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師走  作者: 皇 凪沙
6/6

応報

 初夏に近い春の風が気持ちよく吹き、草木の香りを運んでいた。

 よく晴れた空には、うっすらと春の霞がかかっている。

 暖かい春の遅い朝、えんはおとこが住んでいた長屋の近くを歩いていた。

 年越しを経て春を迎え、痛ましい事件も過去のこととなったのだろう。町は春の陽を浴びて穏やかだった。

 長屋の横を過ぎ、えんは奥にある家主の家を訪ねる。あの折、大怪我をした家主は、幸い命を取り止めてその後順調に回復しているらしい。

 戸口から声をかけると、女房らしい女が応じた。訪いを告げる暇もなく、奥から家主と見える親爺が現れる。口やかましい家主の頑固親爺そのままで、えんは思わず綻ぶ口元を隠した。

 怪訝な顔で来意を問われ、あの事件のことでと応えると、二人はあからさまに嫌な顔をした。

「まだ若いようだが——」

 そう言って、家主はえんをじろりと見た。

「——人の不幸につけ込むような真似はしないことだ。あんたのような人が、あの後幾人も来た。」

 おそらくは、人の不幸を種に祈祷や祓えの真似事をして、幾許かの金品をせしめようという類いの連中なのだろう。もしかすると、もっと悪どい者たちもいるのかも知れない。


——信じてくれなくっても結構ですよ。

 だからえんはそう言った。

「別に何か頂こうっていう訳じゃない。ただ——」

——言伝を頼まれましたのでね。

 そう言うと、家主は疑わしげな目を向けて、

「まずは聞かせて貰おう」

と、そう言った。

 えんは、家主を見上げる。

「——ありがとう、ございます。と」

 それだけ言って口を噤むと、家主は怪訝な顔をした。

「それは、誰からの伝言かね」

 家主の問いに、えんは笑って応える。

——聞いていただけますか。少々長くなりますが、と。



 暗い岩陰で、括りつけられた鉄柱にぐったりと身を預け、おとこは目を閉じた。

 幾日も、幾日も、同じ日々が続いた。

 昼は注がれ続ける銅汁に苦しみ、夜は後悔に苛まれる。地獄とはこれ程苦しいところかと、こんな地獄へ堕ちざるを得ない自分の罪の深さに、おとこは涙を流す。

「哀れなものだ」

 赤の獄卒鬼が云う。

「どれ程厳しく責め付けても、許しを請う事も、助けを求める事もせぬ」

「——閻魔王も酷な事を」

 そう云って、青の獄卒鬼が気の毒そうにおとこを見る。

「そうでもないだろうさ」

 えんはそう言って、おとこの様子をそっと窺う。ついさっきまで銅汁を口に注がれ続けていたおとこは、今はぐったりと目を閉じて、荒い息を吐いている。その目に新たな涙が浮き上がるのを見て、えんはおとこに声を掛けた。


——やられてるね。

 声が聞こえた。

 顔を上げると、女が立っていた。

「覚えてるかい、閻魔王の前で会っただろう」

——えんというのさ。

 女はそう云って笑った。

「地獄の責苦は辛いかい」

——いいや。と、そう言おうとしたが、焼け爛れた喉からは、僅かな呻きが漏れただけだった。だから、おとこはえんを見上げ、首を横に振って見せた。

「——辛くは、ないのか」

 罰を受けるのは辛くはない。身の内を焼かれるのは確かに苦しいが、それよりも朝まで放って置かれる間、後悔に責められる事の方が、今のおとこにはずっと辛かった。

 おとこの思いを汲んで、えんは頷く。

「地獄の責苦より、辛いことがあるのか」

 そう云ってえんは天を仰ぐ。日も月も、星さえ瞬くことのない、灰色の空が岩の隙間から少しだけ見える。

「けれど——仕方がない。それが罪の報いだろうよ」

 えんはぽつりとそう言った。

 おとこは閻魔王の言葉を思い出す。

——たとえ地獄の責苦に耐え抜いたとて、許されると思うな。お前の罪は償えるものではない。ただ、罪の報いがあるばかりだ、と。

 おとこが静かに涙を流すのを、えんは暫くじっと見ていた。


「あんたは、幸せだね」

 不意にそう言われて、おとこは涙に濡れたままの顔を上げた。

「家主の親父は奇特なひとらしい。ついこの間、床上げして直ぐにあんたの女房と子の供養をした様だよ」

 身寄りもなく、被害者であると同時に、罪人の妻子となってしまった二人は、粗末な弔いの後、寺の片隅に埋められただけになっていた。家主はそれを憐れんで、小さな墓碑を建て寺に供養を願ってくれたらしいと、えんはそう言った。

「それからね、あんたの着物もそこへ一緒に納めたそうだ」

 罪人として処刑されたおとこは、遺体は勿論遺髪さえも帰されることはなかった。着物は遺骨の代わりに納められたのだ。

——それからね。

「あんたはもう数えちゃいないかもしれないが、今日はあんたの百日の忌日だ。」

——だからかねえ。そう云ってえんはおとこの前にそれを置いた。

「これが手向けてあったよ。」

 置かれたものを見て、おとこの目に涙が溢れだす。それは、娘の手にあった小さな湯呑みだった。中には控えめに、六分目程の水が入っていた。

——飲むかい。

 口元に運ばれた湯呑みをじっと見つめ、おとこは押し頂くように、その水を口にした。

 爛れた喉を、水は優しく潤す。

 あの時の水でないことが分かっていても、脳裏には幼い娘の姿が浮かんだ。落とさないようにと何時もおとこが使う湯呑みよりも小ぶりなものを、溢さないようにと何時もよりも少なめに水を入れて、幼い娘に渡した妻の心使いが思われて、後からあとから涙が流れた。

 わずかな水を、惜しむようにゆっくりと飲み干すと、おとこはもう一度小さな湯呑みを眺めた。運よく割れずに長屋の隅にでも転がっていたのを、拾っておいてくれたのだろう。しかめっ面で小言を言いながら、しかし丁寧に水を供えてくれる大家の顔が目に浮かぶようで、おとこは涙を溢しながら少しだけ笑った。

 そして、おとこはえんを見上げ、爛れた喉から掠れた声を絞って、「伝えてくれ」とそう言った。

「なんと伝えればいいんだい。」

 問われておとこは答える。

「ありがとう、ございました。と——」

と。

 詫びる言葉は見つからない。どれだけ詫びても足りはしない。だから感謝の言葉だけを伝えて欲しい。

 おとこがそう言うと、えんは少し悲しげな顔をした。

「許してくれとは言えないか——」

 えんの呟きにおとこは答えず、ただそっと項垂れた。


——もう行くよ。

 そう言って、えんはおとこに背を向ける。

 おとこが小さく息をつく。

 去り際に、えんはおとこに言った。

「——あんたの女房と子は二人揃って、天人になったよ。」

 天界に、夜摩天という場所がある。閻魔王の天界の居所である。閻魔王の治める夜摩天の片隅に、二人は居処を得た。

「あんなおっかない顔してるけど、閻魔王も天界へ帰れば天部のひとりだそうだからね。」

——まあ、安心だろうさ。

 えんはそう云って、にやりと笑う。

 おとこはほっとした、しかし少しだけ寂しげな顔でえんを見上げる。地獄の底にいる自分は、もう二度と二人に会うことはないだろう。

 寂しさと遣り切れなさを飲み込んで、小さな声で「よかった」と呟いたおとこを見つめ、えんはおとこに言ってやる。

「二人であんたを待つそうだ。」

——やめてくれ。

 おとこは慌ててそう言った。

 待っていてもらったところで、こんな自分が天に行けるわけもない。合わせる顔もない。

 そう言うおとこに、えんは意地悪げに笑って云った。

「そうかも知れないね。けどあんたには、二人にやめてくれという資格はない——あんたは償えないほどの罪を犯した。だからどんなに辛い罰を受けても仕方がない。ましてあんたが傷つけ、殺した者達に何をされても仕方がない。」

——水を手向けられても、いつまでも待たれても。何をされてもだ。

「それが、罪の報いだと、諦めるんだね。」

 そう云って、えんはおとこに背を向ける。背後から、おとこの嗚咽する声が聞こえた。

 赤青の獄卒鬼等が、幾分安堵した様子でえんを見送る。どうやら獄卒鬼等さえも、おとこのことを気にかけていたらしい。

——幸せな、おとこだよ。

 思わず呆れた笑いを浮かべ、えんはそう呟いた。



「そういうわけでね——」

——お返ししておきますよ。

 えんはそう云って、大家の前に小さな湯呑みを置いた。

 戸口から爽やかな春の風が吹き込む。

 まだ晒しが巻かれているらしい脇腹へ手をやって、頑固親爺はそっと着物の襟元を合わせた。そして小さな湯呑みを見つめ、そっと手を伸ばす。

「信じやしないよ。」

 少し潤んで見える目を逸らし、大家の親爺はそう云った。小さな湯呑みを手の中に納めて立ち上がり、親爺はえんに背を向ける。

「——けど、水はくんでやる。あいつが、やめてくれと言ってもだ。こんな口うるさい爺いに、毎日水と小言を手向けられるのも、自業自得だと思い知ればいい。」

——仕方がない奴だ。

 と、そう言って、奥へと戻って行くその背を、えんは黙って見送った。傷は直りかけているらしく、その足取りはしっかりしている。

——すみませんねえ。と、後に残された大家の女房が、困った顔で笑う。

 「いいや」と、笑って手を振って、えんは戸口をくぐって春風の吹く外へ出た——



「まあ、そんなところさ。」

——そうか。と、閻魔王が頷く。

 具生神が穏やかに笑っていた。

 春の宵、閻魔堂の外では春の風が、さやさやと木々を揺らしている。

 えんは長い使いの一部始終をかたり終えて、ほっと息をついた。

「あれ程の罪を犯しながら、憎まれぬ者も珍しい。」

 閻魔王が呆れたように云う。

「性根が曲がっておらぬ故で御座いましょう。」

 そう言って具生神は鉄札を取り、「もう少し早く己の間違いに気付いて居れば——」と呟いて、残念そうにそれを伏せた。


「あの二人は、本当におとこを待つ積もりかい?」えんの問いに閻魔王が応じる。

「そのようだ。幼子が父を待っているからとそう言っておったが——」

——そう言う女の方が待ちたいのかも知れないね。

 そう言って笑うえんに、閻魔王は渋面をつくって見せる。

「さて、どれだけかかることか。十年、二十年では済むまい、百年か二百年か…千年か——」

 ふっと具生神が笑みを浮かべた。

「それ程には、掛かりますまい。既に己の罪を知っている者にございます。供養する者もあり、何より殺められた当の本人らが待っているのですから。数十年、長くとも五十年は掛かりますまい。天人には、あっという間に御座います。」

 人の世の五十年が、天ではわずかに一昼夜であるとも云う。それが本当ならば、二人にとっては、それは本当にあっという間のことなのかも知れない。

 伏せた鉄札の面をなぜながら、具生神は少し悪戯げな顔で閻魔王を見る。

「第一、閻魔王様がお待ちにはなれますまい。」

 閻魔王が具生神を睨む。

「わしはそれ程気が短くは無い、必要とあらば何千年でも責め苛んでくれる——」

 いえ、と具生神は首を振る。

「気が短いと申しているわけではございません、慈悲深くいらっしゃると申し上げているので御座います。必要のない者を、長く地獄へ留め置くような意地の悪い事は致しませぬゆえ。」

 ふん、と閻魔王が気まずげにそっぽを向く。

 傍らで、獄卒鬼等が笑っていた。

「あのおとこは、どうしてるんだい。」

 えんが訊ねると、獄卒鬼等は顔を見合わせた——



 えんが去り、元の通りひとり取り残されたおとこは、じっと空を見上げていた。目を開けて、夜の空を見上げるおとこの姿を、獄卒鬼等は初めて目にした。


 おとこの中で、張り詰めていたものがゆっくりと解けてゆく。

 許された訳ではない。後悔に責められるのも変わらない。

 それでも、暗闇の中ひとり繋がれていると思っていた自分は、ひとりではなかった。

 そう思えば、脳裏に浮かぶ幻影が消えてしまうことも、もう怖くはない。

 空を見上げたまま、おとこはゆっくりと目を閉じた。いつものように、懐かしい顔が脳裏に浮かぶ。岩の隙間からわずかに覗く空は、遠く、遠く、それでもどこかで彼らに繋がっている。

 ゆっくりと目を開けると、暗く澱んだ灰色の小さな空が、優しげに見えた。

 やがて身体の痛みが消え、朝がくる。

 赤青の獄卒鬼がやってくるのを、おとこは顔を上げ静かに見ていた。

 おとこの罪は消えることはない。償えはしない。だから、同じ日々がこれからまだまだ、長く続いていくだろう。それでいい。

 鉄杓に滾る銅を汲みながら、青の獄卒鬼が珍しげにおとこを眺める。

 赤の獄卒鬼が鉄鉤を取り、

——目が覚めたか。と、そう言った。



「あの日から。」

「なにやら、変わったようだ。」

 そう口々に云って、獄卒鬼等は満足げに笑う。

 きっとおとこは、ひとり置かれる夜よりも、獄卒鬼等に責められる昼の方が、辛くなるだろう。それでいいのだと、えんは思う。

——やはり、あの者が地獄を出るのも、そうそう遠いことではなさそうで御座います。

 そう言う具生神の声を背に、えんは堂を出た。

 一刻値千金の穏やかな春の宵。空には高く細い月が上っている。

 あの、ずっとずっと上に、夜摩天はあるという。そこでは閻魔王はどんな顔で玉座に着いて居るのだろう。

 ふと、そんなことを考えて、えんはひとり笑った。

 さやさやとした風が、えんの頬を撫でて吹き過ぎてゆく。高い空を振り仰ぎ、ゆっくりと闇に沈んでいく閻魔堂に背を向けて、えんは藪の中の細い小道を戻って行った。

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