残る傲慢
アンナが無事なのを確認すると睡魔が襲ってきた、体感では丸一日経っている。ここまで歩き通した肉体的疲労感と、ハデスでの苦戦による精神的負荷により、睡魔に抗う事は出来なかった。眠気に負けまぶたが下がっていく中で、アンナが何か言っている。たぶん一部屋しか借りなかった事に関して言っているであろう事は辛うじて伝わってくるが、どうでもいい眠らせてくれ。
鈴木がビクンと自分の寝相で目が覚めた。ヨダレが枕にベタベタで洗濯するしかないくらい選択肢が無い。そんな韻を踏みつけ、朝からラッパー気取りの若年おっさんの髪はロックなボンバーヘッドになっていた。鏡の前で両腕を組んでポーズを決めているとスマホのアラームが鳴って鈴木は正気に戻った。
「俺は何をしているんだ」
枕のカバーと溜まっていた洗濯物をドラム洗濯機に入れ洗濯、乾燥まで設定すると歯を磨き、髪を整えて身支度を済ませた。
「よっしゃ!今日もいっちょ、やったりますか」
鈴木の虚しく響く独り言だが、昨日までと違い悲壮感が出ていた。泣きに泣き、後悔し謝罪した。心に空いた穴は風通しも良く、そよ風が吹くだけで激痛が走るが、その痛みを涙を流す事で和らげた。自業自得、我儘、無責任。それを自覚した鈴木はエリートであろうと大人として初めてスタートラインの前に立てたのかもしれない。ピシャリと頬を叩くとスーツをビシっと着こなし愛車に乗って病院へ向かった。
「鈴木先生おはようございます」
「佐藤さん、おはようございます」
勤続15年のベテラン看護師の佐藤は驚いた。あの鈴木から挨拶が返ってくるとは。研修医時代から跡取りというだけでマウントをとり、真顔で無視して挨拶を返してこなかった、あの鈴木太助の野郎が爽やかで気持ちの良い挨拶を返してきやがったのだから。佐藤は鈴木のギャップに少しキュンとしてしまった、ベテラン佐藤はいわゆるチョロいというやつかもしれない。今回はそこは深掘りせず話を進める事にする。これまで鈴木は自分より目上だと思っている人物以外、自分から挨拶は絶対にしなかった、がここにきて軟化の姿勢を見せる。
「おはようございます!」
同じ職場で働くスタッフに敬意を払うようになった。鈴木の診療はかなり評判が悪かった。態度が横柄だからだ、しかし患者に対する姿勢も優しさの中に医者としての威厳を残した態度に見えるようになった為、評判はウナギのぼりとなった。患者達もチョロいというやつかもしれない。しかし仕事に没頭し続けられれば良いのだが、外科医がどれだけ忙しいかろうと終業はきてしまう。急な呼び出しに率先して病院に出るがそれでも家族を思い出さない様にするのは無理だった。突如襲いかかる虚無感にどんな料理を食べても味がしなかった。高級鉄板焼きでも三つ星レストランでも、あの寿司屋でさえ出来合い弁当と変わらなかった。
「唯美の作ったミートスパゲティや麻婆豆腐、クッキーに...」
鈴木は食べたい物を妄想しながら味を思い出していた。涙が溢れる、寂しさを紛らわせる為に色々試したが心が渇いて渇いて悲鳴を上げていた。鈴木は首を大きく振ると自宅から抜け出しランニングを始めた。運動は精神にもとても良い、陰鬱な気持ちになった時は筋トレや走り込むように心がけていた。夜の街を走っていると疾走感と爽快感を感じつつ綺麗な夜景が見えてくる、鈴木はその景観に心が癒されていた。運動に出て正解だと思った矢先、美しい景観にそぐわないものを見つけてしまう。ホームレスだ、彼等は不法に道を占拠し、この美しい景観を壊している。唯一の癒しである夜の静かな時間に訪れる不協和音。
「邪魔なんだよ、どこか違うところに行けよ」
鈴木はホームレスに聞こえないように小さく呟きながら走り去った。
家に着く頃には服が全身汗まみれでベタベタで肌寒く感じた。すぐにシャワーを浴びて風呂に浸かる、さっき夜のランニングを唯一の癒しと言ったが前言撤回する、運動後の風呂もサッパリして気持ちがいい。癒されるとリラックスしてきて段々眠くなってきた。
「まずい、風呂で寝ては駄目だ」
鈴木は自分に言い聞かせるが身体が言う事を聞いてくれない、血流が良くなり頭がほわっとしてくる。
「寝ちゃダメだよー」
自分の声が徐々に遠のいていく。これ寝ちゃうなと思って目を見開くと宿屋の天井が広がり、視線を右に移すと無防備な寝姿のアンナが就寝していた。




