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私は普通の恋人になれない  作者: 中の人
副業編
13/72

デートは準備期間がある

 本庄さんと”副業”の契約を結んだ次の日。

 私はいつも通り出社した。まだ自転車が直ってないので徒歩で。


 ただし今日は、時間がわりとぎりぎり。

 うちは8時半から朝礼ミーティングが始まるからそれまでに出勤認証と着替えを済ませなきゃいけないんだけど、時計の針はもう8時20分を回っている。

 いつもよりも10分も遅い。


 どうしてこんな遅刻ギリギリの出勤をしたのか。寝坊ではない。

 単純に、本庄さんに顔を合わせづらかったのだ。

 1週間後に会う予定があるというのに。


 なんでって。

 趣味が合って友人になりかけて、持病を知られて、介抱していただいて、流れでお金が絡む関係を結んで、好意を受けて、キスされたんだぞ。


 振り返れば情報量が多すぎる。

 それが同じ会社の人とくれば、平静でいられる人などどんだけいるんだ。


 昨日が金曜日ならよかった。あれから半日も経過していないなんて。


 手袋を外した指で、唇をすっとなぞる。

 なんかまだ、本庄さんの感触が残っているみたいに錯覚してしまう。

 ……人工呼吸とはいえ。人生であんなに長く口づけを交わしたことなんてないから。

 献身的な処置に浮かれそうになるとか、マジどうかしているな。



「…………」

 さすがに10分前を切った段階なら全員外で待ってるだろう。

 私は無言で会議室に続くドアを開けて、タイムカードを押そうとした。


「おはようございます」


 え。


 てっきり誰もいないと思っていた空間には、今いちばん顔を合わせづらい人が当たり前のように座って本を読んでいた。


 思わず私の感覚がバグってないか、時刻を確認してしまう。

 8時24分に差し掛かろうとしていた。


「昨日はお疲れさまでした。よく眠れましたか?」

 まるで昨日のあれやこれなど綺麗さっぱり忘れているかのように、いつもの柔らかい笑みを浮かべて本庄さんは話しかけてくる。


「え……っと、」

 なんであなたはそんなに堂々としていられるんですか。

 いや本業と副業の顔は分けましょうってスタイルなのかもしれないけど。


「おかげであの後は快眠できました。心配をおかけして申し訳ございません」

「いえいえ。それでは時間が押しておりますので、わたしはお先に向かいますね」


 本庄さんは立ち上がると、広げていた本と筆記用具を片付け始めた。

 さりげなく昨日の一件を匂わせる一言を添えてみたけど、華麗にスルー。


 どうしたんだ。今日に限って。こんな遅くまでここに座ってることなんてなかったのに。

 まさか私に挨拶するためだけに、居残っていたわけじゃないだろうし。


 あ、そうだった。挨拶……


「本庄さんっ」

 急いでカードを打つと、階段を降りかけている本庄さんの背中に声をかける。


 歩みは踊り場で止まって、私へと振り返った。

 朝日を透かしたライトブラウンの髪がきらめいて、後光が差しているように見える。


「いかがなさいましたか?」

「い、いえ。さっき言い忘れていて失礼に当たりましたので。おはようございます」


 挨拶は社会人の基本。とは言っても急いでいる人を呼び止めてまで言うことなのか。

 意識しているのがばればれだ。


「ふふ、律儀にありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げて、でも本当に急いだほうがいいですよと本庄さんは付け加えた。

 

 確かに。コート脱ぐだけだからすぐだけどもう行かないとやばいな。

 会釈をして踵を返す。


 更衣室に向かう私の背中へと、捨て台詞ならぬ置き台詞がかけられた。


「もしかしたら今日、来ないかもって心配で。無事にお顔を拝見できて安心しました」


 独り言のように軽い調子でつぶやかれる。ぽんと打ち上がった風船みたいに、聞き取るのもやっとの声。


 弾かれたように背中を向けた。

 階段にはもう、本庄さんの姿は消えていた。


 結局、本庄さんとはこれっきりで今日の会話は終わってしまった。



 開放感あふれる金曜日の帰り道。

 いつもはそのまままっすぐ帰宅するところを、ちょっと寄り道して。


 駅からちょっと歩いたとこにある、大型スーパーへと向かっていく。

 週末の夜だからか、店内は家族連れや主婦層が多い。


 1月もそろそろ終わるため、節分とバレンタインで仕切られたコーナーを突っ切って。箱詰めされたお土産用のショーウィンドウの前で私は足を止める。


 家に招くわけだし。

 お茶菓子くらい、いいもの用意しておかないとな。


 本庄さん、なに食べるんだろう。クッキー? マドレーヌ? お饅頭?

 こんなときこそLINEで聞けばいいんだろうけど、私の懐事情を気遣ってお茶だけでいいとか言いそうだ。


 あ、お茶ということは来客用の湯呑みも買ったほうがいいか……

 うちにも食器棚の奥にあるけど古いし、色あせているし。長らく使ってないと、洗っても匂いですぐ分かっちゃうんだよね。


 お茶っ葉もなあ。わざわざ熱い緑茶を淹れることはとんと減ったし、戸棚にしまいっぱなしだから劣化してるかも。新しく買っておくか。


 買い物かごに思いつくままどさどさと。食料の買い出しよりもデートにまつわるあれやこれを、私は手に取っていく。


 そういえば人んちに最後に行ったのはいつだったか。小学生以来か?

 あの頃は友達と遊ぶだけでとくに気にしていなかったけど、今の子は簡単に家に上げることはしなさそうだ。経済格差が顕著になってしまったから。


 お金持ちの子の家はいつもお母さんがいて、グランドピアノがあるお家もあって。

 高そうなグラスにジュースにケーキまで出てきたりなんかした。でっかい門からして、住む世界が違っていた。


 一回行ったきりの子は……古くて暗くてごちゃごちゃしてたっけ。

 真冬なのに暖房ついてなくて、変な臭いが立ち込めていた。つま先立ちで歩いていたことはやたら覚えている。


 じゃあ、うちはどうだろう。


 築50年は経過している。カーペットも畳もテーブルクロスも、何から何まで年期が経っている。


 というか古い。全体的に古い。親が亡くなってから使わなくなったものもいっぱい。いらないものであふれている。

 私の嗅覚が麻痺しているだけで、飼ってたペットの獣臭もこもっているかもしれない。


 ……ちょっと待て。こんな粗末な場所に本庄さんをご招待するのか。

 物を揃えることしか見えてなくて、私は肝心なことを忘れていた。



 よし。土日はデートスポットの大掃除だ。

 その手の処分法は親に任せっきりだったことを今さら後悔しつつ、私は決意を新たにした。

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