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師走  作者: 皇 凪沙
5/6

苦患

 岩の連なる荒涼とした大地を、赤青の獄卒鬼等に引かれて、おとこは歩いていた。

 地獄へと向かう空は灰色の薄闇に包まれ、澱んだ大気は生臭い血の匂いがした。

 足元には鋭く尖った岩の地面が続き、岩角が裸足の足を裂く。行くほどに次第に重苦しい後悔と恐怖が胸に迫り、足の痛みにも増しておとこの歩みを遅くしたが、獄卒鬼等は気に掛ける様子もなく、厳しい顔つきで黙ったままおとこを引いて行った。

 やがて、一行の前に高く堅固な黒鉄の門が姿を現し、獄卒鬼等は足を止めた。

「此処がお前の堕ちる地獄だ」

 赤の獄卒鬼が黒鉄の門を見上げ、静かに言った。

 重い扉がゆっくりと開かれる。

 入れと促され、おとこはおそるおそる門の内へと足を踏み入れた。おとこの背後で、門の閉じる音が響く。思わず目を閉じると長屋の戸口で血を流して呻く、家主の姿が浮かんだ。ぼんやりと、真っ赤に染まって見えるのは、おそらく女房と幼い娘だったのだろう。

 改めて、おとこは己の犯した罪の重さに慄き、犯してしまった罪の報いに怯えた。どれ程恐ろしくても、許しを請う資格は無い。どれ程の報いを受けても足りないほどに己の罪が重いことは、おとこ自身が誰よりよく分かっていた。


 獄卒鬼等に引かれるまま、竦む足を無理に進めて、やがておとこは大きな岩の岩陰に引き据えられた。岩に囲まれたその場所は、空さえ切り取られたように小さく、暗く陰っていて、ただ煮え滾る大釜の火だけが不気味に辺りを照らしていた。

 座れと命じられて、おとこは自分を縛り付ける為に用意された鉄柱にもたれ掛かるように座り込み、小さな空と四方から迫る岩を見上げた。当然の報いとはいいながら、こんなところで、四千年の間責め続けられるのかと、おとこは項垂れた。赤の獄卒鬼がおとこの手足を捉え、鉄柱に堅く括り付ける。青の獄卒鬼が、おとこに見せつけるように、大きな柄杓に炎の色の銅汁を汲み上げては溢した。

「口を開けろ」

 いよいよそう命じられて、腹の底が冷えるような恐怖に震えながら、それでもおとこは命じられた通り、口を開けようと努力した。元より、どの様な罰が下されようと、拒むつもりはない。がちがちと歯の根の合わぬ口を僅かに開けると、すかさず鉄鉤が抉じ入れられ、裂ける程に口を引き開けられた。

 ぎゃあっ——と、叫んだつもりだった。

 大きく開けられた口に、いっそ美しい程の光を放って滾る銅汁が流し込まれ、悲鳴は喉と一緒に焼き潰された。熱さとも痛さともつかぬ苦しみが、喉を下り、腸を焼き抜いて、やがて尻の穴から迸り出る。おとこの意思とは関係なく、身体が苦しみから逃れようと必死でもがく。

 五、六杯程も立て続けに銅汁を注いで、獄卒鬼は手を止めた。鉄柱に括られた手足を引き千切らんばかりにもがいていたおとこは、僅かに荒い息を吐いた。

——どうだ。

と、黒鉄の柄杓を手にした獄卒鬼が、おとこを嬲る様に云う。

「これをまだまだ繰り返さねば、銅の汁はなくならぬぞ。」

 滾る銅汁が幾らも減ってはいないのを見せつけ、おとこが許しを請うのを待つように、青の獄卒鬼はおとこを意地悪く睨んだ。

「やめておけ。」

 おとこの口を開けさせたまま、赤の獄卒鬼が言う。

「許されぬ罪を犯したと、知っているのだ。」

 青の獄卒鬼は、詰まらなそうにおとこを見ると、再び柄杓に銅汁を取った。

 それからは、おとこの口に休みなく銅汁が注がれた。息つく暇さえ与えられず、ただただ、熱さと痛みと苦しさに責め続けられて、どれだけ経ったものか。もしや、もうこのまま苦しみが終わりなく続くのかとそう思われ出した頃、獄卒鬼が手を止めた。

「今日のところはこれまでだ。」

 そう言って、鉄鉤が外される。

「明日にはまた、同じ目に合わせてやる。」

「——それまでそうしているがよい。」

 そう口々に言い置いて獄卒等が去ると、辺りはしんと静まり返った。大窯の炎さえ消え、闇に包まれた岩陰に、おとこは手足を括られたままひとり取り残された。

 責め苦の厳しさに精も根も尽き果てて、がっくりと項垂れたまま、おとこはしばらく苦痛に耐えていた。滾る銅汁を注がれ続ける事に比べれば耐えられなくはなかったが、喉も腸も爛れ切り、息をするのさえ難しかった。それでもしばらくすると、身体は次第に楽になった。苦痛に慣れたものか、それとも地獄の亡者の強靭さで、身体が徐々に回復しているのかもしれなかった。

 痛みから逃れると、おとこの脳裏に失ってしまったものが次々に浮かびだした。

 目を閉じれば、目蓋の裏に幼い娘の愛らしい顔が見える。女房の優しげな笑みが見える。

 口煩いが面倒見の良い家主の小言や、同長屋の者たちの呆れながらも心配げに意見する顔も浮かぶ。

 酒に溺れていた時には、煩わしかったそれらすべてが、どれ程大切なものだったかを思い知らされて、おとこは項垂れたまま涙を流す。目を閉じれば鮮明に脳裏に浮かぶこの愛おしいものたちは、目を開ければすべて消え失せ、おとこはひとり暗い岩陰で、罪の報いを受ける為に繋がれている。そのことがとても辛く悲しくて、おとこは目を閉じたまま、長い間涙を流し続けた。


「朝だ。起きろ。」

 そう言われて、おとこは項垂れたまま、ゆっくり目を開けた。

 地獄に昼夜の別があるのなら、これが朝なのだろう。辺りの闇は僅かに薄まり、何とも知れぬ鳥の声が、不気味に響いている。

 目を開けた途端、目蓋の裏に浮かんでいた大切な幻は瞬時に消え、縛られたおとこの前には赤青の獄卒鬼が立っていた。傍らでは既に、大釜の中で銅汁が滾っている。

 赤の獄卒鬼が黙ったまま、鉄鉤を取る。

 また、あの苦しみを受けるのかと思うと、おとこの身体が震えた。苦しみを知った分、昨日よりも恐怖は大きい。一度や二度で終わりはしない、四千年繰り返される罰なのだと頭では分かっていても、一度知った苦しみに身体は怯えおとこの思い通りには動かなかった。

 赤の獄卒鬼が怯えるおとこの、堅く閉じた口をこじ開ける。おとこは怖ろしさに叫んだ。

 自分が悪いのだ——頭の真ん中ではその言葉は鳴り響いている。しかし同時に、理性よりももっと深いところから浮かんでくる恐怖が、おとこの中で暴れてもいた。

 獄卒鬼等は、おとこが口を鉄鉤に抉じ開けられながら、怖い、怖いと子どものように泣き叫ぶのを聞いた。しかし、それでもおとこは決して、やめてくれとも許してくれとも云わなかった。

 赤の獄卒鬼が、おとこに哀れむ様な目を向ける。

 青の獄卒鬼が「強情な——」と呆れた様に呟いて、手にした柄杓の銅汁をおとこの口に注いだ——

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