冬の蝉
冬はやっぱりこたつでみかんだな、と、園子は座卓の真ん中に置いてある籠に手を伸ばし、柔らかさを確かめてから二個、小ぶりのものを手に取った。最近凍みるのが速くなった。籠の中には十個ほどあるが、そのうち半分はぶにょぶにょとした感触。たぶんこの二個もあまり美味しくはなさそうだ。
園子が顔をしかめつつみかんに親指を挿したとき、向かいで座卓に顎を載せた姿勢のまま沈黙していた聰太が「あーあー」と、突っ伏した。そのまま額を左右に擦り付けている。猿かこいつは、と思いながら、園子は聰太に声をかける。
「ねえ」
「あーあー」
「布団上げてるでしょ。寒いんだけど」
園子は刺々しい口調でそう言った後、右手で座卓をバンと叩いた。ちなみに左手の親指はみかんに挿したままである。
衝撃が額にダイレクトに来た聰太は、いてっと声をあげて額を両手で覆い、顔を上げる。目が据わっていた。
「いてえな園子、何すんだよ」
「布団、上げんなっつってんの」
「ああ?上げてねえけど」
「上げてんでしょ、両脇。手、突っ込んでるから捲れてんの」
再び皮むきを始めた園子は、視線は聰太へと向けたまま顎で布団を指した。隙間からは園子の方へ向かって容赦なく冷気が流れこんでいる。両足の爪先を擦り合わせても、耐えられなくなってきていた。「寒いから早くしてよ」
「えー俺だって寒いしー」
「ふざけんな」
「……分かったよ」
園子の剣幕に圧されたのか、聰太はしぶしぶ両手を出した。手持ち無沙汰になったその手は、自然とみかんへと伸びる。
「冷え性園子」
「寒がり園子」
などと悪口を叩きつつ、右手の人さし指でみかんを一通り突いたのだが、しかし途端に眉間に皺を寄せた。
「えー、全部凍みてんじゃん!」
「冬だからね」
間髪を入れずに答えた園子は、むいた一房を優雅に口に含む。あまり美味いとは思えなかったが、凍みていないだけいい。咀嚼して飲みこんだ後、ようやく聰太に視線を向け、冷気の恨みとばかりにこれみよがしに口角を上げてやった。漫画ならば確実に「にやり」とでも形容されるような、人の悪い笑みだ。
「あー美味しー」
「サイテーだ、おまえ」
聰太は苦虫を噛み潰したような顔をし、「あーあー」と、また座卓に突っ伏した。今度は腕で顔を覆っている。
「しかもちゃっかり二個も確保してさ」
ずるい、と言外に含まれている。園子は「あげないから」とぴしゃりと言い放ち、二個目のみかんに手をつけた。
あんまり物事にはこだわらないくせに、食い意地だけはすごいんだよな、と聰太は思ったが、面倒くさくて口には出さなかった。それに、口を開けるだけで冷気が体内に侵入してくるのだ、無駄な動作は極力省きたいとい。十一月も下旬を迎え、寒さは本格的になりつつあった。
しばらくはみかんの皮をむく、さくさくという音と、それを園子が食べる音、点けっぱなしのテレビから流れる無機質な音声のみが部屋を満たすのみだった。日曜日の昼まえ、どちらも動く気は起きず、聰太はいつの間にか大の字に寝転がり、園子も、みかんを食べ終わった後は横になった。外はからりと晴れていて、うたた寝するにはちょうどいい温度だ。そうして二人は正午を告げるサイレンが鳴るまで眠り続けたのだった。
「えー、なんで寝てんの」
サイレンが鳴ってすぐ、居間の襖を開けた基子は上擦った声をあげた。その両手には満杯のビニール袋が二つ、ネギやら大根やらをはみ出させている。
ちょっとちょっとー、と言いながら、ビニール袋を置いて、基子は二人を揺り起こした。
「こたつで寝ると風邪引くよ?」
聰太はうんうん唸ってぐずぐずしているが、園子は即座に目を開けて、腕を支えにしながら半身を持ち上げた。
「あれ、もう帰ってきたんですか、基子さん」
「うん、ま、そんなに仕事なかったしね。昨日片付けられなかったのをやっつけてきただけだから」
「遅くまでかかってましたもんね」
「久々の休みだっつーのにさ」
はー、と盛大なため息を吐いて、基子は天井を仰いだ。園子は「お疲れ様」と労い、こたつから出た。途端冷気が全身を這い、ぶるりと身震いをする。これが嫌でこたつから出られなくなってしまうのだ。基子はこれを「こたつの呪縛」と呼んでいるが、まさにその通りだと思う。
パンパンのビニール袋を持ち上げると、園子は、早速こたつに潜り始めた基子を振り返り、「これ、冷蔵庫に入れて大丈夫ですよね」と言った。
「あ、ありがと。お願い」
園子が居間を出ると、「あれ、もっさん帰ったの」と、ようやく起きた聰太の頓狂な声と、「その呼び方やめてよ」と不機嫌に答える基子の声が響いてきた。二人のそんなやり取りは日常茶飯事だけれど、いつ聞いても、どこか安心するように思う。園子は人知れず頬を緩ませた。
築三十年の日本家屋の床をみしみしと音をたてながら、黒光りする廊下を進み、二部屋先の台所へと入った。よりいっそう濃い冷気が襲ってくる。
「さっむ!」
思わず声を出すと、息が白く染まった。夏でも涼しいこの台所は、冬になると、凶器のような寒さを内包するようになるのだ。園子は足早に部屋の真ん中を占拠するテーブルに袋を下ろす。そして入り口とは対角にある冷蔵庫の前に立ち、睨みつけた。ここからはダブル冷気との闘いなのだ。テーブルを振り返り、手早く食品を仕分けた園子は、両手を腰に当て仁王立ちした。心中でよっし、やるぞ、と気合いを入れるのだが、しかしなかなか踏ん切りがつかない。結局そのまま五分近く静止してしまったが、とうとう腹を決め、園子は冷凍食品をしっかりと掴み、そびえ立つ冷え切った箱の最上に位置する魔の扉を開けた。
「だあーっ!」
「あ、やってるやってる」
「え?」
「園子ちゃん。冷蔵庫と闘ってる」
そう言われて、聰太は耳をすませた。たしかに、園子の「寒い!」「いやー、冷たい!」という奇声が聞こえる。
聰太は呆れた風に息を漏らした。「あほじゃないの」
「可愛いじゃん」
「……あれ、待って。なんで園子が冷蔵庫と闘うわけ?」
「ああ、買ってきたやつ入れてくれてるの」
「えーそれって悪いの基子さんじゃん」
基子はそれに何も答えずにこりと微笑むと、みかんに手を伸ばして感触を確かめ、でもすぐに引っ込めた。眉間には深い皺が刻まれる。その間、およそコンマ数秒だったろう。
「ぎゃー、凍みてる!」と、こちらも奇声を発した。
凍みたみかんはぶよぶよとして気持ち悪い。基子の苦手なものは気持ちが悪いものなのだ。
「バチが当たったんだよ」
と聰太はほくそ笑むと、今しかないとばかりに両手をこたつの中へ滑り込ませた。肩口までほこほこと温まってくる。やっぱりこたつの神髄はこの格好にあるよな、と自然と顔の筋肉が緩み、にやにやした。
基子はひととおりたしかめてみたのだが、すべて凍みていると分かると、座卓に無造作に置いてあった皮を二つつまみ、「あーあー」とうなだれた。「やられた」
聰太はちらりと目配せし、今度は心底楽しそうにほくそ笑んで、
「それ食べたの園子だから」
と得意気に言った。
一方園子はと言えば、冷気との闘いも終盤に差し掛かり、あとはネギを残すのみとなっていた。しかしネギの青い葉の部分はぐにゃりと折れ曲がりやすく、野菜室に入れるときは注意しなければならない。しかもそこは今、結構な満杯具合だ。
これは至難の技が要求される。
園子はネギの白い部分を握りしめたまま固まり、ふいにその場にしゃがみこんでしまった。緊張の糸が切れたのだ。冷蔵庫に両手をついて、大きく息を吐き出す。相変わらず白くなるそれに嫌気が差しながらも、やるしかないと分かっているからネギは断固として放さないが……−−。園子は再び大きな息を吐くと、とりあえず一旦休むことにした。
テーブルの手近な椅子を引き、腰かける。頬杖をつきながら静かに佇む箱を見つめ、今まで苦労の末に入れてきた食材たちを思い返した。
お弁当用の冷凍食品、鶏ガラスープの素、豆腐、納豆、Lサイズの卵パック、豚肉、玉こん、糸こん、魚肉ソーセージ、ご飯ですよ、エビスの六缶ケース、人参、大根、ミニトマト、水菜、練り物の鍋用パック、そしてネギ。
そこまで思い返したところで、ふと、気付いた。一部を除けば、このラインナップはまさしく鍋の食材ではないのか、と。そういえば昨日基子が帰宅したとき、あまりにも寒そうに身を縮こませていたので、「鍋でも食べたいですね」と言ったのを思い出した。どうやら、基子はそれを覚えていたらしい。あんなにくたくただったのに。身も心もすっかり疲れきった様子の昨夜の基子の姿を脳裏に浮かべると、胸がほっこりとした。
園子は決意も新たに、再び立ち上がって強敵と向かい合うのだった。
相も変わらず点けっぱなしのテレビからは、大柄な女性タレントの辛口コメントが流れている。その対象は主に、三日前に発覚した国会議員の汚職事件だ。マスコミに囲まれながらも断固として口を開こうとしないその男の顔が大写しになる。一見人の好さそうな、白髪で初老の男性だ。画面は切り替わり、昨日行われた会見の模様を伝え始める。文面をただ読んでいるとすぐに分かる、まるで小学生のような−−いや、小学生の方が楽しそうなぶんよっぽどいいだろう−−表情に乏しいものだった。そして再び女性コメンテイターが映される。『冗談じゃないですよ。国民をなめているとしか思えないよね−−』
突然、何の前触れもなくテレビが切られた。
聰太だ。虚ろな瞳でテレビを見つめてリモコンをかたく握りしめていたかと思うと、脱力したように後ろに倒れてしまう。
ばすり、音の名残が部屋を満たした。
基子は一連のことに沈黙したままでいたが、やがてふっと息を吐く。大の字で微動だにしない聰太をちらりと見てから、やはり……と唇を噛みしめた。もどかしくもあるが、自分が口を出すべきではない問題だと心得ている。打ち解けてはいても、互いに踏み込めないラインを自覚しているのだ。三人一緒に生活するようになってからの暗黙の了解。
基子は、聰太を真似して体を倒した。スーツに皺がつくだろうけれど、どうでもよかった。ちょうど陽光が磨りガラスを通して降り注いでいたので、右腕を目に押し当て、疲れていたのも手伝ったのか、そのまま眠りに落ちていったのだった。
ただ、眠りにつく直前、視界の隅に入った聰太の手が爪が白くなるほどきつく握りしめられているのを見て、悔しさに似た気持ちが込み上げたのだった。
「あれ、寝てる」
ようやく冷気との死闘から解放された園子が居間に戻ると、まずスーツのまま寝息を立てている基子が視界に入った。
「皺になっちゃうよ」
と、園子は基子を起こそうとしたが、突然聰太ががばりと身を起こした。いつになく真剣な顔をしている。
「起こさないで」
厳しい口調で早口にそう言うと、聰太はこたつから素早く出て立ち上がり、どこかへと走っていく。園子がなんなんだと考える暇もなくものの数秒で戻ってきたが、その腕には基子の毛布が抱えられていた。ホームセンターで安価で手に入れた割には手触りがよく、基子はこの毛布をいたく気に入っている。
「お」と、園子は驚きの声を漏らす。
聰太はそれを基子にゆっくり、丁寧に掛けると、「よし」と頷いた。長い間こたつに潜っていたせいか、頬がほんのりと赤い。園子は、それとも別の−−と考えかけたところでやめた。まあ、その場合、それはそれで楽しい、と考え直す。出歯亀はよくない。こういうことの神髄は、こっそり成り行きを見守ることにこそあるのだ、と心中で笑った。やはり姉弟である。
「珍しいことすんね」
と、園子が毛布の位置を直しながら話しかけると、聰太はふいっと横を向く。「べつに」
「そ」
園子は基子の髪の毛を踏んでしまわないように気をつけながら、横に体育座りした。台所よりはだいぶ暖かいので、足を出してもさほど気にならなかった。むしろこたつに入ったら暑いくらいだろう。
聰太はその場に立ったまま、基子を見つめていたのだが、しばらくして基子が寝返りをうったのを機に、また元の位置に腰を下ろした。今度はきちんと両手を出している。
園子はちらりと目配せをした後、何気なく問うた。
「……消したんだ」
「なに」
「テレビ」
「ああ……」
聰太はそれきり黙ってしまった。両の手を組み合わせて、無表情のままじっと絡めた指先を見つめる。
分からなくもない、と思う。園子も初めて見たときは複雑だったのだ。聰太のように、テレビを消してしまうほど。ただ慣れてしまっただけなのだ。
テレビの向こうでは、リアルのあの男が生きている。それこそ、何度も夢にみた姿でもなく、写真の中で生真面目そうに静止している画でもない。息をしている。生活している。わたしたちと同じように。
園子はテレビの方に顔を向けて頬杖をつくと、その掌に頬を擦りつけた。なんだか胃のあたりがムカムカして、むしょうに気持ち悪くなってくる。あの男のことを考えるといつも煮えくり返るような苛立ちが湧き上がってきて、どうしようもなくなってしまう。ひたすら収まるのを待つしか、今のところ対処法はなかった。
「さっき」
黙りこくっていた聰太が呟いた。ぽつりとこぼすように。
「え?」
と、園子は顔を上げた。未だじっと自身の指先を見つめてはいたが、園子に話しかけていることは分かる。「さっき、なに?」
「さっきさ、基子さんさ、何も訊かなかった」
「うん」
何を、とは尋ねなくとも分かった。あの男のことしかない。
聰太は組んでいた指を解き、ごしごしと擦り合わせた。小さい頃から、照れいているときの聰太のくせなのだ。
そして口を開いては閉じ、開いては閉じを何度も繰り返して、ようやく園子に視線を合わせた聰太は、表情筋を無理矢理動かしたようなぎこちない笑みで、
「……いいひとだよね」
と言った。
園子は、頬を薄赤く染めた聰太を無表情に眺めた後、堪らず吹き出した。はじめはくつくつと肩を揺らす程度だったのだが、次第に我慢がきかなくなって、とうとう腹に手を当てて大声で笑う。
「えー笑うかよー」と、顔をまるで熟れたトマトみたいに赤くして抗議する聰太には構わず、園子はひとしきり笑い転げ、やっとそれが収まると、すっきりしたような顔で言った。そこにはもう苛立ちは見当たらない。
「ね、今夜は鍋だよ」
その後五時間ほど眠り続けた基子が起きたとき、座卓にはすでにコンロが用意されていて、それを囲んで所狭しと食器類が置かれていた。
「あ、基子さん起きた」
「もう出来てますよ」
そのこと聰太は揃ってこたつに入り、髪がボサボサのまま目を見開いて静止している基子に笑いかけた。
「鍋」
と、二人はコンロの上の土鍋を指差す。あらかじめ煮込んでいたため、閉じられた蓋からは湯気が立ち上っていた。基子には、蛍光灯の明かりの下で、湯気がきらきらと光っているように見えた。それは決して、寝起きだからというわけではないだろう。基子は、「やった」と、湯気の向こうに見える二人に柔らかく笑い返した。
「なに鍋?」
と、姿勢を正し、手櫛で髪を整えながら尋ねると、園子がやや腰を浮かせて蓋を開ける。もわんと湯気が飛び出したのち、ぐつぐつと煮える出汁のいい匂いが鼻腔をくすぐった。基子は前のめりになって目を輝かせる。
「きゃあ、美味しそう!普通のお鍋?」
すると今度は聰太がどんぶり一杯の白いものを、ずいと差し出した。
「違うよ、みぞれ鍋」
「おお、いいねいいね」
「大根買ってきたの基子さんじゃん」
園子がくすくすと笑う。聰太は、「じゃ入れまーす」と、出汁や具材にたっぷり大根おろしをかけた。たちまち、大根の辛いような甘いような青臭いような独特の香りがたちこめて、基子はほう、と息を吐いた。
「美味しそー」
「もっさんそれ二回目」
と、聰太がにやにや笑いながらツッコミを入れた。食欲を誘う匂いに顔を緩ませていた園子は、むっとして、すかさず反論する。
「だからその呼び方やめてよね」
「いいじゃんべつに」
「嫌だよ、おっさんみたいじゃない」
「まあまあ二人とも、食べよう、はやく。お昼食べてないし」
園子の仲裁に二人はしぶしぶ、と言っても楽しそうなのだが、しぶしぶ言い合いをやめた。用意された箸を手に取る。
「だなー。腹減った、マジで」
「寝ちゃったしね」
相変わらずのやり取りに苦笑しつつ、園子も箸を手に取った。そうして三人は互いに目配せした後、口許を緩ませ、手を合わせたのだった。
「いただきます」
日常の一瞬のきらめきを綴りたいと思い、書きました。前からあたためていたネタの一部を使ったので、結構緊張したのですが……とりあえずは、完、です。ただ、自分の中では、この三人の今後や過去なんかも練ってあったので、なんだか終わった気がしません。それもまた、創作の醍醐味でしょうか。
ここまで読んで頂き、本当にありがとうございました。