なんでよりにもよって今よみがえってくるかなあ。


「……っ、ん」

 唇へと湿った何かが行き交う感触を覚えて、私の意識は現実に引き戻される。


 つややかな唇から、赤く艶めかしい舌がのぞくのが見えた。舌先が伸ばされて、もう一度私の口唇を舐め上げる。


「そらさないで。わたしだけを今は見ていてよ」

 鼻先を触れ合ったままささやかれて、突き出された唇からちゅっと音が立つ。

 ひらいて、と命令を受けるがまま、私は微かに引き結んでいた口唇をほどいた。


「ん……っく、」

 つぶっていたまぶたを開ける。造り物と疑うくらい整った顔が目の前にあって、うっすらと細められた眼光が私を射抜く。

 心臓がどくんと脈打つのを感じた。


 同時に、舌先がゆっくりと唇をこじ開けていく。それでもわずかに侵入しただけで、それより奥を侵そうとはしてこない。


 唇の裏側をゆっくり行き交って、離れて、また這い回る感触を覚える。餌を絡め取る蛇のように。


 もどかしい。

 っていうかペース乱されまくりというかあっちの思うままで、まるで手綱を握れやしない。きっとその状況を愉しむ目的であえて”させている”んだろうけど。


「かわいい」


 首が傾き、唇からずれて頬へと接吻を受ける。

 小さく放たれた睦言が理性を蝕んで、硬直していた私の両手をある衝動へと導いていった。


 そうだ。深く突き刺さったトラウマの刃なんて熔解してしまえばいい。今の私だけを見てくれている人の熱に当てられて。

 何もかも、上書きしてしまえ。


「……えっ?」


 ネクタイの結び目に指を掛ける。

 そのまま素早く、私は拘束を解いていった。

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