第17話 アリスの中間テスト大作戦③
「夏はシーショア海流性気候と呼ばれる、南からの風が強く吹く。
その風がスワール領との境界の山でスワールから来た海風に覆いかぶせられて、吹き返しの強い風をもたらす。
……ん、も――っ! 分かんないよーっ!」
ビリーがテスト用に手渡した『アレマ気象学』の本を広げたまま、アリスはその上に突っ伏した。
突っ伏すと、アリスには絶対にそんなことはないと分かっていても、紙の触り心地がわたあめのようにフワフワしてくる。
気が付くと、アリスは大事な図表の上によだれを垂らしていた。
「わたあめみたいな雲とか、ペロペロキャンディのような雲とか、そういうのだったら覚えられるのに……」
アリスは、勉強中も食べ物のことから離れられない。
気を取り直して本から身を起こすと、今度は掲載されている写真に食べ物がないか探し始めた。
無駄な時間ではあるが。
「雨が降るんだったら、飴が降ってきてほしい……。
きっと、子供向けの図鑑だったら、雨も飴も同じ『あめ』って書かれるんだろうなぁ……」
アリスは独り言を呟きながら、いつの間にか机の上にあったペンを持ち上げ、真っ青な夏空の画像の中にペロペロキャンディを描き始めてしまった。
渦巻までペンを動かしたところで「あっ!」と手を止めた。
ただ、アリスの口から出てきた言葉は「やっちゃった」ではなかった。
「これ、いいかも知れない!
本の上に落書きをして、いろんな写真に食べ物が映っているように見せよう!」
そのままアリスは、先ほど見てきたシーショア海流性気候の図解にある「暖かい空気」の「空気」に二重線を引いて、上から「牛丼」と書いた。
そして、その上には、「オメガピース」の食堂で何百杯も食べてきた牛丼の器を、思い出せる限り描いた。
そこに、ドアをノックする音が聞こえた。
「やばっ……!」
アリスは、背筋が凍った。
テストはこの本から出す、イコール、ビリーもこの本を見ることになる、という単純なことにすら、アリスは食べ物に目がくらんで気付かなかったのだ。
ドアが開いた。
「僕が見てない時間、勉強なんかしてないよね。どうせアリスのことだから」
「ギクッ……」
アリスは、入ってきたビリーに振り返ると同時に、『アレマ気象学』の本を、見ていたページで裏返しにした。
苦笑いとも薄笑いともつかないような微妙な表情で、アリスはビリーを出迎えるほかなかった。
「ちゃっ……、ちゃんと勉強してましたから……!」
「なーに恥ずかしそうに言ってるんだか。
領主なんだから、自分のやってることにもうちょっと自信を持とうよ」
「今は領主というか、ただの生徒でぇす。
かわいい15歳の女の子でぇす。ね、ビリーせ・ん・せ、分かってください」
「ビリー先生って言うんじゃねぇ! このブサイクキモ領主!」
ついに顔のことを言われてしまったアリスは、ビリーの目を指差し、苦笑いを浮かべた。
「あーっ! ビリーが私を侮辱したー!
私、ブサイクって言われること、すっごくコンプレックス持ってるんですっ!」
「ごめんごめん。さすがに、ブサイクキモ領主は言い過ぎたよ。
でも、アリスがこんな全力で否定することなんて滅多にないから、僕だってついカッとなっちゃった」
ビリーは、やってしまったとばかりに頭を撫でる。
だが、アリスは座っていた椅子から立ち上がろうとしたとき、腕が見ていた本に引っ掛かり、本がそのまま床に落ちた。
運悪く、ビリーの前に本が見開きで落ちたのだった。
アリスの表情が、本当に凍り付いた。
「終わった……」
ビリーは、開いていたページを手に取るまでもなく、上から見つめた段階でため息をついた。
明らかに直前まで人の顔で押し潰されていたであろう、簡単に他のページには行かない見開き。
青空の中に渦巻きと棒。牛丼のイラスト。
ビリーが、それを目の錯覚だと最後の望みを託して手に取って、それが真実と分かった瞬間に、本を力なく床に落とした。
「あははは……、あははははは……、あっはっはっはっはっ……。
何やってんだか、ここの領主はさぁ……」
「ごめんなさい……。
罰として、本で私の頭をぶっちゃっていいですよ……?」
ビリーは、アリスに言われるがまま、一度落とした本を手に取ったものの、それを優しく机の上に戻した。
「ぶつのは簡単だよ。
でも、そんなことしたら、僕までこの本を苦しませることになるじゃん……。
この本を書いた人の気持ち、分かる?」
「分かりません。
人の気持ちが完全に分かったら、人生つまんなくなります」
「それは間違いじゃないけどさ……。
でも、これだけは間違いないと思うよ。
アレマ領で起きていることを、アリスは何でも食べ物にしようとしてるんだからね」
ビリーはため息をついて、ドアに向かって歩き始めた。
「分かってると思うけど、テストはその本から出すからね。
テストは1週間後。本は持ち込み自由にするから、書いてあることも分からなくなるような落書き、ご自由にどうぞ」
「ご自由に……、どうぞ……?」
バタン、という音がアリスの耳の中で途切れると、アリスは息を飲み込んだ。
「あ、待てよ……?」
アリスは、ペロペロキャンディや牛丼のイラストが描かれた『アレマ気象学』の本を再び広げて、確信をもってうなずいた。
「ビリーは今、この本からテストを出すとか言ってた……。
でも、テストの問題はこの本を見ないと作れない……。
だから、逆に全てをメチャクチャにしてしまえば、テストもメチャクチャにしか出せなくなる……。
ついでに、持ち込み自由だもん……。ぐへへへへ……」
アリスの中で、ビリーの言ったこと全てが短絡的につながり、思わずよだれが出てきた。
ビリーが前言撤回でもしない限り、アリスがメチャクチャにした本が出題範囲になる。
「こうなったら、ぜーんぶ落書きだぁーっ!」
『アレマ気象学』の本を形作る紙も、文章も図解も写真も、領主の執務用に使っているはずのペンでぐちゃぐちゃにされようが、何も言うことはなかった。
仮に、「ペンの先が痛いよ!」とか「紙が黒くなっちゃうよ!」とか叫んでも、アリスの耳には届かない。
アリスのしていること。それは本にとって、そして『アレマ気象学』に関わった全ての人間や自然現象にとって、その全てを無力化する行為だった。
そんな粗悪な魔術は、この世の為政者でアリスしか使わない。
「さーて、『夏のアレマ領の天気』の24ページ、全部で100コ以上も食べ物のイラストが出てくるものにしちゃいましたーっ!
あとは、他の季節から出題されないように、残りのページも全部食べ物のイラストで埋めてしまいましょう!」
気が付けば、アリスは食べ物のイラストに囲まれながら徹夜していた。
時計を見る。6時前だ。ビリーが起こしに来るまで、あと1時間ほどしかなかった。
「机に突っ伏すほうが、徹夜で勉強してました感が出ていいかも……。
朝、私が机で寝落ちしていたら、ちゃんと勉強してたんだ、とビリーも心を変えてくれるかもしれない」
アリスは、自分で自分に「おやすみなさい」と告げ、机の上に倒れ込んだ。
だが、アリスが寝ている間に変わったのは、ビリーの心ではなかった。
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「あ……?」
アリスが再び目覚めると、時計の針は11時を指しており、窓からアリスの頭の上に光が差し込んでいた。
机の上から勢いをつけて起き、キョロキョロしてもビリーはいなかった。
机の上には、『アレマ気象学』の本が1冊置かれていた。
だが、その本は、アリスの記憶の中にないものだった。
「あれ……?
私、表紙にケーキのイラストを描いてたはず……」
アリスの中に突如として緊張感が走る。
その手は、無意識のうちに夏の気候のページを開けていた。
最初の頃に落書きをしたはずの、シーショア海流性気候の図解がきれいだった。
他のページも見た。
アリスの落書きは、何一つなかった。
「えっ……、何これ……? 私の落書きは……?
いったい何が起きてるの……? ねぇ!
私、もしかして夢の中で食べ物のイラストを描いてただけ?」
その時、執務室のドアが開いた。
ビリーの手には、ケーキのイラストが大きく描かれた『アレマ気象学』の本があった。
「アリスが探してるのは、これだよね?
寝てる間に、新品と取り換えたから、これでちゃんと勉強できるね」
「なにそれ……。
完全にドッキリか何かですよぉ~」
アリスは体じゅうから力が抜けていくような感触を覚えた。
テスト勉強にズルはいけません!
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