前編・初めてのヴァレンタイン
「じゃあ、またな阿辺」
「おう。吉原。あのネタ、来週までもっと盛ってこいよ」
「わーってるよ。俺に任せとけ」
済陵高校の文化系クラブの部室がずらりと入っている通称『文化長屋』。その左から三番目に位置する『漫才研究会』の部室から部活仲間の阿辺省悟とそんな軽口を叩きながら、俺・吉原拓は部室に鍵をかけようとした。
その時。
「あ、吉原先輩……!」
先に部室を出ていたはずの漫研の後輩・浅井優奈が現れ、俺に声をかけてきた。
「何? 浅井。帰らないの」
「あ、あの……」
浅井は真っ赤になって俯いている。
俺はそんな浅井の態度を不審に思いながら、彼女の言葉を待っていた。しかし、彼女はぷるぷると体を震わせるだけで、一向に言葉を発さない。
「用事ないなら、俺、鍵を職員室に返しに行くから」
そう言うと、
「くっそー。済陵も伝統古いのはいーけど、ほんと立て付け悪ぃよな」
ぼやきながら、鍵を閉めることに格闘する。
「あ、あの……。吉原先輩。ここは私が締めて、ちゃんと鍵返しに行きますので」
「え? そんなことしなくても。鍵かけるのは部長の俺の責任だし」
「私に任せて下さい! 先輩はたまには楽して下さい」
そう言って、浅井は強引に俺から鍵を奪った。
「うーん、と……」
がしがしと頭を掻き、どうしたものかと思っていると、
「先輩は、『新入生勧誘会』のネタを書くの頑張って下さい! 部員が最低二人は入らないと部室も部費もない『同好会』に降格ですよ」
浅井は丸い頬を更に膨らませると、そう言った。
確かに、今の漫研は幽霊部員の三年生に二年生は阿辺と俺、一年生もたった三人しかいない。部を存続させる為には二ヶ月後に生徒会主催で行われる『新入生勧誘会』での各部八分間のアピール時間にかかっていると言って過言ではない。
「文化長屋から追い出されてもいいんですか?」
浅井はこの上ないほど至って真剣に俺にそう迫ってくる。
「そうだな。あのネタ、もっと練らないと」
「そうですよ! ここは私に任せて下さい」
力強い浅井の言葉に、
「じゃあ、浅井。後、よろしく」
「はい!」
そういうわけで、俺はその場を後にした。
後に、浅井の深い溜め息が残されたのも知らないで……。
◇◆◇
部室から靴箱まで来た俺は、心臓が急にばくついた。
あれは……。
そこには、靴を履き替えようとしているクラスメイトで俺の片想いの彼女・神崎純子がいたのだ。
「あれ。吉原君」
神崎は俺に気づき、視線を遣った。
「神崎、今帰りかよ。随分、遅いんだな」
「うん……。教室で居残りして化学の課題やってたから」
そう言うと、急に神崎は紅い顔をした。
そんな神崎の心中など俺には図りようもないことだった。
「吉原君も遅いのね」
「俺は、部活」
「吉原君、漫才研究会だったわよね」
「ああ。部員少ないから、三年上がるのが頭痛いよ」
そんな会話を交わしながら、俺はなんと神崎と一緒に並んで歩き始めていた!
俺は、神崎とのあの『お試しおつきあい』の時のことをまざまざと思い返していた。
先月、俺と神崎は俺のごり押しで『一週間限定』でつきあったのだ。
結果として、俺ははっきりとふられたのだが……。
「でも、居残りにしても遅いな。神崎、化学苦手て言ってもそんなに時間食うかあ?」
「あ、その前にみんなと一緒に教室で『ヴァレンタイン女子会』やってたの」
「ぐっ……!」
俺の繊細なハートはその『ヴァレンタイン』の一言で、ガラスのように砕け散った。
「どうしたの? 吉原君」
神崎がその澄んだ瞳で俺の顔を覗き込んでくる。
それは艶やかなセミロングの髪型で、小さな形の良い紅い口唇が呟くその言葉は俺には残酷以外の何物でもないだろう。
でもやっぱり神崎、可愛いんだよなあと思いながら、情けなくも俺は本音を口にする。
「そりゃあ。彼女がいるようなリア充はいいよ。でも、俺なんか自慢じゃないけど、十七年生きてきて一度もチョコなんてもらったことないんだぜ」
途端に神崎は左手で耳元の髪をかき上げ、困ったような顔をした。
やべ……! 言うんじゃなかった!
微妙な雰囲気。重い沈黙。
しかし、その数秒後。
「神崎?」
神崎は急に立ち止まると、スクバから何かごそごそと取り出した。
「あ、あのね……。これ」
「何?」
「これ……女子会で余ったチョコなの。でも、私がすごく好きなブルーナのミッフィーチョコで、家に帰ってから楽しみに食べようと思ってたんだけど……良かったら、吉原君食べない?」
そう言うと、長方形の小箱を取り出した。
「え、え、え?! 俺に、チョコ!?!」
「あ…ごめん。余り物なんて……」
「いやいやいや!」
ぶんぶんと俺は首を振った。
「うんうん。『義理』だってことはわかってるよ」
神崎はやはり困ったように佇んでいる。
「……でも、本当にもらっていいのか?」
「うん」
その時。
神崎はふんわりと柔らかく華のように笑った。
やべぇ……。
この可愛さ、破壊級だぞ!
俺はそうして、人生初のヴァレンタイン・チョコを生まれて初めて好きになった女の子から、とにもかくにもゲットしたのだ。
しかし──────
俺にとって、人生初の出来事はそれだけではなかった。
◇◆◇
「あれ? 浅井?」
夢を見ているようなふわふわした気分で帰宅すると、自宅の門の前になんと浅井が俺を待ち受けていたのだ。
「なんで、俺ん家なんかに」
訝る俺を前に浅井は俯いたまま、暫く固まったままだった。
しかし、急に俺を見上げると、
「先輩これ。受け取ってください」
浅井は白い紙袋を俺の前に差し出したのだ。
「部活の時、なんとか渡せないかと思ってましたけど、どうしても渡せなくて……」
ふるふると浅井は震えている。
「ストーカーみたいですけど、でも精一杯勇気出してここまで来ました」
浅井は俺を見上げて再び言った。
「受け取って下さい」
「これ……もしかして……」
ゴクリと俺の喉が鳴る。
果たして、浅井は黙ってこくりと頷いた。
「私の手作りです。どうか召しあがってください!」
そう言うと、
「あ、浅井」
浅井はそのまま後も振り返らず、ダッシュしてその場を駆け去って行く。
俺は、浅井から受け取った白い紙袋を片手に呆然と彼女の後ろ姿を見送っていた。
◇◆◇
俺はその晩、自室のベッドに寝そべりながら、二つのチョコレートをしげしげと眺めていた。
一つは、神崎からもらったチョコレート。
ミッフィーて、あのうさぎのチョコのことか。
見たことのあるファンシーなうさぎのキャラクターが横長の長方形の小箱に赤や黄色、青でカラフルにプリンティングされている。
そのうさぎの形をした程よい大きさの茶色いプレーンチョコと白いホワイトチョコが、箱の両端に収まっている。真ん中には小さな別のモティーフのチョコレートが四つ入っている。
『義理』だと言うことはわかっている。
わかってるのだが、神崎からチョコレートをもらえるなんて。
不意にバニーガール姿の神崎の幻が俺の前に現れた。
”吉原君……。食べていいのよ”
しどけなく神崎が囁く。
”私のことも……”
「わーーー!!!」
俺はあらぬ妄想に、その場でゴロゴロと転がりまくる。
しかし。ピタリと俺の動きは止まった。




