小柴との出会い
念願だった自分のクリニックを開業し、約二年が経過していた五月下旬。日中にもなると半袖でも過ごせるくらいの気候になっていました。上京後にマンションを借りて以来、すっかり住みついている中野坂下近辺に、不精ではありますがクリニックも同じく構えているのですが、その日も穏やかな日和だったことを覚えています。
まだまだ軌道に乗っていないクリニックの経営下、なけなしの資金を繰り出して半年に一度の大掃除を業者に依頼した日でもありました。経理事務を任せている綾乃さんと事務手伝いを任せているパートの葉那さんの三人でやっている小さなクリニックですが、それでも私が経営者です。少しでもコストを抑えるために狭い知人の伝手を辿り、開業以来、太田さんという方がご家族を中心にしてやってみえる清掃会社にお願いしていました。
お昼過ぎに所謂「五月病」を患った若い社会人女性の診察を終え、彼女を見送った後、事務室に戻った私は鞄から弁当箱を取り出して昼食の準備を始めます。前日に夕食を自炊できた場合、少し多めに作って翌日の昼食に充てているのです。先に昼食を取っていたスタッフの綾乃さんと葉那さんに加わり、その日の予約状況など仕事中心の話をしながら食事をしていると、お昼休みに入った太田さんたちが事務室に入ってきました。
「ご苦労様です」
正式な挨拶は朝の時点で済ませているので、私は立ち上がって軽い声掛けをし、葉那さんが冷たいお茶の用意を始めます。そのまま私は座ってまた食事に戻るつもりが、すぐには座ることができませんでした。「どうぞお気になさらず」とお気遣いの言葉をかけてくださった太田さんの後ろに、朝の挨拶時には見なかった新顔の姿があったのです。以前までのパートナーは、もう少し年齢の若い男性だったので、私はついその疑問を口にしていました。
「新しい社員さんですか?」
いつも通り控えめな姿勢でソファーに腰を下ろす太田さんは、首にかけていたタオルで額に浮かぶ汗を拭きながら答えてくれます。
「いえ、こいつは嫁方の甥っ子でしてね。前にいた社員が三月に辞めてしまったので、強制的に手伝わせているんです。お恥ずかしい話、三〇を過ぎても定職に就かず、フラフラしているもので、これを機にうちを手伝わないかと。まぁ、まだ見習いですね」
そう話す太田さんの後ろで、無愛想に軽くお辞儀をしてきた男こそが小柴でした。地肌が透けて見えるくらいの短髪で、もみあげから続く薄っすらと生える顎ヒゲと口ヒゲもそうですが、その恰幅の良さからして熊のような男という表現がぴったりです。
太田さんと小柴はコンビニ袋からサンドイッチやらおにぎりといった軽食を取り出し、ペットボトルのお茶と一緒に会話もなくたいらげます。私たちはいつも通りの気兼ねない雰囲気で食事することもできず、淡々と昼食を済ませました。その後、私と太田さんを中心に世間話が始まりましたが、小柴は黙って携帯電話をいじるだけで会話に参加しようとはしません。この時点での小柴に対する印象ですが、初対面ということもあり、特別気になるような人間には映りませんでした。このまま小柴が業者の一人で終わっていれば、その程度の記憶すら残らなかったと思います。
ちょうど予約患者がいない夕刻前に、診察室の清掃を終えた太田さんが清掃終了の報告をしに事務室へと入ってきました。「確認を」ということで一緒に診察室を見に行くと、決して新しくはないオフィスの二階を改装した張りぼての室内は、清掃をしたという先入観も手伝い、とても清々しい空気です。
「ありがとうございました。ああ、気持ちいい。半年に一度味わえるこの空気は、患者さんのためというより、私自身のためにやっているような気がします」
「それはそれは。喜んで頂ければ幸いです」
笑顔の太田さんから請求書の入った封筒を渡され、出口までご案内すると、その直前で太田さんが立ち止まります。
「別件で、ひとつよろしいですか?」
さっきまで笑顔だった太田さんの顔が申し訳なさそうになっていました。
「どうかされましたか?」
「実はですね。昼にご紹介した甥っ子のことで」
このとき初めて小柴が一緒にいないことに気づきます。
「そういえば。先に車へ戻られたんですか?」
「それがですね、清掃を終えて片づけをしている最中に『友人が事故をして病院に運ばれたらしいから、先に帰りたい』と言うんで帰したんです」
「ああ、そうなんですか。大事に至らなければいいんですけど」
赤の他人を心配して間もなく感じたのは、何で身内の私的なことを私に言う必要があるのだろう、ということです。職業病でしょうか。私が太田さんの思惑を推測し始めます。すると、その途中で太田さんが自らその理由を話し出しました。
「いやね。もう仕事は終わっていますし、業務上は特に支障はないんですよ。ただ、四月からまだ二ヵ月ほどなんですが、あいつとずっと一緒に過ごしていて、本当に友達が事故を起こしたのかなぁと信じられなくて」
「と言いますと?」
「私ね、もしかしたらあいつは、虚言癖じゃないかと思っているんです」
――虚言癖。周知の通り、嘘をつく癖があるということです。当然、私も何件もの虚言癖患者を診てきましたが、それまでの経験からすると私の中では比較的、対処しやすい症状で、重度か軽度か、また病的なものかどうかを判断すればそれほど手を煩わされることもありませんでした。
「仕事は真面目で、遅刻も欠勤も未だに一度もないのですが、今日のことだけではなく、たまに話す内容も、他の社員から聞く話の内容も、何だか嘘くさい話ばかりなんです。義理とは言え甥っ子ということもありますし、会社的にもすぐ辞められては困るので、後々困らないように今のうちに手を打っておいた方がいいのかなと」
これだけ聞けば、次に太田さんが言おうとすることがわかりました。
「お支払いの方はちゃんと私がしますので、一度あいつを診てやってくれませんか」
予想通りです。もちろん断る理由はありません。ありませんが……。
「ご本人はこの事をご存知で?」
「いえ、まだ知りません。でも、私が説得してこちらに来させますので、是非先生に診て頂きたいなと」
「ご本人が納得されたのであれば、私はまったく問題ありませんが」
太田さんは「そうですか!」と喜びの声を上げた後、「よろしくお願いします」とご丁寧にも頭を下げてくださり、小柴から時間の都合を聞いてまた連絡するとの旨を告げてからクリニックを後にしていきました。
この後の私は、強迫神経症を抱え、自殺願望を口にする高校生の少女と面談する約束があったので、すぐに気持ちを切り替えて準備をするために事務室へと戻ります。緊張感を強いられる面談が予想されていたので、小柴のことなどもう頭にはなかったはずです。