呆然自失の夜
仕事もひと段落着きコーヒーを飲んでいると、高木が話しかけてきた。
「今日どおですか?」
「いいな、何を食べに行く」
「そりゃ今回はとびっきり上玉ですよ、あの有名なタナトスの誓いで、2番手の女優が来ます。セッティングに俺の人脈を最大限に活用したんですから、今回こそは高級ホテルのスイート取ってくださいね」
高木が鼻息荒く鈴木に詰め寄ると。
「今回はパス」
「えー鈴木先生、乗り悪いっすよ。今をときめく大女優が来るんですよ」
「何が大女優だよ。タナトスの誓いは3年前の作品だし、ゴールデンじゃないし。2番手ってなんだよ、せめて主演連れて来いよ」
「サゲサゲっすわ、鈴木先生は現実見て下さいよ。そんな人、知り合いにいる訳ないし、いたとしてもあんた如きじゃ来ねーっすよ」
高木が鈴木にキレて離れようとした時。
「ありがとうな高木、俺の為にセッティングしてくれたんだろ?最高級ホテルのスイート予約しとくから使ってくれ。今日はそういう気分じゃないんだ」
鈴木が謝罪すると、高木はにっこりと笑顔になり。
「鈴木先生行かないなら、今日は無しにしましょ。女いらないなら男同士で飲みに行きましょうか?」
「ああ、今日はそんな気分だ」
「なら良い店にして下さいよ。なんせ美女とのひと時を、無駄にしたんですから」
「ああ、お前が一生行けない所に連れてってやるよ」
「あざーすっ!」
高木は意気揚々と自分の持ち場に戻って行った。鈴木は自問する。あの夢のせいで気分が乗らないのか、いや違う何か大切な事を忘れている気がした。陽も暮れて高木と会員制の最高級寿司屋に連れて行った。
「鈴木先生!なんすかこれ?めちゃくちゃ旨いじゃないっすか!」
「わかった、わかったから口を閉じて食べろ、大将すみません。うるさいの連れて来てしまって」
「いえ。鈴木の坊ちゃんにはいつもご贔屓にして頂いていて、ありがとうございます」
寡黙な大将はいつも口をへの字にしているが、分かる人にだけ笑っているのが伝わる。
「ところで、鈴木の坊ちゃん。こんな所に居ていいんですか?」
大将の脈絡の無い質問に困惑していると。
「今日は奥さんの誕生日でしょ?」
大将の一言に鈴木は血の気が引いた。忘れていた妻の誕生日を。去年と一昨年は家族で祝ったのだが、鈴木は朝の唯美との会話を思い出した。
「今日は何時頃帰ってこられますか?」
「そんなもの患者に聞いてくれ」
鈴木は致命的なミスをした事に気付き慌てて会計を済ませると、大急ぎで自宅に帰った。自宅に着くと部屋の明かりは無く置き手紙がリビングの机に置いてあった。
今までお世話になりました。あなたとはこれ以上夫婦を続ける自信がありません、実家には戻りませんので連絡はしないで下さい。これからはあなたの好きな様にして下さい。手紙と共に離婚届にサインと判子が押されており、どの部屋を探しても人気は無く、唯美と敬太が出て行ってしまった。
「くっくくっ」
鈴木は顔が痺れ、手が痺れ、足が痺れ全身がカミナリに打たれた様に激痛とパニックを起こし、涙が止まらず大声で唯美と敬太を呼んだ。唯美の荷物はプレゼントした服から唯美のサイフに入れて置いた、クレジットカードまで全て残っていたが、敬太の部屋は本棚からベッドまで全て運び出した様だ。すぐさま近隣を裸足で探して、禁止されていた唯美の実家に電話したところ、義実家は何も知らなかったようだ。今朝方まで街を駆け回りコンビニやカフェ、深夜営業をやっているレストラン。またバス乗り場やタクシー乗り場、駅など思い当たる所は全て探した。一生分の涙が出た、汗は滝の様に流れ、脇腹は痛くなり何度も嗚咽した。子どもの様に泣きじゃくり夜を明かしたが、とうとう唯美と敬太は見つからなかった。鈴木は病院に欠勤を伝えるとシャワーも浴びずに、リビングのフローリングに横たわると意識を失うように眠りについた。




