心の叫び、そして焦り
お昼に頂いたコンビニの素麺が美味しいこと。味覚とお腹を満足させてくれただけでなく、普段あまり接することのない季節感をも蘇らせてくれた素麺ですが、またすぐに目の前の狭い現実に戻ることになります。午後一番にやって来る小柴に相対する準備をしなければなりません。暗にではありますが、今回の面談から本格的に「治療」が始まるのです。
いつも通り、遅れることなくクマ男は診察室に入ってきました。ただ、いつもとは違うデスク上の様子に、間もなく目を奪われたようです。
「気になりましたか?」
「まぁ、今まではなかった物ですからね」
顔を綻ばせるとか声が上ずるとか、そんな変化は決して見せることなく、クマ男は至って冷静に席へ着きました。しかしまだ興味は失っていないようで、私が用意しておいた物に手を伸ばします。
「今日はお絵描きの時間なんですか?」
若干ながら、ようやくクマ男の顔が柔和になりましたが、「こんなことやる必要あるの?」という呆れ顔に近いでしょう。物珍しげに十二色の色鉛筆を眺めてからデスクに戻すと、次は真っさらなスケッチブックをパラパラと捲るクマ男。これから始める「お絵描き」について説明しておかなければいけません。
「最近見た夢の覚えているワンシーンを簡単に描いて頂きたいんです」
「なるほど。病的な人がやらされそうなことだ」
「いえ、そんな意味深なものではないですから。ちょっとした心理傾向を掴むためなので、軽いゲーム感覚でやってみてください」
私はコーヒーを準備するために流し台の前へ移動しました。
「もう始めてもいいんですか?」
「すぐに思い浮かぶのでしたら初めてもらって構いませんよ。あ、そうですね。だいたい四十分を目安に絵を完成させてもらえますか。その後に完成した絵を基にいくつか質問させて頂くので」
電気ポットからコーヒーパックがセットされたカップに湯を落とし、それとほぼ同時に沸き上がるコーヒーの香りが辺りに広がると、早速背中からサッサッと、尖った鉛筆が画用紙の上を滑る音が聞こえてきました。私はクマ男の分のコーヒーだけをデスクに置き、「それでは私は四十分後にまた来ますね」と残して診察室を出ます。このような〝テスト〟を行う場合、制作過程を見届けた方が良いケースもありますが、今回はその場に居合わせて私の目を気にさせるより、気兼ねなく自由に描いてもらうことを優先したのです。
約束をした四十分後、私は診察室へと戻ります。すでにクマ男は絵を完成させており、椅子の背もたれに寄りかかって携帯電話をいじっているところでした。
「お待たせしました。だいぶ前に完成していたんですか?」
「そうですね。五分くらい前には」
クマ男の絵に目をやると、その完成度に驚かされます。私は席に着き、一言断ってからスケッチブックを手にしました。
「お上手なんですね」
「そんなことないですよ」
ぶっきら棒に謙遜するクマ男ですが、彼の表情からは自尊心のようなものを感じました。
約三十分という制限された時間で描かれたクオリティーには思えないその絵は、背中を向けて立つ男の向こうに、この世に存在するすべての悲しみや憎しみを包み込んでくれそうな頬笑みを浮かべる観音菩薩が立っている構図です。決して丁寧なタッチではありませんが、拙速とも言えない味わいが感じられます。
「絵を描くのはお好きなんですか?」
「子供の頃は好きでよく描いていましたが、今はまったく描く機会なんてないですからね」
「それにしては目を見張る出来ですね。素晴らしいと思います」
これ以上は謙遜することのなかったクマ男を確認してから、私は絵を使っての質問を始めます。
「このワンシーンはどんな夢から描かれたんですか?」
前傾し、もうすっかり冷めているであろうコーヒーを一口含んだクマ男は、再び背もたれに寄りかかり、組んだ両手を股の間に下げて話し始めました。
「ちょうど昨夜見た夢で、はっきりと全部覚えているわけじゃないんですが、無実の罪で西洋風の城にある地下牢へ閉じ込められた俺が、その苦しい環境に挫けて罪を認めて楽になろうとしていたときに、何故か観音菩薩が目の前に降りてきて『なすがままでいいのよ』と言ってくれたんです。その前後にも何か色々あったんですけど、もう覚えてないんですよね」
メモを取りながらも、その内容に私の関心はありません。何故なら、彼は虚言癖なのですから。嘘の可能性が高い夢の話より、私は絵の描き方や構図など、他の所に注目がいっていました。
まずは描かれた対象に注目してみましょう。絵の中に登場しているのは、観音菩薩と、背中より上だけのクマ男本人。観音菩薩は衣装や装飾などは大雑把なのですが、それでもよく観察し、過去に何度も描かいていないと成しえないような仕上がりになっています。色使いとしては、黒の線がほとんどで、所々に薄い赤と黄色がアバウトに混じっている以外は画用紙の白がそのままです。人間との差別化か、肌色は使われていません。
中でも特筆したいのは、菩薩の表情です。前出にもあるように、失礼ながら小柴の容姿からは考えられないほど菩薩の表情は優しく、温かみを感じました。これはとても重要なポイントで、これだけの菩薩の表情を描けるというのは、小柴自身の精神も穏やかで安定していることが窺えます。
それは全体の構図からも言えるでしょう。右下には背中を向けた小柴がいて、その小柴越しに立つ菩薩は絵の中心に描かれており、違和感なくバランスが取れているのです。絵が上手か下手かというのは関係ありません。
一方の背中を向けている小柴は、囚人であることの表現でしょうか。裸ながら首にだけ鉄製と思われる首輪をつけ、坊主頭をしています。その頭だけでなく、小柴の体系よりもぽっちゃりとしているので初見では小柴だとわかりませんでしたが、体の色は無難に肌色が使われているので、ここでも精神面の異常性はないと判断しても良いでしょう。代わりに気になったのは、小柴が本人であると言う男がスリムであったり、筋肉質であるわけでなく、ぽっちゃり体形だということ。しかも、その背中には鞭で叩かれたのか、三ヵ所の傷痕も見られます。
ここからも小柴が自分を良く見せようとする虚栄心が見られないことがわかったのですが、何故、実際よりも太らせる理由があるのでしょうか。私が頭に浮かんだのは、小柴は自分にコンプレックスを持っているのではないかということです。それは体形だけでなく、背中を向けていることで顔を描いていないことから、自身の顔にもコンプレックスを持っている可能性も読み取れました。コンプレックスへのマイナスな思いがそのまま肥大化すると、いずれ精神に支障を来たし、二重人格を生み出すというケースも少なくありません。
しかしこのタイミングでいきなりコンプレックスについて尋ねるには唐突すぎます。私はこの場面ではあまり価値を見出していない夢診断を受け入れたふりをして利用しながら、目的の話題に辿り着くよう謀ってみました。
「ちなみにその夢から単刀直入に判断すると、無実の罪で地下牢に入れられていることからして、周囲からの評価に納得がいっていないということ、そして自由の利かない閉塞感を潜在的に抱えているのではないかと思われます。また、観音菩薩が降臨して『なすがままでいい』と助言をしているというのは光明と捉えることもでき、今は報われない日々が続いていますが、今のままでいれば事は好転するのではないかというのが、一般的な夢診断の結果にはなります」
「それで……」
クマ男の顔が引き締まりました。
「俺の虚言癖がわかったんですか」
「いえ、小柴さんが話してくださった夢のこと、そして描いてくださったこの絵から、虚言癖についてどうにかしようとは思っていません。今後のデータの一つとして小柴さんの精神状態を出来る限り把握しておきたかったのです。もちろん、今回やって頂いたことですべて把握できたわけでもないですし、当たっているかもわかりませんので、お互いに参考程度に頭の隅にでも入れておきましょう」
完全に承服した様子ではないですが、自分を納得させるように何度も頷くクマ男。それでも腑に落ちなかったのか、強い眼差しで私を見ました。
「先生。俺は本当に虚言癖なんですかね。何かね、最初は気にしてなかったし、もちろん今だって自覚もないんですけど、そう疑われているのかなって思うと、人と話すのが億劫になってきてね。できることなら、自分で金を払ってでもここへ来る頻度を増やして、一刻も早く治したいと思うようになっているんです」
今までにないようなクマ男のトーンに、これは本心の叫びと私は受け取りました。こちらで勝手に決めておいた順序は一度棚に上げ、クマ男を安心させてこの後の治療を前向きに受けてもらえるようにしなければいけません。
「不安な気持ちにさせて本当に申し訳なく思っています。しかし、残念ながらまだ小柴さんがはっきりとした虚言癖だという確証を持てていません。ですから、お忙しい中ではありますが、何度もお越し頂いて面談を重ね、今日みたいに別の角度からもヒントを得られればという思いで今はやっています。そしてやれるだけのことをやった上で症状を判断し、それに見合った対処をしていくつもりです。これからも気に障ることを聞いてしまうかもしれませんし、退屈で面倒なことを強いるかもしれませんが、どうかご自身のためだと思ってお付き合い頂けませんか」
私の真剣な思いが伝わったのか、クマ男は鼻で大きく息を吸うと、それをまた大きく吐き、「わかりました。俺も早く本当の自分を取り戻したいですから」と、何とか受け入れてくれたのです。
正直なことを書くと、これまでの私はクマ男について非常に軽視していました。現在進行形で私が抱えている患者の中ではクマ男が最も軽い症状であることは間違いなく、精神科医として細心の注意を払っておくべき自殺をする恐れ、また、自分や他人を傷つける恐れもないと見なしていたのです。何を書いたところで言い逃れになってしまいますが、本人による焦りも見られなかったことも理由の一つになります。
しかし事情は変わりました。クマ男は自腹でもここへ来る頻度を増やしたいと、言わば心の悲鳴とも言える告白をしたのです。このままだとクマ男は益々、自分を卑下し、そのやり場のない気持ちを自分や他人にぶつけるようになる危険性もありました。これはクマ男のSOSです。私は医師としてこのSOSを見過ごすわけにはいきません。時は急を要します。私は殴り書きしてある「コンプレックス」という文字を丸で囲み、そこからスタートした矢印を欄外に引っ張りました。
「それでは、先ほどの流れで感じたことを端的にお聞きします。小柴さんは何かコンプレックスをお持ちなのではないかと」
それを聞いたクマ男は、彼らしい低い声で「コンプレックス……」と一言呟いた後、ゆっくりと前のめりになり、両肘をデスクについて顔の前で手を組みました。無意味に擦り合わせて動く二本の親指。私の焦点がそちらに合ったのを見計ったように、その向こうでぼんやりと見えるクマ男の口が動きます。
「言われてみれば、それこそコンプレックスのコンプレックスかもしれませんね、俺は」
コンプレックスの、コンプレックス……。初めてクマ男の深い闇が見えたような気がしました。この闇を掘り起こせば、彼の虚言癖に通ずるものが何かあるかもしれない。私はそう思いました。
「詳しく聞かせて頂けませんか」
クマ男は暫し宙を見上げ、何かを考えてから視線の先を私へと戻し、落ち着いた様子で話し始めます。
「この可愛げのない顔、怠けきった体、地獄から蠢くような声、そして救いようがない曲がった性格……。どいつもこいつも、俺にとってはコンプレックスですね」
私は頭をフル回転させ、あえてこの局面で前回に話してもらった話の真偽を確かめます。。
「そう思うようになったのは、ポルカさんとの失恋の後ですか?」
「……違いますね」
意外にもクマ男はすんなりとポルカさんの名前を吸収し、その存在を否定することなく話を継続させてきたのです。これまでは過去の話をとぼけてきたクマ男だっただけに意表を衝かれましたが、ここで動揺を見せるわけにはいきません。
「では、いつから?」
仏頂面のクマ男が微かに笑いました。
「俺が何を言っても、どうせ信じてもらえないんでしょ」
ここは毅然とした態度で臨まなければなりません。
「小柴さんの答えが事実であろうと、偽りであろうと、今の私にとっては小柴さんの話すことすべてが大切なデータになります。だから、どうか教えてくださいませんか」
話を聞いていたときは仏頂面に戻っていたクマ男の顔が、また微笑んだのを私は見逃しませんでした。
「やっぱり、異性の存在を意識し始めてからになるのかな」
「そうなると、中学生くらいですかね」
「いや、幼稚園でしょう、それは」
予想外に早いな、と思いましたが、こと恋愛に関しては私の感覚は当てになりません。ただ、コンプレックスを意識するには早すぎる気がします。結局のところは、「また始まった」ということなのでしょう。私は質問や応対が邪険にならないよう心掛けました。
「好きな子がいたんですね」
「好きな子っていうか、先生が好きだったんです」
「ああ、先生でしたか。それで、どんなときにコンプレックスを意識するように?」
「言っても相手は大人の女性ですから。どれだけこちらが必死にアプローチをしても、やんわりとあしらってくるし、本気にしてくれない。そのうちに男の存在をちらつかせて俺の求愛を拒むようになり、仕舞いには大人の男と園児の俺を比較して完膚なきまでに扱き下ろしてきたんです。そうなりゃ、自分を全否定したくなるし、自信だってなくしますよ」
「なるほど……」
真剣な表情で私は記録をしていますが、この話もまず嘘で間違いないでしょう。しかし幼稚園という時期は嘘でも、年上の女性に傷つけられてコンプレックスを持ったという話は現実味があります。
「だとしたら、その経験によって年上の女性に恐怖心にも近い嫌悪感などをずっとお持ちになっているんじゃないですか」
「これがその逆で、あのとき以来、年上女性にしか興味がいかなくなりました」
「それは復讐心?」
「復讐と愛情はイコールしませんよ」
もう一度確認しておきますが、こと恋愛に関しては、私の感覚は当てにはなりません。薄っぺらで幼稚な私の恋愛観は。
「もしかして、ポルカさんも年上だったんですか?」
「もちろんですよ。十八、上でした」
「十八?」
私はポルカのことを年下の若いウクライナ人女性と勝手に想像していたのですが、見事に裏切られました。
「かなり年上だったんですね、ポルカさん」
「熟れたいい女でしたよ、あいつは」
クマ男は背もたれに身を預け、腕を組んでポルカさんとの素敵な想い出に耽るような表情でそう零しました。しかし引っ掛かることがあります。彼が話したいずれのコンプレックスも、恋愛をするには足かせになり得るということです。
「コンプレックスが恋愛をする上で障害になることはなかったんですか?」
「障害?」
話に矛盾を作らないようにするためか、クマ男が慎重になった気がしました。
「いや、コンプレックスが障害になることはないでしょう。少なくとも俺には起爆剤にしかならないですね。こんな容姿だからこそ、こんな声だからこそ、こんな性格だからこそ、高嶺の花を掴んで優越感に浸ってやりたいって思いながらいつも恋をしていますよ」
「そうなんですか。逞しいですね、小柴さんは。今、ちょうどここに通っているコンプレックスに悩む患者さんに聞かせてあげたいです」
この後もクマ男のコンプレックス観について色々と探ってみましたが、コンプレックスをコンプレックスとも思わないような発言が続き、果たして本当にコンプレックスだと思っているのかと訝ってしまうほどでした。私はこのとき、直感的に「反動形成」という言葉が頭に浮かびます。反動形成とは、対外的な抑圧から自我を守るために無意識のうちに逆の行動を取ってしまうという防衛機制の一つで、例えば苦手な人に対してそれが表に出ないようにと、思いとは裏腹に苦手な人に対して過度な愛想で接してしまうことを想像していただくとわかり易いかもしれません。ただ、反動形成とは決して病的なものではなく、通常に生活をしている誰しもが持ち合わせていてもおかしくない心理状況の一つです。そもそも、クマ男によるコンプレックスの話は嘘である可能性が、いえ、もうはっきりとどうせ嘘なのですから、未開の広大な大地で黄金を探すように、嘘話から真実の欠片を見つけ出すことが大事でした。
結果、この時間にわかった事実だけで判断すれば、クマ男の持っているコンプレックスは虚言癖に影響していないと結論づけることができました。総体的に見ても、クマ男からは心の闇を感じません。これは、以前に聞いた特異な経験談もすべて嘘だからなのでしょう。クマ男は虚言癖です。しかし病的なものではないと思います。私がすべきことは、現状から悪化させないこと。彼は明らかに焦りを感じていました。恥ずかしながら、ここにきてようやく私も焦りが出てきたのです。