罪過
淡い光の差す寒い朝、えんは引き回しの列を見た。
思いのほか早いその沙汰に、えんは少しだけおとこを哀れに思う。
はじめて見たそのおとこは、憔悴した顔を項垂れたまま裸馬の背に身を預けていた。抗うことも無く、やがて呆気なくおとこが獄門首になるのを見届けて、えんは今此処に居る。
日のある内にはちらほらといた物好きも姿を消し、首を見張る非人等も夜半を過ぎると帰って行った。
そうして闇の中、刑場はただ静まり返ってそこにある。
目を引く捕物道具と、獄門台を囲むように立てられた幟に捨札。真ん中に据えられた獄門台の上には、半月の白い光に照らされて、おとこの青い首が載っている。辺りは昼に融けた雪が凍りつき、月の光を浴びてきらきらと輝いていた。
青白く浮かび上がるおとこの首と、仄かに灯る閻魔堂の明かりを見比べるようにして、えんは小さく溜息を吐く。そして、やがて明かりに促されるように堂の前へ歩み寄ると、そっと扉に手を掛けた。
隙間から覘くのは、閻魔の庁の裁きの光景。
厳めしい顔で机下を見下ろす閻魔王。
その傍らには、掲げた鉄札に冷徹な眼差しを向ける具生神。
赤青の獄卒鬼が、恐しげな顔で閻魔王の足下に罪人を引き据えている——
浄玻璃の鏡が光を映し、すべてが途端に精彩を帯びる。
——えんか。
閻魔王の声に顔を上げ、えんは改めて堂内を見回した。須弥壇の下に引き据えられたおとこが、外の獄門首と変わらぬ青白い顔でこちらを見上げている。おとこの女房と子はまだ呼ばれてはいないようだった。
「さて——」
閻魔王の声が響いた。
「何故此処に居るのかは解っておろうな。」
おとこが力無く顔を上げる。
「——畏れながら」
具生神が応える。
「あの晩此の者は、強かに酔っていた由に御座いますれば——」
閻魔王が眉を顰める。
「覚えてはいないと申すか。」
具生神が「はい」と肯いた。
「仕様のない——」
そう呟いて閻魔王は、腹立たしげにおとこを睨んだ。
「ならばまずは此の者に、自分がしたことをとっくりと見せてやれ。」
赤青の獄卒鬼等が揃って「はっ」と膝をつく。獄卒鬼等がすぐさまおとこを取り押さえ、浄玻璃の鏡の前に引きずり出すのを、えんはただじっと見ていた。
澄んだ鏡の面に、おとこの姿が浮かぶ。
夕暮れ時の長屋。狭い中の家族三人の何気無いひと時。
やがておとこが何かを云うと、幼い娘は嬉しそうに肯いた。やがて幼子は湯呑みに汲んでもらった水を、嬉しげに父へ運ぶ。土間から小さな手が伸べられる。鏡に映るおとこは、その手には気がつかず、酔いに任せて眠り込んでいた。
子供は、湯呑みを手にしたまま沓脱ぎに足を掛ける。危なっかしい足取りで板間へ登った途端に幼子はよろめいた。湯呑みが手を離れ、寝ているおとこの上に水がぶちまけられる——
おそらくおとこには何が起きたのか解らなかっただろう。突然冷や水を浴びせられ、おとこは咄嗟に跳ね起きた。振り回された手が幼子を弾くのが早かったか、一歩後ろへ後ずさった子供の足が上り框を踏み外すのが早かったか。ともあれ子供はもんどり打って転がった。土間に落ち、柱に強かに頭を打ち付ける。母親が振り向き、目を見開いた。母親の悲鳴が、えんにも聞こえた気がした。
おとこが身を捩り、呻くように声を上げて、鏡から目を背けた。
獄卒等がおとこを叱りつけ、血を流して倒れる娘が映る鏡に、背ける顔を差しつける。
その様の余りの酷さに、えんはそっとおとこから目を背けた。見れば、閻魔王が悲しげにおとこを見下ろしている。具生神が小さく息を吐いて、手にした鉄礼に目を落とした。
「やめてくれ——」
おとこの泣く声が聞こえて目を戻すと、鏡の面には、娘に駆け寄る女が映し出されていた。幼子の頭の下には血だまりが出来はじめ、その首は不自然に捻じ曲がっている。鏡の中のおとこが、女を娘に近づけまいとするように手を振り上げる。
おとこの手に払われて、女が仰向け様に倒れるのが見えた。
倒れた拍子に女の手から包丁が弾かれる。弾かれた包丁は切っ先を下にして、仰向けに倒れ込んだ女の喉元へと、真っ直ぐに落ちていった。
獄卒等の手の中で、おとこが泣き叫ぶ。
しかしまだ、おとこの罪は終わりではない。
泣き叫ぶおとこは無理矢理に押え付けられて、鏡に差しつけられる。
鏡の中で、おとこは慌てたように戸口へと走る。蹴破らんばかりに戸を開け、飛び出そうとして、おとこは何かに強かに突き当たった。その勢いで部屋の中へと弾き返され、おとこは妻と子の流す血だまりの中へ倒れ込む。戸口に蹲る人影は、死にかけたという家主なのだろう。
浄玻璃の鏡の面が暗くなり、獄卒等がおとこから手を離す。
暴れていたおとこは、今はぐったりと項垂れて、力なく啜り泣いている。
「何故此処に居るのかが分かったか。」
閻魔王の声が響いた。
おとこは俯いたまま、小さく身を震わせている。
「本来ならば今すぐにでも、地獄の底へ追い落としてくれる処だが、その前に是非にお前と話がしたいと云う者がある。たっての願いとのことゆえ特に許した。」
おとこが顔を上げる。
傍らにおとこの妻子が立っていた。
「暫し時をやる。存分に話すがいい。」
呆然とするおとこにではなく、おとこの妻子にそう言って、閻魔王は口を噤んだ。
目の前に、その手で害した女房と子が立っている。
女房は幼子の手を取って、黙ったまま静かにおとこを見下ろしていた。
二人が、今どんな顔で自分を見ているのかと思うと、おとこは俯けた顔が上げられない。地につけた手は、おとこの思いを映して震えていた。
幼子がじれたように母を見上げる。女は幼子の手を離し、おとこの傍らに膝をついた。
おとこは身を縮める。
「お父っちゃん」
不意に舌足らずな声が響き、娘がおとこの膝に縋りついた。
おとこの目に涙が溢れ、ぎこちなく伸びた腕がそっと小さな娘を抱く。邪険にされないことに気を良くしたのか、幼子はおとこの膝の上でにっこりと笑った。
ふ、と小さな笑い声がした。思わず顔を上げると、笑みを浮かべた女房の顔があった。幼い娘が父と母の顔を見上げて、満面の笑みを浮かべる。
おとこの顔がみるみる歪み、涙が零れ落ちた。
嗚咽するおとこの肩に女がそっと寄り添う。膝の幼子を見下ろし、女房の顔を見上げて、詫びようと口を開き、おとこはどうにも言葉が見つからずに、項垂れて口を閉じた。
己のした事を、して来たことを、詫びる言葉など無かった。詫びようが無い。
詰らぬことで世を拗ね、酒に逃げ、世間に背を向けた。その癖、世間に背を向けられるのは腹立たしかった。それは、構って欲しくて、背を向け拗ねて見せる幼子と同じだ。己は幼い娘よりも、まだ幼かったのだ——
知らず零れた涙を頬に受けて、膝の上の娘がおとこの顔を仰ぎ見る。
幼い娘と女房は、こんな己を最期まで見捨てなかった。それに甘え、護るべきものに守られて、おとこは唯何にも向き合うことなく逃げていた。
その挙句——
おとこは己のした事を思い出す。
人生で最も取り返しの付かない過ち。しかしその記憶はあの夜のものではなく、さっき見た、浄玻璃鏡に映し出されたものだった。
それに気がついて、おとこは再び涙を流す。
一番に護らねばならない者を殺めた記憶さえ、自分には無い。
気に掛けてくれた人を傷つけてしまった記憶さえ無い。
嫌なことを忘れてしまいたいと、酒に溺れ、現実に背を向けた。本当に忘れてしまうまで、無くしてしまうまで、その大切さに気がつくこともしなかった。その愚かさこそが、己の最も重い罪なのだと気がついて、おとこは涙に濡れた顔を上げた。
おとこの心の内が分かっているように、女は僅かに微笑みを浮かべたまま、じっとおとこの傍らに寄り添っていた。
——すまない。
掠れた声でかろうじて呟いたその言葉は、詫びではない。
詫びる事など出来はしない。
それは、おとこが自身に言い聞かせたものだ。己の犯した罪は、詫びて済む事では無い。済ましてはいけない事なのだ、と。
「己の罪が理解ったか。」
眉間に深くしわを刻んだまま、閻魔王が厳しい声でおとこに問う。
おとこは閻魔王を見上げ、涙を浮かべたまま「——はい」と絞り出すように言って肯いた。
何かを察したのか、幼子が小さな手でおとこの膝にしがみ付く。えんはおとこの傍らに静かに膝を折り、幼いその子に言い聞かせるように云った。
「お父っちゃんはね、罪を犯した。だから、これから罰を受けなくちゃならない。誰に頼ることも出来ない、誰にもどうしてやる事も出来ない——」
そう云って、えんは一度おとこに目を遣り、不安げに顔を歪ませる幼い子に優しく笑いかける。
「——だから、せめて願ってやっておくれ。お父っちゃんが、その辛さに負けないようにって、ね」
幼子は泣き出しそうな顔でじっと父を見て、えんに小さく頷いた。
「お前達は、もう行くがいい。」
閻魔王が静かにそう云った。
「これから、このおとこに裁きを下さねばならぬ。この者も、その様をおまえ達に見せたくはないだろう。」
閻魔王の言葉に、おとこはそっと幼子を膝から下ろし、強く唇を噛んだ。
女が黙って幼子の手を取る。
「お父っちゃんも、あとで来るだろう?」
子供が母親の顔を見上げて云う。
——そうだねえ。
と、母は曖昧に頷いた。
「待ってるからね。」
そう言って、子は真っ直ぐに父を見る。
おとこは懸命に笑みを浮かべて、
——ああ。
と、頷いて見せた。
「もう、行ってくれ——」
堪えられず、おとこはそう言って俯く。
女は悲しげな笑みを浮かべ小さく頷いて、子の手を引いた。幼い子供が名残惜しそうにもう一度おとこを見る。おとこが優しく笑ってやると、幼子は母と共に消えて行った。
後にはひとり残されたおとこが、ただただ涙を流して項垂れている。
「——面をあげよ。」
閻魔王が、厳しい声で言った。
「分かったか、あれがお前が無くしたものだ。自分のその手で無くしてしまったものだ。」
項垂れたままおとこが呟く。
「何も、覚えてさえもいないんです。自分では、何も——」
——黙れ!
閻魔王がおとこを一喝した。
「それだからこそ、お前の罪は重いのだ!」
おとこが閻魔王を見上げる。
「分かって居ります——」
そう叫んで、おとこは泣き崩れた。
「そうか」
閻魔王が少しばかり声音を和らげる。
「覚えておらぬから罪は無いなどと言うようなら、闇の中にひとり放り出してやろうかと思ったが——」
えんはふと思い出す。地獄の最奥の無間地獄の片隅に、『孤地獄』という地獄があるという。
たったひとり、孤独の中に永劫の時を放って置かれるならば、今のおとこには何より辛い罰だろう。
「しかし——己の犯した罪の重さが分かっているというのなら、相応の罪の報いを受けるがよい」
閻魔王はそう云って、浄玻璃の鏡を指す。
鏡の面に地獄の様が忽ちに現れた。
「これは飲酒の罪を犯した者を責め苛む、叫喚地獄の有り様だ」
そこには、手足を鉄柱に括られた罪人が、獄卒鬼等に責められていた。
「此処では酒が銅汁に変じる。罪人は一生分の酒——煮え滾る銅の汁を、一昼夜の内に口へ流し込まれる。焼け爛れたその身は朝には元へ帰り、また一昼夜かけて銅汁を飲まされるのだ。」
これを——と、閻魔王はおとこを睨む。
「四千年の間繰り返すのが、酒に溺れた罪人どもの受ける罰だ。」
鏡の面に、こじ開けられた口に容赦なく銅汁を注がれ、泣き叫ぶ罪人の様が映し出される。
おとこは身を竦めた。
自分の罪の深さが分かっているからこそ、映し出される地獄の様は、恐ろしかった。おとこには、許しを乞う資格など有りはしない。ただじっと、与えられる苦しみに耐える他に道はない。だからこそ、もがき苦しむ罪人の様は、身体の芯が震える程に怖かった。
震えるおとこに、追い討ちを掛けるように閻魔王は云う。
「たとえ地獄の責め苦に耐え抜いたとて、許されるものとは思うな。お前の罪は償えるものではない。この先にはただ、罪の報いがあるばかりだと、そう思うがよい!」
——連れて行け。
殊更に恐しい顔でおとこを睨み付け、閻魔王が赤青の獄卒鬼に命じた。おとこが震えながらも獄卒等に従って立ち上がるのを見送って、えんは閻魔王を仰ぎ見る。
閻魔王は哀しげな目を、おとこの消えて行った闇に向けていた。
傍らに立つ具生神が、そっと目を伏せる。
えんは小さな溜息を吐いて、そっと閻魔堂を出た。師走も半ばの、肌を切るような冷たい風が吹き過ぎてゆく。空に光る半月は、既に傾きかけていた。