仕置
おとこの仕置きが決まるまで、そう時は掛からなかった。牢格子に藁縄が結ばれ、覚悟して置けと云われた時、おとこはむしろほっとした気持ちになった。
あれから、狭い牢から連れ出され調べを受ける度に、おとこは逆に自分のした事を聞かされた。
幼い娘は、狭い三和土の柱に頭を打ち付けて死んでいた。小さな手には柄杓が握られたままだったという。女房は喉を切り裂かれ、これも三和土に蹲るようにして死んでいた。女房の喉を切り裂いたらしい包丁は、戸口に倒れて呻く大家の腹に刺さっていた。事が起こる間際まで、流しの片隅で晩の支度をしていた女房が手にしていた筈の包丁だった。
「おそらくは——お前がやったのだ。」
呆然と耳を頃けるおとこに、役人は云った。
「何があったかは分からぬが、お前は幼子を三和土に落として殺し、女房の喉を切り裂いた。そして、騒ぎに気付いて駆けつけた大家を刺した。おそらくそれは、間違い無い。」
そんなわけはない——
そう言い切れるだけの自信は、おとこにはなかった。
酒に溺れていたとは言え、暴れることは少なかったと思う。それでも幼い娘を払いのけ、擦り傷をつくらせたこともある。酒を買って来いと女房を突き倒したこともある。殺そうなどと思う気持ちは元よりあろう筈がないが、ふとした不運が重なれば、いつかこんな事が起きて仕舞うのではないかと、そんな不安を感じたことが無かったわけではない。ただこれ迄は、そんな不安を笑い飛ばし、考えずに来ただけだ——
白い顔で黙り込むおとこを見て、役人は憐れむような顔をした。
「お前が、妻や子や日頃世話になっている大家を、平気で殺す男だとは思わぬ。憎しみに駆られてやった事とも思えない。」
実際、大家は生死の境を彷徨っているものの、まだ生きている。その上おとこは逃げ出すどころか、酔いつぶれているところを難なく取り押さえられているのだ。
「お前は酒に呑まれて居ったのだろう。だからお前は本当に、何も覚えてはいないのだろうが——」
最後に役人はそう言って、おとこを哀れむように深い溜息をついた。
どうあれ、おとこが死罪を免れないであろう事は、明白だった。
「女房、子は、長屋の者が弔ってくれたそうだ。」
だから安心しろと、調べも終わりに近づいた頃、その役人はそう云った。
葬儀を取り仕切るべき大家は、おとこのせいで生死の境を彷徨っている。まともな葬式が出せた筈がないことは、おとこにも判った。大家の家族に気を使いながら、長屋の者がひっそりと送ってくれたのだろう。だが、その役人は、おとこの心の内が分っているように、何も心配するなと、そう言った。
そうして間も無く、おとこの調べは終わった。
後は御沙汰を待つばかりである。
本来ならば、妻子や、大家や、同長屋の者からの嘆願があるのだろうが、おとこにはそうしたものもありようが無かったから、余計に沙汰の下るのも早かったのだろう。
幾日もせず、おとこの牢の牢格子には死罪人の出る印の藁縄が結ばれた。
明日にはおとこは沙汰を受け、刑場へと引き出されてお仕置になるのだろう。どんな沙汰が下るのか。引き廻されるのか、晒されるのか。首を打たれるのか、磔になるか。
どんな沙汰が下ろうと、おとこは恐ろしいとは思わなかった。ただ、あの世で女房子が待っているかもしれぬと思うと、それが怖かった。
どうして、こんな事になってしまったのか——
牢格子に無造作に結ばれた藁縄に目を遣りながら、おとこはぼんやりと考えていた。
おとこが酒に溺れ始めたのは、娘が生まれて間もない頃だ。
始まりは、怪我だった。
その頃のおとこは、若いながらも腕がいい、将来が楽しみだと云われるような大工だった。それが、僅かの油断から大きな怪我をした。仕事が続けられなくなるような怪我では無かったが、当分の間仕事を休まざるを得なかった。その時間は、まだ若いおとこにとってあまりに長かったが、それでもその時はまだ、怪我が治りさえすれば元のように仕事に戻れると信じていた。
しかし、漸く傷が傷が癒え張り切って戻った仕事場に、おとこの居場所は無くなっていた。彼よりもずっと技術の未熟だったはずの仲間達が、腕を上げ、おとこのいる筈の場所で仕事に励んで居るのを見て、おとこは仕事をする意欲を失った。休まず仕事に励んでいた者の腕が上がるの当然の事、拗ねずに仕事に向き合っていたなら、僅かばかりの腕の差など忽ちのうちに埋められた筈だと、今では分かる。しかしその時の男には、その僅かの差がひどく面白くなかった。
だからおとこは仕事に行くのをやめた。する事がないから、昼でも酒を飲むようになった。はじめは気にかけてくれていた親方も、時がたつにつれて顔を見せなくなり、やがては完全に見放された。そうしてその頃には、おとこはすっかり酒に溺れていた。
——仕方が無かった。
湧き上がってくる虫のいい言葉が本心でないことは、おとこ自身が一番よく分かっている。拗ねた子供のようだとわかっていながら、立ち直る切っ掛けを失ってしまったのだ。今になって思えば、ただ己の情けなさに腹が立つ。
腑甲斐ない親を持った娘は、おとこの呑んだくれた姿しか知らない。それでも幼い子はおとこを慕い、幾ら邪険にしてもすり寄ってきた。偶に相手をしてやれば、嬉しそうに笑っていた。思えば可愛い盛りだった——
もしも、あの世で会ったなら、娘はどんな顔でおとこを見るだろう。つまらない自尊心を傷つけられたおとこが、どれほど荒れた時もそっとおとこを支え、優しく微笑んでくれた女房は、どんな目をしておとこを見るのか。明日自分が死ぬ事よりも、その事を思う方がおとこには堪らなく怖かった。
夜が明けて、やがて役人がやって来た時、おとこは狭い牢の真ん中にただじっと座っていた。
憔悴した様子のおとこを見て、役人は「案ずる事はない」と、静かな声でそう云った。
牢屋敷の白州に引き据えられ、町内引き回しと打ち首獄門の仕置きを言い渡されて、おとこは引き回しの裸馬にまたがった。幾日かぶりの外気は冷たく澄んで、頭上に広がる鈍色の冬の空には、淡く光が差していた。牢から付き添ってきた役人がおとこに近づき、小さな数珠をそっとおとこの懐へと入れた。
非人等が押し立てる物々しげな捕物道具と捨札、幟に先導されて、引き回しの列はゆっくりと進んだ。裸馬の背から見る風景は、見慣れたものの筈なのにまるで屏風絵でも見るようで、待ち受ける死も、浴びせられる罵声も、非難の目も、何もおとこの心には響かなかった。だからおとこは、ただ俯いたまま裸馬に揺られていた。
ふと、懐かしい匂いがして、おとこは顔を上げた。
ついこの間まで、おとこが妻と子と暮らしていた長屋が目の前に見え、不意におとこの胸が酷く痛んだ。急に景色に色がついたような気がして、居並ぶ野次馬の中に、同長屋の者たちの顔がやけにはっきりと見えた。ついこの間までは、どうとも思ったことのない、むしろ煩く思っていた顔が、今日ばかりはひどく懐かしい。見慣れた顔の中に、何時しか女房と娘の顔を探していることに気付いて、おとこの目から涙が零れ落ちた。
通り過ぎるおとこに、同長屋の幾人かがそっと手を合わせる。
ああ、死ぬのか——
おとこは不意にそう思った。
酔いに紛れて、ろくに覚えていない筈の日々の暮らしの断片が次々に脳裏に浮かび、そして最後に血だまりの中の自分の姿が浮かんで、おとこはきつく目を閉じた。しかし、一度戻ってきた記憶は、なかなか去っては行かなかった。
小さな長屋の前を、引き回しの列は忽ち通り過ぎ、懐かしい顔も匂いも後ろに過ぎていった。同長屋の者たちが、女房、子を弔ってくれたのだったと、通り過ぎてしまってから思い出し、おとこは遅れ馳せながら固く心の内で手を合わせた。おとこの目には、再び涙が浮かんでいた。
歩みは遅いとはいえ、広くもない町内を巡る引き回しはそう時もかからず、間もなくおとこはこの世とあの世の境のような、小さな橋を渡った。此処から先には、おとこの死に場所となる刑場があるばかりである。
わけも分からずあとをついてきた子供らは橋の手前で追い返され、野次馬の多くも橋を渡っては来ない。橋の此方側までついて来るのは、御役目のある者か、罪人の家族、そうでなければ獄門首を見届けてやろうという物好きばかりで、辺りは俄に物寂しくなった。
細く延びる道を、引き回しの列は相変わらずゆっくりと進んでいく。
師走の風は冷たかったが、冬枯れの野には昼前の日が差して、点々と残る雪を解かし始めていた。
少しばかりの道程を進むと、目の前にはもう刑場らしい竹矢来が見える。おとこが僅かに身じろぎするのを見逃さず、付添う役人が宥めるようにそっとおとこのひざに手を置いた。
引き回しの列は刑場の手前で左に寄り、小さな堂の前で止まった。馬から下ろされ、閻魔堂だと告げられて、おとこは堂内へと入れられた。
「前非を悔い、暫し後生を祈るがよい」
そう言い置かれ、堂の扉が閉められる。見上げると、薄闇の中に怒りの表情を露わにした恐ろしい閻魔の像が、おとこをじっと見下ろしていた。
許しを請う勇気も無く、おとこは静かに項垂れる。
ただ後悔だけが胸に迫った。
死んだなら、閻魔は彼の罪を裁いてくれるだろうか。地獄へ堕ちて罪が償えると云うのなら、いっそそうして欲しかった。
暫しののち扉が開けられ、おとこはむしろほっとした気持ちで堂を出た。
鈍色の空の下、刑場にはすでにおとこのための用意が整っている。自分の首が晒される筈の獄門台は、丈夫そうだがやけに雑な造りに見えた。
獄門台を見つめる男に、役人がぽつりと「家主の親父は快方に向かったそうだ」と、そう囁いた。それは、僅かでも心を軽くしてやろうという、役人の方便かも知れなかったが、おとこはほっと深く息を吐き、「良かった」と心の底からそう言った。
やがておとこは促され、土壇に立った。
面紙を掛けられ、座らされる間際に、切り手と目が合った。
切り手の侍は静かに笑って、「任せておけ」とそう云った。
胸の底に、遣りどころのない痛みを感じながら、おとこは静かに項垂れた——
それは本当に一瞬の事だったらしく、おとこは自分が死んだ時の事を覚えてはいなかった。