身辺調査
小柴がポルカとの大恋愛を語ってくれた同じ週の土曜日。私は精神科医の権威、アメリカはキング・カールソン大学で名誉教授をされているジェイソン・ブライト教授の講演会を拝聴しに大阪へと足を延ばしていました。
新幹線に乗るのは、それより約半年前に神戸でお世話になっている先生の研究発表会があったとき以来。いつも通過するだけになってしまった故郷名古屋はもう三年は帰っておらず、実家ともなるとそれ以上遡らなければなりません。医師になりたての頃は一方的に連絡をよこしてきた父ですが、こちらの冷ややかで他人行儀な対応にようやく自身の過ちに気づいたのか、もうすっかり音沙汰がなくなりました。現在は名古屋に戻っている母を通じて最低限の、本当に最低限の連絡を取り合うのみです。
そんな憂鬱な記憶をぶり返してくれる名古屋を越えれば、一時間もかからずに大阪へ到着します。東京にはない厚くて深い人情味が滲み出た活気。そもそも名古屋人は東向きの人間が多数を占めており、西には背中を向けがちです。しかし、すっかり東京人になりきっている私でも、大阪に来るといつも新鮮な都市の空気を感じ、縮こまっていた羽が伸びた気分になります。
某国立大にて午後二時より始まった講演の後、一時間程度のみですが懇親会にも顔を出してから、私は当初から持っていた目的を果たすべく、研修医時代の先輩である渡会さんに所要が終わったことを告げる電話をしました。渡会さんは私より三歳年上ですが、学年としては一つしか離れておらず、交友関係を作るのが下手な私でも進んでコミュニケ―ションが取れた数少ない先輩、そして友人でもあります。彼女とは事前に夕食の時間を取って頂く約束をしていたのです。
渡会さんと待ち合わせしたのは、大阪では定番とも言える戎橋の上。もちろん初めて来たわけではないのですが、毎回、大阪を訪れる度に最も関西のパワーを感じる場所でもあります。約二年ぶりとなる渡会さんの笑顔は、それだけで彼女の充実ぶりがわかる健康的なものでした。それと同時に、良い年の取り方をしているな、という羨望の気持ちと、私にとっては研修医時代から変わらない憧れの女性像を維持している渡会さんへの尊敬の念を抱き直すのです。
簡単な挨拶の後に向かったのは、戎橋から少し離れ、二本か三本路地に入った所にある古びた串カツ屋でした。「どうせオシャレなお店しか行ってないでしょ」という渡会さんの気遣いから選ばれたお店のようです。
関西弁が乱れ飛ぶ賑やかな店内で初めて食べる大阪名物の串カツは、その中身が得体の知れない食べ物でも私にはどれも新鮮で、いつもは少量を嗜む程度のビールが驚くほど進みました。おかげで会話も弾みます。研修医時代の想い出話に、開業医としての悩み。ご実家の総合病院に勤めておられる渡会さんも、彼女なりの悩みをお酒の力も借りながら話してくれました。
このままホテルに帰り、翌日のことも気にせず寝られたらどれだけ幸せか。そんな誘惑にも駆られましたが、飲食が一段落着いたところで、私は大阪で果たしたい目的を渡会さんにぶつけることにします。
「渡会さん、この後もまだ時間ありますか?」
時間はまだ午後九時前でしたが、四年ほど前に渡会さんは同じ病院で働く十二歳年上の名医とご結婚されており、かく言う私もその披露宴に参加しているので彼女の事情を知った上でそう尋ねました。
「まだ飲み足りないの?」
私からの間接的な珍しい誘いに、頬を赤らめた渡会さんは可愛らしい笑顔でそう聞き返してきました。その悪くない感触に、私は少しだけ勇気を振り絞って思いを伝えてみることにします。
「実は、もう一件行きたいお店があるんです」
「いいよ。付き合う」
「ありがとうございます!」
そうお礼を言う私は、その短い言葉すらはっきりと呂律が回ってないことを自覚していました。
御堂筋に出て捕まえたタクシーに告げた行き先は、「梅田方面へ」ということのみ。当然、渡会さんは怪しみ始めます。少し楽しそうに。
「ねえねえ、どこに連れて行ってくれるの?」
ここで私は真の目的を話すことにします。
「堂山町なんです」
「えーーっ!」
一瞬、運転手さんが後部座席を振り返るほどの驚きようでした。
「凛ちゃん、堂山町ってどういう所か知ってるの?」
「はい。すべて知った上でタクシーを走らせています」
私の性格なり、人となりをご存知の渡会さんが驚くのも無理はないでしょう。大阪に馴染みのない方はご存知ないでしょうが、梅田駅の南東に位置する堂山町は、新宿二丁目に並ぶゲイタウンとされている場所。私のような堅物でつまらない人間にとっては対極にある場所とさえ位置づけられてもおかしくありません。
「そっか。凛ちゃん、今日は相当酔ってるもんね」
「いえ、違うんです」
「違う?」
「はい。実は、いま治療している患者のお兄さんが、堂山町のゲイバーで働いているという話を聞いたので、あまりに情報が少ないその患者のことを少しでも知るために、この機会を使って行ってみたいなと」
「なるほどね。そういうことか」
話のわかる渡会さんはすぐに話を飲み込み、堂山町行きを了承してくれました。こうなれば行き先をこれ以上隠す必要はありません。
「運転手さん、すみません」
「何ですかー」
関西らしいイントネーションです。
「堂山町にある『反逆のバナナ』ってバーをご存知ですか?」
「はい? ごめん、もう一回言ってくれる?」
やや年配の運転手さんは耳が遠いらしく、「反逆のバナナ」という何とも意味深で恥ずかしい名前をもう一度言わせてきましたが、私は臆することなく一言一言を噛み砕くようにもう一度「反逆のバナナ」と言い切りました。しかしどうやら運転手さんはご存知ないとのこと。インターネットで調べたところによると、堂山町に同じ名前のゲイバーが存在することは確認済みなので、唯一の手がかりである住所を伝え、そこまで車をつけてもらうようお願いします。
タクシーが停まったのは、街の喧騒からやや外れた場所でした。しかし、やや暗めの通り沿いにある目の前のお店には、『反逆のバナナ』という看板が陳腐なネオンに彩られて光っているので間違いありません。店の雰囲気は想像していたよりもポップで、私たちは躊躇することなくその淫靡なムードを漂わす扉を開くことができました。後日談ですが、渡会さんもこの手の店は初体験だったそうです。
「いらっしゃ~ぁい」
いくつかに重なったその声はソフトなようで野太く、はっきりと男のものだとわかりましたが、どこか色っぽく、親しげで、緊張気味の私たちを和らげてくれる優しいトーンでした。カウンターだけの狭くるしい店内には、手前に坊主頭の小太り中年男性が客側の席に一人いるだけで、その彼をカウンター向こうにいる怪物が三人がかりで相手をしていたようです。店内はもっと暗いイメージを持っていましたが、意外と明るいことに驚き、この点はすんなりと好印象を抱きました。
一番右端にいた、明らかにかつらだとわかるボブヘアーの若い男が「ど~ぞ、こっちに座って~」と、空いている赤い丸椅子に案内してきます。指示された通りに右端から渡会さん、私の順に座ると、熱々のお絞りを渡されました。
「このお店は初めてよねぇ」
真ん中にいた角刈りの五十代くらいと思われる男性がこちらに近寄ってきました。ベースの効いた野太い声からして、入店時の挨拶は彼が中心だったようです。
「はい、初めてです」
そう言いながら、私は左端にいた四十歳前後と思われる金色の短髪男性に注視していました。事前に得ている情報だと、小柴の長兄は、小柴より十歳離れた四十五歳とのことなので、この二人のどちらかで間違いないのです。
「何飲む?」
酒焼けなのか、すっかりしゃがれた声でそう聞いてきたボブヘアーの男に、私はメニューを見ながら「ベルギー黒ビール」を、そして渡会さんが「カシスオレンジ」を注文しました。演奏者こそわかりませんが、何とも耳触りの良い音量で流れる、センスの光るジャズミュージックが未体験の異空間を程良く中和してくれています。
「本当なら誰かの紹介か、カッコイイ男の子を連れてこないと、女の子だけでの入店はお断りしているんだけど、お姉さんたちは真面目そうだし、今日は暇すぎるから大目に見てあげるわ。でも、次はカッコイイ男の子を連れてこなかったら締め出しちゃうからね」
馴れ馴れしくも、角刈り男は私たちの前でカウンターに寄りかかりながらそう言ってきましたが、その後ろで飲み物の準備をしているボブヘアー男が「うそ、うそ」と茶目っ気たっぷりの顔で口を動かしていたので、角刈りが言っていることは冗談だということがわかります。おかげで、最初は強張っていた渡会さんの顔も少し緩んでいました。
「お通しよん」
飲み物より先に出てきたのはタケノコの煮物でした。しかも提供してくれたのは、左端にいた金髪。タンクトップのおかげで否応なしに見せつけられる筋肉隆々のマッチョ体系は、小柴の体系に近いかもしれません。続けてボブヘアー男が笑顔で飲み物を出してくれました。
「今、飲み物を出した子が新入りの縦笛ちゃんで、お通しを出した子がハゲマルドンちゃん。二人とも地獄の番人みたいな顔をしているけど、根は優しい良い子たちだから心配しないでね」
グラスに入った氷をカランカランと回しながらそう話す角刈りに、ハゲマルドンが関西仕込みの突っ込みで釘を刺します。
「そう言うママが一番恐ろしい顔してるわよねぇ」
私たちは苦笑いをするしかありません。
「ちなみにママの名前はクヤシンス。この界隈では『西のダボハゼ』って呼ばれているのよ」
「ダボハゼ……」
何となくではありますが、その意味を察して聞き流そうとしたところ、意外にも渡会さんが「ということは、東にもダボハゼいるんですね」と縦笛の話に乗りました。
「そうなの。でも、あなたたち幸運だわ。いつもならそいつは新宿にいるんだけど、今日はたまたまここにいるの」
クヤシンスの視線が左端の坊主頭に向いたので、思わず私もつられて左を向いてしまいました。
「こんな機会はなかなかないわよ。日本の東西を代表する〝おさせ〟の両巨頭が揃うなんて」
ウインクをしながら私たちに声をかけてきた坊主男は、気障っぽく長いテーブルを使って名刺を滑らせてきました。それを手にして読んでみると、新宿二丁目にある『凸と凸』という店名の下に「堀男」と、字面からして武骨な名前が記されています。
「ホリオさん……」
「違~う」
「え?」
「ポリオみたいに言わないでよ。アクセントは頭じゃなくて、最後に持ってくるの。名字じゃなくて、名前のつもりで堀男。はい、もう一回言ってごらんなさい」
仕方なく私は教えられた通りに発音することにします。
「堀男」
「はい、よろしい。東京へお越しの際はよろしくね」
「はあ……」
曖昧な返事しかできなかった私に気を利かせてくれたのか、渡会さんは私が東京から来ていることを黙っていてくれました。その代わりにお通しのタケノコをひと口。
「美味しい!」
「でしょ!」
喜んだのはクヤシンスですが、説明を始めたのはハゲマルドンでした。
「見た目はバケモンみたいなママだけど、料理は本当に上手だからお昼はランチもやっているくらいなの。お通しは日替わりで、おつまみもハズレがないからどんどん注文してね」
半信半疑で料理版のメニューを見てみると、鍋物のきりたんぽから始まり、手作りソーセージやトッポギ、太巻きにお稲荷と、確かにひと手間かけた物ばかりでした。そしてその中に、私がここに来た目的を思い起こさせる一品を発見します。――スティックピロシキ。間違いなくロシアの食べ物です。その他にもスティック餃子やスティックケバブと、不思議と棒状の食べ物が数多く並んでいましたが、私にはピロシキだけが浮いた存在に見えました。話題作りには持ってこいです。
「じゃあ、ピロシキを一つ頂いていいですか?」
「スティックピロシキね。揚げるのにちょこっとだけ時間がかかるけどいい?」
「はい、構いません」
どうやら下ごしらえは済んでいるらしく、揚げる準備を始めたのは縦笛。私が持っていたメニューを覗きこんでいた渡会さんは、便乗して手作りソーセージを注文しました。
「ここの特製マスタードが本当に美味しくて、いつも瓶に詰めてうちのお店にも送ってもらってるの」
話に割って入って来た堀男は、すでに注文していたらしいソーセージの残っていた一本をわざわざフォークで刺し、マスタードをつけてこちらへ見せつけてきました。その堀男を交えて五人でメニューに載っている料理の話をしていると、仄かにパイ生地の揚がる良い匂いが店を包み始めます。
「お待っとさんでしたぁ」
長さ二〇センチほどはある棒状のピロシキにパセリが添えられ、見た目からして美味しそう。「いやん、痛い、鬼ね」などと訳のわからないことを言って、言葉で邪魔をしてくるカウンター向こうの三人を無視し、私はそれをナイフで二つに切り分けて片方を渡会さんの皿に移します。そして自分の分に手をつける前に顔を上げ、クヤシンスにターゲットを絞りました。
「本当に美味しそうなピロシキ」
「でしょ? それは何もつけなくても美味しいから。お熱いうちに召し上がれ」
「ロシアに何かご縁でもあるんですか?」
その質問があまりに唐突すぎたのか、クヤシンスの顔色が明らかに変わりました。
「何でそんなこと聞くの? 関係ないとまずいかしら?」
「いえ、そういうわけじゃなくて、ピロシキを作るなんて珍しいなと」
「私は作りたい物を作るだけ。人生と同じよ。やりたいことをやる。周りからダボハゼってバカにされても、死ぬ前に自分が『いい人生だった』って言えたら、それでいいじゃない」
タバコに火をつけたクヤシンスの言葉は、その容姿には似合わずとても重いものでした。自身がロシア系であることを隠したいのか、それとも単に詮索されることが嫌なだけなのか。今の反応だけでは真相を見出すことはできませんでした。串カツ屋で薄らとついたタバコの匂いにトドメを刺されるなと思いつつ、これも情報料の一つだと腹を括り、答えを焦らず、まずは目の前のピロシキを口にします。
「美味しい!」
私と渡会さんはほぼ同時に感想を口走っていました。ポッポッポと煙の輪っかを作りながら息を吐くクヤシンスの顔はどこか得意げです。
続けてボイルされたソーセージが二本、こちらもパセリが、そして堀男も大好きだというマスタードも横付けされて一緒に出てきました。一本まるごとは大きすぎるので、こちらも渡会さんがナイフで半分に切ろうとすると、またもやカウンターの向こうから「ああん、やめて、後生だから」という意味不明な邪魔が入りましたが、彼らの言動があまりに滑稽に見えたのか、渡会さんは噴き出しながらもナイフを持つ手を動かし続けます。
「これも美味しい!」
パリッと爽快な音と、肉の塊がしっかりと残った歯ごたえ。一緒に口の中に広がるソーセージだけでもしっかりした味付けなのに、それを引き立てるマスタードも絶品でした。つい褒めてしまったことで調子に乗ってしまったクヤシンスは、ソーセージからピロシキまで、こちらが覚える気がないのも気づかずにそのレシピについて細かく教えてくれます。そこから派生した「男は八割方、料理で落とせる説」が奇しくも男たちの間で盛り上がり、いつしか渡会さんもその話に加わっていました。
私以外の全員で「とどのつまり、男って単純なのよ」という結論を導き引き出して再度沸く連中を尻目に、私は改めてここへ来た理由を思い出し、何とか話の軌道を修正しようと試みます。
「皆さん、すみません」
それまで喧しかった店内が一瞬にして静まり、私に注目が集まりました。
「私の弟の話を聞いてもらってもいいですか?」
「断る理由なんてないわよ。話してごらんなさい」
クヤシンスがタバコを吹かしながら承諾してくれます。私はそれとなく話の主役が小柴であることを匂わせながら、クヤシンスの表情を窺うことにしました。
「実は私の二つ下の弟が今、虚言癖で悩んでいるんです」
一同が「えーっ!」と驚きの声を上げながらも、その渦中でクヤシンスが特別な態度をとった様子はありません。私は話を続けます。
「私の勧めで知り合いのメンタルクリニックに通わせているのですが、担当医の方とお話をしても弟の素が見えず、事実を確かめようもない話ばかりするので手を焼いているそうで、私としても今後どうしてあげるのが最善なのかと……」
少し誇張して話をしましたが、大事なのは内容よりも、クヤシンスがどう反応するかです。よく注視してやろうとしたとき、まったく関係のない左側から大きな反応があります。
「虚言癖って言っても、どんなタイプの虚言癖なの? 嘘の内容によっては対処の仕方も変わってくるわよ」
堀男です。左手で頬杖をついて、すっかり酔っぱらった様子ですが、その目はまだ死んでいません。ハゲマルドンが教えてくれます。
「あらあら、始まっちゃった。お姉さん。堀男ちゃんは某国立大の行動文化学で心理学をかじっていたから、その手の話を始めたら止まらないわよ」
まさかこの堀男がそんな高学歴とは――。その驚きはともかくとして、ターゲットであるはずのクヤシンスはさすがにまだ自分の弟の話題とは気づかないのか、呑気にタバコを吹かすだけ。面倒なことになってしまいましたが、話を進める他ありません。
「程度で言うと、まだ他人に大きな被害を与えるほどの酷い嘘ではないんですけど、今のうちに何とかしたいなと思ってるんです」
「弟さんは昔から嘘をつくような子だったの?」
「いえ、あるとしても、子供がつく平均的な可愛いものでした」
「ふ~ん、なるほどね。踏み込んじゃって悪いけど、お家の環境はどうだった? 大人になって客観的に見たときに、ご両親はちゃんと愛情を持って子育てをしてくれたと思う?」
意外にも堀男が、詳しい家庭環境を話せるように誘導してくれました。小柴が育った環境に似た話をするチャンスです。
「実は、父が仕事でずっと単身赴任でカンボジアへ行ったまま家に帰ってくることが少なくて、それで母の心も父から離れてしまったようで、私たちに隠れて別の男と逢瀬を重ねていて、私と弟もそれを薄々感じて成長していった感じですね。ですから、愛情深さを感じていたかというと、どうかなと……」
これを端に堀男がわかりきった人間の深層心理について語り始めます。さすがに心理学を勉強していただけあって、それだけで仮定の弟がこれから進むべき方向性がはっきりとするくらいの分析力でした。ただ失礼ながら、私はそのありがたいアドバイスを聞き流しながらクヤシンスの様子を窺うのですが、やはり殊更変化は見えません。ここからは「弟」について話を特化してみることにします。
「先生によると、つい最近、外国人の女性と大失恋をして心に傷を負ったのが原因かもしれないとも仰っていたんですけど、そもそも私は小さい頃から弟の気持ちがわからなくて。弟とどう接して良いのか」
「それなら縦笛がちょうどいいわ。この子、大家族の長男だから弟も妹も腐るほどたくさんいるの。ねぇ」
どうしても弟の存在を話したくないのか、クヤシンスは仲間に話を振るだけです。サラサラのボブヘアーをなびかせながら顔を近づけてきた縦笛が、今の私には何の必要もない情報を親身に提供してくれます。
「そうねぇ。兄弟愛って、親子愛と一緒で本来は自然愛だと思うの。だから駆け引き抜きの込み上げてくる感覚で私は弟たちと接していたけど、兄弟とは言え個人と個人ではあるわけだから、私の立場だと見守ってきたイメージかな。それで必要なときにアドバイスをしたり、手助けをする、みたいなね。お姉さんはどうだったの?」
冒頭にもあるように、私は一人っ子です。
「振り返ると、私に『見守る』っていう感覚はなかったかもしれませんね」
仮想小柴の実在しない弟を孤立させるための浅はかな作戦です。姉と弟の違いもありますが、兄、つまりクヤシンスから性的な悪戯をされたかもしれない小柴の体験をそのまま話すのは、今は露骨すぎて危険です。
「大人になると関係はより希薄になるし、私みたいに長男が桁外れの男好きっていう事情があったり、兄弟たちと離れて暮らしていたりして、昔みたいなコミュニケーションは図れないけど、お姉さんみたいにちゃんと弟さんの心配をして、お世話までしていることを考えたら、立派な兄弟愛だと思うわよ」
至極真っ当なアドバイスに、甚く納得させられてしまうほど雄弁な縦笛でした。
本来ならこの流れでクヤシンスに話を聞きたいところですが、もしもクヤシンスが小柴の兄ではなかった場合、兄弟の有無を尋ねるのは家庭事情によっては失礼に当たることもあります。そこで、話を弟だけに絞らず、ざっくりと家族のことがわかる質問をしてみることにしました。縦笛にはその犠牲になってもらいます。
「すみません。話は少し変わるのですが、縦笛さんはカミングアウトされるまでにご家族が障害になったりはしなかったんですか?」
「障害? そう言われたら、あったのかもしれないわね。私の場合は家族の世間的体裁を取るか、目の前の愛する男を取るかっていう葛藤で血反吐や血便が出るくらい悩んだから」
ここで私は目線と共にキラーパスをクヤシンスに送ります。
「そういうものなんですかねぇ」
クヤシンスの視線が私の視線と正面衝突しました。しかしクヤシンスはそんなことも気にせず、フワッと軽く白い煙を吐いた後、結露まみれのグラスに口をつけてからまた私を見たのです。
「私はホモとレズの偽装結婚の末に生まれたサラブレッドだから、そっちの障害はゼロなのよねぇ」
最後にクヤシンスがニヤリと笑ったのはどういう意味だったのでしょうか。確かに、弟が弟なら、兄も兄かと勘繰りたくなる告白でしたが、これを嘘だと片付けるには証拠が不十分すぎます。それに、小柴が話してくれた家族関係からして、両親が同性愛者だという事実はありませんでした。もしクヤシンスが話したことが事実なら、触れられたくない身内話でしょうし、これ以上突っ込むのは酷です。私は抜いた刀を元の鞘へ戻すことにします。
その後は、クヤシンスとハゲマルドンが男装のままの男好きで、縦笛が身も心も女性で男好き、堀男が男装のバイセクシャルと、それぞれがそれぞれのタイプについて語り、「一括りで男好きと言っても千差万別なのよ」という話を長々と聞かされました。私は仕事柄、何人もの性同一障害の方々から悩み相談を受けることも少なくないので大半は知っていたことですが、興味津々の渡会さんに合わせて適当に相槌を打つことに終始します。
そうこうしているうちに夜は深まっていき、家庭がある渡会さんの帰宅時間を気遣ってあげないといけなくなりました。
「じゃあ、そろそろ」
私は残っていた梅酒を飲み干した後、ありきたりのきっかけを作りました。会計を始める縦笛の横で渡会さんが財布を出すので、「誘ったのは私だから」とそれを制し、支払いを済ませたところで勝負に出ます。
「騙していたわけじゃないんですけど、実は、弟さんからお兄さんが堂山町でお店を開いているという話を聞いて今日は寄らせて頂いたんです」
「え?」
クヤシンスのつぶらな瞳がより一層、つぶらに広がりました。その驚きの意味がすぐにわかります。
「私、生粋の一人っ子よ」
それはあまりに自然な答え方でした。例え嘘だとしても、これ以上突っ込むわけにはいきません。
「あっ、そうなんですか? じゃあ、私の聞き間違いだったのかなぁ」
下手なりに芝居をうってその場を誤魔化し、それ以上は話を広げることなく「楽しかったです」と一言つけ加えてから私たちは店を出ました。
「消化不良だった?」
渡会さんはそう聞いてきましたが、私は「無駄ではなかったですよ」と前向きに答えました。
梅田駅まで渡会さんをタクシーで送り、そこから新大阪近くのホテルまで、私はクヤシンスの言動をもう一度振り返りながら心の中で呟きます。「小柴とクヤシンスは無関係である」と。顔と体形が小柴とは似つかないこともそうですが、クヤシンスの話が私には嘘には聞こえませんでした。クヤシンスがもしも本当の小柴の兄であれば、小柴にとっては忌まわしいはずの兄弟話も、彼の明け透けのない大らかな性格なら、仲間うちで笑い話にしていると思ったのです。今回の嘘についてはきっと、小柴がたまたまメディアを通して知った、或いは偶然行ったことのあった『反逆のバナナ』を利用して話を広げただけ。推測の域は脱しませんが、私はそう結論づけたのです。
おかげで私のスタンスは固まりました。小柴の話、特に確認の取れない、もしくは取りにくい物はすべて嘘だと決めつけて話を進めていく。そして、『オオカミ少年』の主人公である嘘つき少年に倣い、小柴のことを暗に「クマ男」と呼ぶことに決めました。彼には気づかれないよう、一人の患者としては少し距離を置き、一歩引いた姿勢で接することで、今までのように彼の嘘話に入り込まないようにするのです。
私はもう、騙されない。そう決心できただけでも、大阪の時間はとても有意義なものになりました。