最近、夢を見る
「……最近よく、夢を見るんですよねぇ」
「……はぁ。六百十円です」
深夜2時のコンビニで、店員の女に向けて千円札を出しながら男が問いかける。
「どんな夢を見てると思いますか?」
「さぁ……」
「塩っぽいですねぇ……」
「はぁ……」
お釣りを渡しながら、女はため息を吐いた。塩っぽいと言われても、この男とは初対面だ。初対面の男にいきなり話し掛けられた一言目が『最近夢を見る』では、こんな対応もやむを得ないだろう。
「こちらは温めますか?」
「はい」
「……」
店のレンジに男が買った弁当を入れて温める。女は、この瞬間が堪らなく嫌いだった。何をするでもない、空白の待ち時間。客は買ったものが温まるまで店のなかを手持ち無沙汰にさまよい、店員である女はそれを何だか申し訳ないような気持ちになりつつ待つしかない。
その時の微妙な客との空気感が、女は嫌いなのだ。温まったかを確認する客と目が合いでもしたら、それはそれは気まずい。
そんなことを言っていてはコンビニ店員という接客業の王道とも言える職業がまかり通らないのは知っていたが、それでも女はこの時間だけを切り取って飛ばせないか、などと思うのだった。
こんな奇妙な男とそんな時間を過ごすことは、もはや嫌いを通り越して不快だ。
レンジのガラス部分を使って男の姿をちらりと見てみる。黒いズボンに黒い上着。店の中なのに黒い帽子を着けていた。これで黒いサングラスとマスクをしていたら、女は間違いなく身構えていただろう。
「それでですね、夢の話なんですけども」
「はぁ」
まだ話し掛けるつもりなのか。目の前の男は仕事帰りのサラリーマンのようなくたびれた雰囲気を纏っているのに、言葉尻に浮かぶ色は酔っぱらいに似ていた。やはり奇妙だ。
隈のある瞳で軽く笑いながら、男は言う。
「なんとですよ」
「はい」
「……起きると忘れてるんです」
「……」
「いや、ねえ?そんな顔をしないでくださいよ」
一瞬だけ湧いた一ミリばかしの関心を、男は毛抜きで引っこ抜くようにして消してしまった。途端に無表情になる女に、男は帽子の縁を撫でながら困ったように笑う。
「不思議じゃありませんか?」
「……」
「夢を見た記憶はあるのに、夢の記憶が無いんです。まるで、プレゼントを渡されたのに、中身を覚えてないみたいな」
「……はぁ」
あと何秒?女は振り返って確認してみる。のこり三十秒……まったくこの男は。カレーなんて買いやがって、と女は思った。ため息と共に男に振り返る。
「でもですね……ほんの少しだけ夢を覚えてる時があるんですよ。欠片だけっていうか……もっとあやふやなんです。起きたら一時間で忘れちゃうくらいのです」
「……まだ話すんですか」
「前から少しだけお話ししてみたいな、と思ってまして」
うわ、気持ち悪い。ナンパか何か?女がそんな言葉と思考をどうにか飲み込んだ時、電子レンジがピー!と耳に障る音を立てる。いつもはもう少し音量をなんとかできないのかとイラついていた女だが、このときばかりはこの音が天使のラッパのように聞こえた。
弁当を袋に詰める女に、男は言った。明日も来ます、と。本来なら気持ち悪いと再度の嫌悪を催すものだが、女はコンビニ店員だ。もしかしたらこの男は最近ここらに引っ越してきたのかもしれない。それならこのコンビニを再度利用することもおかしくはないし……それを態々言ってくる辺りには気持ち悪さを感じるが、これからも顔を合わせると思えば、態々気まずい客を一人増やしたくはない。
奇妙な雰囲気を纏った男の背中に、一応仮面の笑顔を張り付けて、「ありがとうございました」と送り出した。
――――――――
次の日の夜。やはり男は現れた。この男が常連になるのか、と思うと、女の気分はひたすら下がる。疲れたような、浮かれたような態度で、男は女に言った。
「今日、夢を見ました」
「はぁ」
「当ててみてください」
「……」
無言で、女は商品をレジに通した。当然というか、呆れるというか、男の買ったものはカレーであった。六百二十円。愛想の無い声で事務的な言葉を告げると、男は困ったように肩を竦めた。が、直ぐにおかしな調子に戻って口を開いてくる。
「なんとですよ……」
「……」
「貴方が出てきたんです」
無関心をより一層心掛けていた女であったが、この一言には反応せざるを得なかった。勿論、悪い意味で。客に対する最低限のマナーを守らせようとする理性と、それを打ち崩さんとする欲求が波紋を立たせ、女の表情という水面をひどく濁らせた。
絶句だの、呆れだのをまるっきり集めたため息を吐き出して、女はカレーをレンジに入れた。
ああ、またこの時間。
目を瞑って、世界を三十秒後へと飛ばしてしまいたい。が、そんな少年漫画染みた力が当然女にあるわけなく、開いた瞳に気味の悪い男だけがいる。
「いや、貴方だけじゃないんですよ?このコンビニが、私の夢の中に出てきたんです。何を話したとかは……さっぱり忘れてしまいましたが、いやぁ、珍しい事もあるもんです」
「……」
「以前の喩えを使うのならば、『もらったプレゼントの中身がちょっとだけ残ってた』といった感じでしょうか。忘れた分はさておき、貰えるだけマシですよね?」
「……そうですね」
「そうでしょう、そうでしょう」
本来なら相槌も打ちたくないところだが、男の一人芝居を無言で聞き続けるのも同じくらい嫌だ。誰に話しかけたでもない気まずさが、変に割れない水の泡みたいにレジに並ぶのは嫌なのだ。
せめてもの慈悲というか、手切れ金というか、そんな相槌をもらった男は随分と喜んだ仕草を見せた。と、同時に女の後ろから慣れた高音が聞こえた。
はっ、と曖昧な空気を吐いて、女はカレーを袋に詰め、男に手渡した。
それを受け取った男は軽く笑って、明日も来ます、と短く言った。二度と来んな、という本心は胸中にしまいこみ、女は他人行儀な笑顔で男を送った。
―――――――――――
次の日の夜、やけに女が眠気を患っていると、ガラスのドアが無音で開いた。視線と顎だけを僅かに動かして確認すると……ああ、また例の男だ。もう、嫌になるんだけど、と胸の奥で女は叫び、いらっしゃませ、と固く言った。
前日や、前々日の男ならば嫌な笑顔で手を振って見せただろうが、今日の男は無言であった。無言で無表情。まるでアボカドの種をくり貫いたように中身が感じられず、けれども男についての関心を失っていた女はどうでもいい、と軽く流した。
暫くすると、男は弁当を持ってレジにやって来た。見た限り、懲りもせずにカレー。お宅はインド人かなんかですか、と視線で皮肉を言って、男からカレーを受け取ろうとした。
が、それは叶わない。どうしてか男は弁当をレジに置くことなく、ましてやその腕をレジよりも高い位置に置くこともない。案山子を連想とさせる棒立ちだったのだ。
が、これを女は変に思わなかった。成る程ね、押して駄目なら引いてってやつでしょ、と軽く呆れて、さっさとしろ、とため息を吐いた。すると男は黒い瞳をすっ、と上げて女の目を見た。
上げた瞳が、外の夜よりも暗い色であったので、女は思わずたじろいだ。
「……えーっと」
「最近――夢を見るんですよ」
「……」
男の声色は静かであった。それが逆に不気味さを掻き立て、女を黙らせる。瞳を合わせたまま、男は言い継いだ。
「どんな夢だと思います……?当ててみてくださいよ」
「……」
女は少し悩んで、言った。
「ここの夢ですか?」
「……そうです」
男は黙った。カレーの弁当からルーが零れてきて、白いタイルに粘りつく。けれども女は何も口にせず、まるで台本に沿うように無言だった。
「……最近、疲れてるのに寝付きが悪くて困っています」
「……はぁ」
いや、ねぇ。そんな顔しないで下さいよ。と男は言った。女は自分の顔がどうなっているかについてさっぱり分からなかったが、目の前の男の台詞にはどこか聞き覚えがあるような気がした。
その感覚を、糸を引くようにして引っ張っていると――急に、強い眠気が女に現れた。
それはまるで唐突に突き立てられたナイフのように突発的で、原因不明の眠気だった。女は思わず顔をしかめて、眠気に抗うように前屈みになる。
そんな女を男は軽く笑って、こう言った。
「それじゃあ」
もう、ここには来ません。妙に朗らかな声で男は言って、ゆっくりと踵を返した。意図せずレジに突っ伏している女は、強い眠気に目を細めながら男の後ろ姿を見た。
なんで、こんなに……。胸中で恐怖じみた疑問を抱えながら、女はそれでも口を開いた。
「ちょっと……万引き……なんですけど」
男は立ち止まってくすりと笑うと、また足並みを整えて店の外へ出てしまった。男の黒い背中に、透明な自動ドアが覆い被さるのを最後に、女の意識はプツリと途切れてしまった。
――――――――
目を覚ますと、夜だった。滅茶苦茶体がダルくて、今何時?と枕元の時計を見てみたら……はぁ?午前4時?寝直すにも遅いし、でも眠いし……と私は思って大きな欠伸をかいた。
袖に針金を入れられてるみたいに手足が上手く動かなくて、良くわからないけど寝汗も凄い。
「……うぅん?」
目覚ましかけてるし、また寝よっかなぁ、とか思ってたら何かピンときた。それが何か良く分からないけど、何か思い出しそう。えー?なんだっけ?と忘れたことを忘れてて、それでも不思議に気になることだったから、なんとか思い出そうとしてた。
私、何を忘れてるんだっけ……。
二分位考えて、ちょっとだけ思い出した。本当にちょっとだけ。
「えー……と。何か、夢?を見てた気が……?」
見てたっけ?まあ、寝てたし見たかも。ベッドで寝っ転がってると、段々眠くなってきた。ま、いっか。
もう一度瞳を閉じた私の口が、固まった。え、金縛り?まるで、夢の中みたいに体の自由が効かない。びっくりしてると、勝手に口が動き始めた。一緒に、喉も動く。
「――最近、夢を見るんですよねぇ」
――――――――
「っぇえ!?」
女の体がびくりと跳ねる。薄い唇から素早く酸素が出入りして、化粧の乗った瞼が大急ぎで上下した。女が顔をあげると、いつものコンビニ店内だ。見慣れた商品棚と、深夜の田舎特有の人気無さ。
視線を下に落とせば、自分が作ったらしい唾液の水溜まり。間違いなくこの主は幸せそうに惰眠を貪っていた事だろうと容易に推察できる。
「あれ……居眠りしてた……?」
随分と都会から遠いここでは人の気があまりにもない。昼には疎らに来るが、夜中となれば住民全員が夢の中だ。ともすればコンビニ店員は暇で暇で仕方なく、女は例に乗っ取って居眠りを決め込んでいたのだ。
女の目覚めの一声に反応したらしいもう一人の女が店の奥から顔を出した。
「チカちゃん、どしたの?」
「え、あ……先輩。ちょっと、寝ちゃってて……」
先輩と呼ばれた女はくすくすと笑って、それで飛び起きちゃった?と言った。
「変な夢でも見たんじゃない?」
「そうかもしれないです……けど、ちょっと記憶にないんですよね」
「あー、良くあるね」
あたしも寝て起きると夢とか忘れるし、と先輩は言った。夢。その一単語に、女――千花はピクリと反応した。そういえば、見ていたかもしれない。あまり記憶にないが、どうしてか見たかもしれないという予感がある。
それはまるで、プレゼントを貰ったのに中身を覚えていないみたいな……。
「あ」
「んー?」
千花は何かを閃いた。何かを、というのは発想や記憶ではなく、単なる記号を思い出したようなもので、千花はその言葉をぼそりと口に出した。
「……最近、夢をみるんです」
「……へぇ?どんな夢ー?」
模範解答的な先輩の回答に、千花は少し考えて、記憶の中をくまなく漁り……そしてこう答えた。
「夢を見る……夢」
先輩は一瞬虚を突かれたような顔をして、大声で笑った。
「あははは、それ面白いね。マトリョーシカって言うんだっけ?あれみたいじゃん」
「なんか二倍疲れますよ」
そりゃ疲れるよ、と先輩は言った。続けて、面白い話ありがと、と笑いながら店の奥に消えていった。作り話じゃないんだけど、と千花は不満だったが、同時に自分でも少し馬鹿馬鹿しいと思っていた。
本当に、見たのかな。夢の中の記憶は思い出せない。けれど、ドーナツの穴のように夢の残像が残っている。軽く首を傾げて、千花はレジの水溜まりを拭いた。
朝まではまだ遠い。もう一息、頑張ろう。鼻からため息を吐いて、千花はレジに屹立した。
ちらりと一瞥した自動ドアからは、誰も入ってこない。そこには唯ひたすら、滔々とした夜があるのみだった。